終章
クリスマスを目前に控えた週末の新宿。先週までの強風を伴った寒波は幾分和らぎ、道を歩く人々の表情も心なしか穏やかだった。昨年の混乱と破壊の爪痕はまだ完全に消えたわけではないが、多くの人が行き交っている。賑わいは既にテロ前の水準に戻っていた。
新宿二丁目の一角。リニューアルしたビルの入り口には警備員がおり、たくさんの花が並んでいた。入り口上のボードには「DROP」の名前。入り口から五十メートルほど、着飾った若者たちの行列ができていた。
扉が開き、次々と若者たちが中へ入っていく。その姿をカメラマンたちが撮影しいた。
「さあ、始まったぞ」
スーツ姿の雄大が、目を輝かせてホールに入ってくる人々をモニター越しに見つめていた。雄大の隣で伸也もモニターをのぞき込む。
伸也の体は既に透明で、ウォームアップを終え、軽く上気していた。最後のステージから二年以上が経過していた。緊張していたし、不安もあった。しかし、この日のためにきっちりトレーニングを積んできたし、コンディションもベストだ。
開演一時間前にもかかわらず、座席はほぼ埋まっていた。発売された一ヶ月分のチケットは雄大たちの不安をよそに、わずか五分で完売していた。伸也は奥の座席に邦明の姿を見つけた。
「不審物がないか、ちょっと店のチェックをしてくるよ」
雄大は落ち着きなさげにウォームアップルームを出て行った。
SNSでは予想通り放火や爆破予告が相次いだが、あらかじめ相談していた警察との連携で次々とユーザーが特定され、威力業務妨害で起訴された。無論予告もなく実力行使に出る輩がいる可能性もあるので、ホールだけでなく、周辺にも警備員を配置していた。それでも雄大は不安なのだろう。今日はこれで三度目のチェックだった。
ベンチに座っていた麻衣子が立ち上がり、伸也の手を握った。
「やっとここまで来たわね」
「ああ」
伸也は強く頷いた。
「明美ちゃんもよかったわね。もうすぐお父さんのダンスを見られるわよ」
麻衣子はふっくらとし始めたお腹を優しくさすりながら呟いた。伸也は少し戸惑ったような目をしながらも微笑んだ。
「伸也、麻衣子」出て行ったはずの雄大が、すぐに戻って来た。「珍しい人がロビーをうろついていたから連れてきてやったぞ」
雄大の後ろから、女性が一人、恐る恐る入ってきた。ほっそりした体型で、少し足を引きずっている。
「奈緒、来てくれたのね」
奈緒が麻衣子を見つけ、不安げな顔がぱっと輝いた。麻衣子が駆けより、二人は抱きしめ合った。
「久しぶり」
ほぼ一年ぶりに見た奈緒は、化粧のせいもあるかも知れないが、以前よりもかなり大人びた顔をしていた。
「奈緒、来てくれてありがとう」
「あたしね、絶対初日のチケットをゲットするんだって、スマホに念じながら必死でクリックしたんだ」
「何よ。言ってくれれば席をとって置いたのに」
「へへへ。ちょっと恥ずかしくって……ていうか麻衣子、あんたこのお腹どうしたのよ。もしかして妊娠?」
「うん……六ヶ月」
「おめでとう」
奈緒が再び麻衣子を抱きしめた。麻衣子は目に戸惑いの色を見せながら、奈緒の背中にをおずおずと手を回す。
「麻衣子、あんた自分が妊娠したからって、気後れしているんでしょ」
奈緒は麻衣子の肩を掴みながら体を離し、微笑みを浮かべながら顔をのぞき込む。
「あたしは大丈夫。もちろん赤ちゃんを抱っこしている女の人を見ると、心臓がぎゅって締め付けられるときもあるわ。でもね、どうしようもないことを恨んでもしょうがないっていつも自分に言い聞かせてる。死にかけたあたしに、北村さんが言った言葉をいつも思い出しているの。『希望と生きる、それは同じ意味なんですよ』って。
あたしはいろんな希望や可能性を閉ざされた。でもね、生きている限り真っ暗闇なんてない。針の穴みたいに小っちゃいかもしれないけど、希望の光はあるし、それに向かっていけば未来は切り開かれていく。そう思ってるんだ」
伸也は奈緒の様子を見て、密かにほっと息を吐いた。
奈緒はもう子供を産めない体になっていた。そんな彼女に麻衣子の妊娠をどう伝えるかずっと悩んでいたのだ。彼女の心は以前よりも、ずっと強くなっている。
