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第三部 闘争 33

 春が過ぎ、DROP復活に向けたプロジェクトは動き始めた。トレミティがDROPを支援することが正式に発表され、メディアやSNSでは驚きの声が上がり、賛否両論が渦巻いた。ただ、否定派にしても大判は襲撃や暴動の再発に対する懸念で、半透明症的な言説は大幅に少なくなっていた。もちろん完全に鎮火したというわけではなく、反透明症のSNSアカウントからは、怒りの投稿が寄せられた。彼らはトレミティへの来店拒否を呼びかけ、中には店への放火予告や、トレミティで食事をすると透明症になるといったデマも投稿された。トレミティは過激な投稿に対して即座に法的な処置を取った。

 同時にホールの改装も始まり、コンクリートがむき出しになっていた室内に、タイルや壁材を貼り始めた。ひっそりと練習を続けていたDROPのダンサーも、警備員と防犯カメラを大量に配備した上で、レッスンスタジオを再開させた。

 伸也も練習に加わっていたが、体のふらつきは相変わらずだった。ただ、発症当初のような悲壮感はなく、淡々とトレーニングを積んでいた。むしろ周囲が焦りだしている。

「雄大も、伸也が治っていないのに、どうして再開を年末に決めちゃったのよ」

 麻衣子は会議から戻った伸也の報告に憤慨していた。

「しょうがないだろ。これでもスケジュール的には限界なんだ。スタジオは秋には完成する予定だし、他のダンサーやスタッフも仕事をしたくてうずうずしているんだ。俺一人のために延期するわけにはいかないよ」

「でも伸也は一番お金を出しているのよ。それくらい考慮したっていいじゃない」

「確かに金は出しているけど、俺はあくまでもDROPのダンサーの一人だからな。しょうがないよ。ごねて全体の士気が下がるのも避けたいしな。ま、治ったら出ればいいさ」

「でも、記念のステージなのよ。伸也だって出たいと思うでしょ」

「そりゃそうだ」

「こんなに心配しているのに、他人事みたいな言い方しないでよっ」

 泣きそうな顔をしている麻衣子を伸也は優しく抱きしめた。

「大丈夫。きっと治るよ。貴斗の件は自分の中で整理がついている。後は体の反応次第さ。そのタイミングは近いうちに来るはずだよ」

「本当に?」

「ああ。俺が言っているんだから間違いないよ」

 それでも夏が過ぎ、朝晩に肌寒さを感じ始めた九月になってもふらつきは改善されなかった。雄大は当初、伸也をメインとしたプログラムを考えていたが、このままだと修正せざるを得ないと言ってきた。

「申し訳ない。あくまでも第二のプランだが、お前が治らなければそれで進むしかないんだ」

「しかたがないですよ。あくまでもDROPを再開させることが先決ですから」

 済まなそうな雄大に対して、伸也は余裕とも思える笑みを浮かべて答えていた。


 十月に入ったある日の夜。伸也はふと目覚めた。携帯電話の時刻は午前二時。あのときと同じだ。横で麻衣子が寝息を立てているの確認して、ベッドから出る。

 リビングへ行って、照明のスイッチに手を伸ばしたが、途中で止めて、手探りでソファへたどり着いて座った。冴え冴えとした意識の中、じっと暗闇を見つめる。

 闇が動いた気がした。

「そこにいるのは玄ですね。ずっと待っていたんですよ。やっと来てくれた」

 伸也が微笑むと、今度ははっきりと闇が揺らいだ。

「あなたはあの地震の時、タキオン場の真空凝縮が起きて、Dブレーン同士が交差しようとしていると奈緒に言わせましたね。あの後、北村さんはどうやって交差を止めたんだろうと考えました。Dブレーンの交差を画策していた辻田を北村さんが殺したのでしょうか。でも、北村さんは優しい人だった。荒川さんのマンションで襲ってきたグロウメンバーを殺してしまったときも、激しく動揺していた。そんな北村さんが、殺人などなんとも思わない辻田と対峙したとき、本当にあいつを倒せたんでしょうか。ずっと疑問に思ってきました。そんなとき、あなたはあの言葉を僕にくれた。

