第三部 闘争 18
北村は冷たいアスファルトの上で倒れているのに気づいた。ここはどこなんだと思いながら、体を起こして周囲を見回した。
「パブ アミーゴ」「停車場」「バレーラ」派手で垢抜けない字体の看板が目に入ってくる。店が入っているビルはどれも三階程度で、古びた印象だ。地方都市の飲み屋街といったところか。
昼間のせいか人通りはなく、通りは廃墟のようにがらんとしていた。冷たくて埃っぽい風が通り過ぎ、体温を奪っていく。
「おーい、宮本先生」
声は通りの彼方へ吸い込まれて行くだけで、反応はなかった。どこへ行ってしまったんでしょうかと思いながら、とぼとぼと歩き始めた。
「どんぐりころころ ドンブリコ おいけにはまってさあたいへん」
どこからか、小さな女の子の歌声が聞こえってきた。きれいな声だなと思って前を進んでいたが、これって何か意味があるんじゃないかと思い、はっとして立ち止まった。
声がする方向を探りながら、元来た道を戻った。声は右の路地から聞こえてくる。入っていくと、ビルとビルの隙間のような場所に女の子が座っているのが見えた。ダブタブのジーンズに色あせたオレンジのトレーナーを着て、汚れたビルの壁に背中を預けている。
「こんにちは、そんなところで何をしているんですか」
女の子は北村の姿に気づくと、驚いた顔をして歌うのを止め、首を膝に埋めてしまった。
「すいません、宮本さんという方を知りませんか?」
女の子は顔を埋めたまま微動だにしない。完全拒否している女の子に更に問いかけるのは気が引けるが、ここは普通の世界じゃないんだから、勇気を持って行かないとと思う。
ビルの間に踏み込み、しゃがんで女の子の耳元にささやいた。「宮本さんを知りませんか」
「知らない」
か細い声が聞こえてきた。
「そうですか」
立ち上がりかけたが、再びしゃがみ込む。「あの。……ぶしつけかと思いますが、ここで何をしているんでしょうか。」
「お母さんが知らない人と話しちゃだめだって」
「そのお母さんはどこにいるんですか。こんなところに小さな女の子を一人で残すなんて、いいことではありません。それにその服だけだと寒くありませんか」
「ここだとあんまり風がこないから大丈夫」
「それでは、お母さんはどこにおられるのですか」
「おうちの中」
「あなたはどうして外におられるのですか?」
「お客さんが来たから、あんたは外に出ていろって」
「寒空の下、年端もいかない女の子を家から追い出すとは、聞き捨てなりません」
思わず語気が強くなったせいで怯えたのか、女の子の頭が更に沈み込んだ。
「申し訳ありません、強く言いすぎたようです。ちょっとだけ顔を上げてわたくしの話を聞いてもらえないでしょうか」
ソフトに言うと、女の子は恐る恐る顔を上げた。その顔を間近で見た北村ははっとした。顔は子供らしくふくよかだが、特徴のある少々垂れ気味の目尻は見間違えようがない。
「あなたはもしかして……奈緒さんですか」
女の子は少し驚いた顔をしたが、はっきり頷いた。
「そうですか。これで状況を把握しました。ここは奈緒さんの心の中なんですね。宮本さんはきっと意識を取り戻しているんだ」
奈緒は訳がわからないという風に、戸惑った顔をして北村を見ていた。
「あっ、申し訳ありません。奈緒さんにはわからなくて当然です。要はわたくしが、奈緒さんをお助けに参上したと理解していただけるだけで結構です」
奈緒はまだわからないという顔をしていたが、北村はお構いなく話し始めた。
「奈緒さん、不幸な思いをする必要はございません。世界は素晴らしい出来事で満ちあふれております」
「そんなこと言ったって……あたし寒いし、お母さんと一緒にいたいよ」
奈緒が目から大粒の涙を流し始めた。
「奈緒さん、泣かないでください。わたくしがお母様に意見をしましょう。おうちがどこか教えていただけますか」
奈緒がこっくりと頷いて立ち上がった。北村が最初にした通りとは反対方向へ歩き始めた。北村は後を付いていく。
通りを出ると、そこはマンションやアパートが建ち並んでいた。飲み屋街と同様低層の建物で、新しそうなものはなかった。奈緒は通りを横切り、とりわけ古びたアパートの階段を上り始めた。スチールの踏板がギシギシときしみ音を立てる。奈緒は二階へ出ると真ん中の部屋の前で立ち止まった。
「ここ」
声にならない声でつぶやき、指差した。北村が近づいていくと、薄いドアの向こうから、ああっ、ああっ、というあえぎ声がかすかに聞こえてきた。
「ややっ、これは幼子に聞かせる声ではありません。奈緒さんは少し下がっていただけますか」