「ねえ、ちょっと見て」奈緒は肩に掛けたハンドバッグからスマホを取り出し、画面を見せた。そこにはかわいらしい三毛の子猫が写っていた。「あたし、犬猫の一時保護のボランティアをしているんだ。この子は先週まであたしが預かっていた子猫ちゃん。いい里親が見つかって、引き取られていったの。仕事をしながらボランティアしているといろいろ大変だけど、命を繋いでるっていう実感は代えがたいわ」
「よかった」
麻衣子はキラキラした目で笑みを浮かべる奈緒を、改めて抱きしめた。
「もう結婚はしたの?」
「籍は入れたけど、結婚式はまだ。DROPの運営が落ち着いてきたらしようって話しているの。ねっ」
麻衣子の笑顔に伸也が笑みを返しながら頷く。
「結婚式には絶対呼んでよ」
「わかったわ」
伸也も麻衣子と奈緒のところに行こうと歩きかけたときだった。不意に視線を感じて背後を振り返る。
そこには空っぽのスチールキャビネットがあるだけで、誰もいない。
一瞬、周囲の喧噪が消え、目の前が真っ暗になる。
丸くてつぶらな瞳の、ちょっと情けなさそうに笑っているおじさんの顔が浮かび上がって消えた。
音と明るさが戻った。周囲を見回したけれど、その姿はなかった。
北村さん。
あなたも来てくれたんですね。ありがとう。伸也は心の中で呟いた。
あっという間に時間は過ぎ、開演五分前になった。伸也たちダンサーは舞台袖へ移動した。既に開場にはダンスミュージックが流れ、興奮した観客が、拍手をしたり歓声を上げたりしていた。麻衣子と奈緒は観客席で伸也たちの出番を待っている。
伸也は目を閉じる。
父さん、母さん、荒川さん。そして北村さん。見ていてくれ。
世界では闇が溢れ、俺たちを覆い込もうとしている。それを俺たちは光で押し返すんだ。
「さあみんな、集まってくれ。円陣を組もう」
雄大の呼びかけに、伸也をはじめとするダンサー、その場にいるスタッフが肩を組んだ。
「DROP、気合い入れていくぞっ」
「おうっ」
円陣が崩れ、伸也たちは走り出した。観客が待っているステージへ向かって。
本作品執筆のきっかけは、NHK朝ドラ2019年前期の「なつぞら」でした。
この作品の中で、広瀬すずと清原果耶の演じる姉妹が生き別れになるエピソードがあります。僕はぼけっとテレビを見ながら、この姉妹はどういう風に再会するんだろうかなあと、その後の展開を想像していました。
結局ストーリーは、僕の考えとは違う展開となりました。だったらこの話を元に小説を書いてみようという気になり、始めたのがこの作品です。
話のラスト以外は何も決まっていませんでした。取りあえず、透明人間を軸に展開しよう思い、ろくにプロットも考えず書き始めたのが2019年末。まあなんとかなるだろうと書いていましたが、話がどんどん広がって終わらない。結局書き終えたのが2023年2月。46万語を費やし、3年2ヶ月もかかってしまいました。
10万語を超えた時点でアホみたいに長くなるのは確実だったので、商業出版は夢のまた夢。そもそもアマチュアが書いたこんな長い小説を読んでくれる人なんているのだろうかという思いが執筆中、ずっと頭の中から離れませんでした。
正直書くのを止めちまおうかと思ったことも何度かあります。しかし、書き進める中で、コロナ禍やアメリカでの暴動、ウクライナ戦争といった、かつてない事態か起きていきます。それらに対する自分の思いが作品に反映されていく中で、この作品は僕の中で徐々に重要なものになっていきました。それは作品を作るというより、作品が育っていくという方がしっくりくる過程でした。
これから2025年にかけて、さらなる混乱が私たちを襲っていくでしょう。そんな2024年の初頭、ささやかながらも自分思いを発表できてうれしく思います。
皆様の貴重な時間を使ってこの小説を読んでいただき、感謝を申し上げます。
ありがとうございました。
本作では以下の文献を引用させていただきました。
「善悪の彼岸」ニーチェ著 木場深定訳
「老子」蜂屋邦夫訳
いずれも岩波文庫




