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第三部 闘争 31

 ある日の夜、眠っていた伸也は唐突に目が覚めた。隣では麻衣子が寝息を立てている。手を伸ばし、ヘッドボードにある携帯電話の画面を見ると、午前二時と表示されていた。

 今まで夢を見ていた気がするが、どんな夢かわからなかった。ピントがずれた映像のように頭の中の画像がぼやけていた。麻衣子を起こさないようそっとベッドから出て、キッチンへ行った。

 照明を点ける。LEDの無機質な光に目を瞬かせながら引き出しにあるボールペンを取り出し、適当な紙がないか探す。

 渋谷を歩いていたときに渡されたラーメン屋の新規開店チラシがあった。裏返してテーブルに置く。椅子に座り、白い紙を見ながらボールペンのペン先を押し出していた。

 俺は何をやっているんだと思いながら、情動に突き動かされて紙に字を書いた。

――万物は陰を負い陽を抱き、沖気以て和を為す――

 伸也はボールペンを置き、腕を組みながら文字を睨み付けた。一体これは何なんだ? 自分で書いておきながら、何を意味しているのかわからない。

 背後に人の気配を感じて振り向く。誰もいなかった。

 携帯電話を手に取って、自分の書いた言葉を検索してみた。どうやらこれは「老子」のなかにある言葉らしかった。しかし生まれてこのかた、老子なんて読んだことはない。

 玄。

 そういえば、玄というのも老子の中に出てくるんじゃなかったのか。伸也はもう一度辺りを見回したが、やはり人のいた気配は消えていた。

 玄、これはあんたが書かせたのか?

 心の中で呟いたが、問いかけに答える者は誰もいない。

 照明を消してベッドに戻ったが、妙に高揚した気分になって、そのまま眠れず夜明けを迎えた。ランニングをして朝食を食べた後、新宿駅の中にある開店したばかりの書店へ行った。普段あまり踏み入れない文庫本のコーナーへ行き、本を物色する。

「これだ」

 文庫本の中でも、ひときわ地味な背表紙の本を手に取った。

「老子? 何よそれ」

 訝しげな顔をしている麻衣子を無視してレジへ行き、本を購入した。マンションへ戻り、早速読み始めた。

「ねえ伸也、どうしてこんな本を読み始めちゃったの?」

 昼食のペペロンチーノを食べながら、麻衣子がテーブルの横に置いてある老子を胡散臭そうな目で見ていた。

「昨日の夜、玄が現れたんだ」

「ここに?」

「うん、声は聞こえなかったけど、あの気配は玄だったよ」

「で、玄が老子を読めって言ったの?」

 伸也は首を振った。

「俺に、この言葉を書かせたんだ」

 昨夜、チラシの裏紙に自分が書いたものを見せた。

「万物は陰を負い陽を抱き……。何書いてあるんだわかんないんですけど」

「老子の中に出ている言葉だけど、俺も何を意味しているのかよくわかんないんだ。きっと玄はこの意味を考えろって言っているんだ」

「それでこの本を買った訳ね」

「ああ」

 三日後、老子を一通り読んだが、何を言わんとしているのか全くわからなかった。再び書店へ行き、参考になりそうな本を購入して読み始める。


 三月に入ると寒い日に混じって、少しずつ暖かい日が出て来はじめていた。伸也の読書は相変わらず継続していた。

「今度は何の本を読んでいるの?」麻衣子はつまらなそうに伸也の横に置いてある本を手に取ってパラパラとページをめくる。「ビッグバンて、韓流のグループでしょ。なんで宇宙の話に出てくるのよ」

「いや、あいつらが宇宙論の用語から名前を付けたんだよ」

「ふうん。それより、本ばっかり読んでいないで、ジムへ行こうよ。体がなまっちゃうわ」

「そうだよな」伸也は立ち上がり、軽く伸びをした。

 本の横に置いてあった携帯電話がバイブレーションし始めた。画面には雄大の名前が表示されていた。伸也は画面をスライドさせた。

「伸也喜べ、スポンサーが付いたぞ」

 興奮気味の声が聞こえてきた。

「あの……スポンサーって何のことですか?」

「もちろんDROPだよ。ホールを借りるのに、そこが保証人になってくれるんだ。銀行の偉い人も紹介してくれるってさ」

「凄いじゃないですか。DROPが再開できそうですね」

「そうなんだ。で、そのスポンサーなんだが、聞いて驚くなよ。トレミティだ」

「えっ?」

 瞬間、頭を殴られたような衝撃を受けた。心臓が激しく鼓動し始める。

「なんだよ。お前だってトレミティぐらい知ってるだろ。有名なイタリアンレストランチェーンさ」

「ちょっ、ちょっと待ってください。一旦切ります」

「なんだよ、まだ話さなきゃならない――」

 一方的に通話を切り、麻衣子を見た。急に真剣な表情をし始めた伸也に、ただならぬ事態が起こったのを感じ取ったのだろう、向かいの椅子に座る。

「お前、雄大さんに俺の父親のことを話したのか?」

「話すわけないじゃない。もちろんあれだけのお金を融資するんだから、伸也とのお父さんがお金持ちだったって言うことはわかっているけど、それだけよ。雄大さんも透明症にはいろんな事情があるのはわかっているから、深く詮索しなかったわ。独自に調べることもないはずよ。あの人も伸也を信頼しているから、お金の出所がまともなところだって確信しているのはわかっているでしょ」

 携帯電話が再びバイブレーションし始める。伸也は腕を組んで天を仰いだ。

「雄大さんは何の話をしたのよ」

「DROPの再開に、トレミティが協力するっていう電話だよ」

「あら……」

 トレミティはどういうつもりでこんな申し出をしたんだ。弟はこのことを知っているのか。深呼吸をして落ち着けと言い聞かせるが、心臓は激しく鼓動したままだ。バイブレーションし続ける携帯電話を手に取り、震える手で画面をタップし、スピーカーモードに切り替える。

「すいません……。えっと……火にかけた鍋が吹きこぼれちゃって」

「それでこの件なんだがな」雄大の声が部屋に響く。「不動産会社も乗り気でさ、旧DROPのビルが使えそうなんだ」

「でも、どうしてトレミティはスポンサーになるなんて言い出したんですか」

「社会貢献の一環だそうだ。あそこの社長が暴動で殺されたから、ネットで反透明症の連中が、〟社長は悲劇の主人公だ〟みたいな投稿をしているのは知ってるだろ。でもトレミティとしては店にヘイト的なイメージがつくのを避けたいんだ。それで俺たちを支援することによって、反透明症のイメージを中和したいわけさ」

「トレミティはどうやって俺たちのことを知ったんですか」

「俺がSNSでDROP再建計画の投稿をしているだろ。あれをトレミティの専務さんが見てたんだ。なんと専務さん自らDMしてきたんだせ」

「専務って……」

「今村さんさ。殺された社長の息子さんで、まだ若い人だよ」

 頭から、すっと血の気が引いていく気がした。


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