奈緒を隣の部屋の前に移動させると、改めてドアの前に立った。子供を外に追い出して、昼間から男とまぐわっているとはひどい母親だ。北村は義憤に駆られながらドアをノックした。
「こんにちは、ちょっとお子様の件でお話があるのですが」
あえぎ声がピタリとやんだ。わずかに間を置いて「鍵はかかってないから開けてくんない?」と声が聞こえてきた。
「開けてもよろしいでしょうか」
「あたしがいいっていうんだからいいんだよ」
「しかし……」
今までまぐわっていたのだとしたら、素っ裸のはず。そんな姿を直視するなんて。いやいや服を着てまぐわっていたとしたら。でも素っ裸の方が確率は高いだろうし。
「早く開けなさいよ。用があるんでしょ」いらだつ声に動揺して、思わずドアを開けた。
部屋の中は真っ暗だった。
えっ、と思った瞬間、暗闇の中に吸い込まれてしまった。
ピコピコとなるシンセサイザーと、ドスドスと腹の底に響くバスドラムの音が聞こえている。暗い室内に赤青黄色とピカピカ光る照明。アルコールと香水の匂いが鼻を突いた。男女の笑い混じりの声が聞こえてくる。
ぼんやりした頭を振りながら、ここはキャバクラじゃないかと思った。五十四年の人生において、キャバクラへ行ってみたいと思ったことは一度としてなかったが、会社の上司に無理矢理連れて行かれたことは何度かある。そのたびに女の子との盛り上がらない会話に消沈し、間を埋めるために無理矢理飲んだウイスキーの水割りで泥酔していた。
わたくしはどうしてこんなところへ来てしまったんでしょうか。唖然として周囲を見回していると、白いドレスを着た、平均よりやや横幅が広い女性が近づいてきた。
「こんばんは、ニーナです。よろしくお願いします」
おたふくのような笑顔でお辞儀をした。
「こちらことよろしくお願いいたします」
緊張して思わず立ち上がり、お辞儀を返した。
「なーに硬いことしちゃってるのよ。お兄さんもっとリラックスして」
ニーナはドサリと大きな尻をボックスソファに預けた。北村も横に座る。
「お飲み物は何にしますか」
「う、ウーロン茶をお願いします」
「お酒が飲めないんだ。でもウチは大歓迎よ。あたしもドリンク頼んでいい? それとフルーツも」
北村が勢いに押されて曖昧に頷くと、立ち上がってボーイを呼んで注文した。すぐにドリンクとフルーツが来て、二人は乾杯する。
「あの……ここは一体どこなんでしょうか」
一瞬目が点になったミーナだが、弾けるようにけたたましく笑い始めた。「ここは木更津。店は『ハニー&ハニー』どう、思い出した?」
「あ……はい」
すべて初耳だったが、彼女が言うのだからそうなんだろう。
「つかぬ事をお伺いしますが、ここに奈緒さんという女性はいらっしゃいませんか」
ニーナの笑い顔が、唐突に仏頂面へ変化した。
「少なくとも源氏名ではいないわ。本名は知らないし、知ってても他の子の私的なことを言うのは御法度。もしかして、あんた人捜しのためにこの店に来たの?」
「恐らくそうではないかと」
「恐らくって、いつの間にかここに来たわけじゃないでしょ」
「いやそれが、いつの間にか来てしまったのです」
ニーナはこれ見よがしにため息をついた。「まあいいわ。でもあたしはこれ以上あんたと盛り上がる自信がないからチェンジしてもらう。スタッフには言っておくから、ここで遊ぶのは構わないけど、情報は一切とれないと思ってね」
ニーナが自分のドリンクをぐいと飲み干すと、再び営業用の笑顔に戻り、立ち上がって「ごちそうさまでした」と言いながらお辞儀をした。
そのとき、店内を流れていた音楽がやみ、男性の声が響き始めた。
「みなさま、お待たせしました。これより当店の歌姫エバによる歌謡ショーを開催いたします。拍手でお迎えください」
カラオケのイントロが流れ始める。中森明菜の「セカンドラブ」だ。パラパラと拍手が起こり、スポットライトが店の奥にある小さなステージを照らした。そこへマイクを持った女性が現れた。スリットの入ったピンクのチャイナドレスを着た、痩せた体型だ。
北村は驚いて「ああっ」と小さく声を上げた。
ニーナが北村の顔を訝しげに見ながら、視線の先をたどっていき、女性に驚いているのに気づいた。
「えっ?」彼女もまた驚いて声を上げた。
「もしかして……あんたが探しているのはあの子なの?」
「間違いありません。彼女が奈緒さんです」
歩き出そうとした北村の腕をニーナが掴んだ。強い力で、ぐいぐいと締め付けてくる。
「痛いじゃありませんか。離してください」
「だめ」
意地悪で締め付けていると思っていたが、彼女の目に怯えが潜んでいるのに気づいた。
「マネージャー、来てください」