――万物は陰を負い陽を抱き、沖気以て和を為す――

この言葉の意味をずっと考えていました。老子、宇宙論、物理学。いろんな本を読みました。それでようやくわかってきました」

 伸也は慈しみを込めた目で闇を見つめた。

「玄、あなたは北村さんですね。そして同時に辻田だ」

 闇がふたたびゆらぐ。

「陰は辻田、陽は北村さん。二人は戦ったんじゃない。結びついて玄となったんだ。だからこそ玄は時に善として北村さんの元へ現れ、時に悪として辻田の元へ現れた。そうでしょ。

 北村さんは辻田と反粒子の辻田が接触する直前、辻田と結びついた。結びついた存在はタキオン場に留まり、真空凝縮を防いでいる。

 北村さんと辻田が一つになった玄は、北村さんと辻田に大きな影響を与えた。タキオン場を支配する始まりも終わりもない虚時間が、実時間の支配する光速を超越し、そのパラドックスを可能にしたんだ。

 それ故に玄は、この四次元時空すべてに感情子(エモビトン)を送ることができるんだ。だから過去の時間にも現れて、僕たちへもメッセージを送った。

 俺はどうして透明症が起きたんだろうかとずっと思っていました。でも今は理解できる。透明症は真空凝縮によって起きた時空のゆがみだったんだ。玄はそのゆがみを正すためこの四次元時空に関与したんですね。北村さんの善も、辻田の悪もそのプロセスの要素だった。だからあの地震の後、ぱったりと透明症は消えたんだ。玄が生まれた時――北村さんと辻田が一つになった瞬間――は、透明症にとって、始まりであり帰結だったんだ。

 俺がどうして選ばれし者になったのかもわかります。北村さんの少ない交友関係の中、透明症で且つ心が揺らいでいる人が俺で、貴斗と奈緒は俺からのつながりだった。麻衣子は強い心を持っていたから選ばれなかったんだよね。

 俺は思うんだ。北村さんと辻田では、ほんのちょっとだけ北村さんの力が強いんじゃないのかって。

 世界では今もひどいことが起こっている。罪のない人が理不尽な理由で抑圧され、暴力を受け、殺されています。食料が行き届かず、ひもじい思いをしている人や、劣悪な環境で病気になっている人もいます。でも、世界は少しずつよくなっている。

 透明症は消えました。世界は地震で起きたダメージから立ち直り始めている。ニューヨークは壊滅したけど、新たな都市が建設され始めている。アフリカの国々は未だひどい状況だけど、一部の地域ではでは治安を取り戻しつつある。

 これまで、人間の歴史は山ほどひどいことがありました。それでも人間がどうにか生きてこられたのは、ほんのちょっとだけ北村さんの善が辻田の悪を上回っていたからだと思うんだ。

 俺が貴斗を殺したのは悪だった。でも、奈緒や麻衣子を助けるという善の方がほんの少し上回っていた。つらい選択だったけど、俺は正しかったんだ。今では胸を張ってそう言える。

 これからも人類にはひどいことだたくさん起こるでしょう。でもいいこともたくさん起きます。そしていいことの方が、悪いことよりもほんの少し多いんだ。

 北村さん、あなたは俺との別れ際にこう言いましたね。『これからは先生の周りの人たち一人一人に「幸せですか」と問いかけてください。そして、そのひとが「はい」と答えてくれる世の中を作ってください』と。

 北村さんの言葉を忘れません。そうすれば、辻田が現れることはない。きっと俺たちは幸福になっていくんだ。

 俺はそれを知っている。

 北村さん、また来てください。俺の有限の時間の中、精一杯の感謝を伝えます」


「ねえ伸也、起きてよ」

 肩を揺すられ伸也は目を開けた。開いたカーテンから朝日が差し込んでいた。視線を上に向けると、不満げな顔をした麻衣子の顔があった。

「なんでこんなところで寝ているのよ。風邪引くでしょ」

 いつの間にかソファにもたれ掛かって眠っていた。こわばった体をほぐしながら体を起こした。いつの間にか眠っていたらしい。しかし、夜のことはくっきりと脳裏に焼き付いていた。

「なんでこんなところで寝ていたの?」

「昨日、玄が現れて話をしていたんだ」

 伸也は立ち上がり、テレビの前に移動すると、軽くストレッチをした。

「へえ、そうなんだ」

 軽くステップを踏み、ターンを決める。その様子を麻衣子が訝しげに見ていた。

 伸也はニコリと微笑み、麻衣子を抱きしめた。

「な、何よいきなり」

「治ったんだよ」伸也は麻衣子の柔らかなぬくもりを感じながら呟く。「ふらつきが」


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