ニーナが手を振ると、背の高い黒服の男が近づいてきた。オールバックの髪型で、口元は微笑みを浮かべているが、目は笑っていない。威圧感が体からにじみ出ていた。
「うちのニーナが何か粗相でもやらかしましたか」
「この人、エバさんに会いに来たらしいの」
マネージャーの目が険しくなる。
「そうなんですか。でも申し訳ありませんが、彼女は当店の歌手でして、接客は行っておりません。歌だけをお聴きください」
「いえ、接客とかではなくて」北村は男の威圧感に気圧されながらも、勇気を振り絞った。「奈緒さんに質問させていただきたいのです」
「どちらにしても会うことはできません」
店内に奈緒の歌声が響いていた。声量はなかったが、透き通ったきれいな声をしていた。耳から聞こえてくると言うより、体全体へ浸透して、ハイになった心を癒やしていく。いつの間にか喧噪が鎮まり、みな奈緒の声に聞き入っていた。北村もマネージャーと言い争うのをやめ、声に聞き入っていた。
「素晴らしい歌声ですねえ」
「ああ」
マネージャーも慇懃無礼な仮面が取れ、素直な目で頷いた。
曲が終わると、冒頭はまばらだった拍手から大きな拍手へと変わっていった。
「あの子は将来プロを目指しているんですよ」
「そうなんですか。きっと成功するでしょう」
素直に思ったが、そうなっていないのにはたと気づいた。彼女は歌手どころか、グロウによって意識を失い、殺されかけているのだ。
二曲目が始まった。AIKOの「カブトムシ」だ。AIKOの曲は歌詞もメロディも独特な上、アレンジも原曲と同じなので、オリジナリティーを出すのは難しいはずだが、見事に独自の清々とした世界観を醸し出していた。
北村とマネージャーがうっとりと奈緒の曲を聴いていると、右隅の席で立ち上がった男がいた。マネージャーが仕事の顔に戻り、男に注視し始めた。
「お客さん、そっちへ行っちゃだめですよ」
隣にいたホステスが男の後を追いかけた。同時にマネージャーも動き出した。
男がステージに上がり、奈緒の前に背を向けて立った。髪を短く刈った。中年で、くたびれた紺のスーツを着ていた。歌が止まり、カラオケだけが響く中、男はジャケットから何かを取り出し、客席に向かって右手を突き出した。
客席に座っていた男が立ち上がった。ステージに立っている男に近づいていく。
「死ねっ」
男が叫ぶと同時に、発砲音が鳴り響いた。
客席の男が突き飛ばされるようにして席に倒れ込んだ。
二発三発と立て続けに発砲が続く。店内の人々は悲鳴を上げながら、出口へ殺到した。
「奈緒さん」
北村だけはステージへ向かった。硝煙と、むせかえるような血の臭いが鼻を刺激した。発砲した男はスポットライトを浴びたまま、拳銃を持った手をだらんと垂らし、憎しみが凝縮した目で、薄笑いを浮かべながら客席を見ていた。奈緒はその背後でしゃがみ込み、腕を組んで体をガタガタ震わせていた。
客席には初老の男がのけぞり、大きく口を開けて倒れていた。胸から腹にかけて、真っ赤な鮮血が吹き出し、ソファをべっとりと濡らしていた。めを大きく見開き、わずかに唇を震わせていた。
「どうしてこんなことをしたんですか」
「え?」
中年男は初めてその存在に気づいたという風に右眉を上げ、訝しげに北村を見た。
「こいつか。それだけの悪さをしたからさ」
男は脂汗が滲んだ頬を歪ませ、粘つくような笑顔を作った。
「資金繰りに困っている人に善人ぶった顔で近づいて金を貸し付けて、返せないとなった途端容赦なく資産を巻き上げる。血も涙もない野郎さ。俺もその一人だし、この店が入っているビルだってそうさ。こいつを恨んで死んだ人は片手じゃ足りないよ」
「お言葉ですが、それでも殺すというのはちょっと違うんじゃありませんか」
「おうっ」男が歪んだ目で北村を睨み付ける。「俺が何を持っているかわかってんのかよ」
男が銃を北村に向けた。勢いに気圧されて北村は尻餅をついた。
「や、やめてください。撃たれたら痛いじゃないですか」
中年男は喉の奥から絞り出すような笑い声を上げた。
「痛いどころじゃねえ。当たった場所が悪けりゃこのオヤジみたいにお陀仏だぜ」
「お父さん……」
か細い声が中年男の背後から聞こえてきた。奈緒だ。
中年男が振り返り、銃口を奈緒に向ける。
「もしかして、お前はこのオヤジの娘か?」
奈緒は答えなかったが、目からあふれ出す涙が真実を物語っていた。
「そうか、お前はこいつの娘か。どおりで下手くそな歌でステージに立ててたわけだ」
男がニタリといやらしい笑みを浮かべた。
「お兄さん。それは違います。奈緒さんは大変美しい声でした」
「嘘だっ」叫びながら振り返り、血走った目と銃口を北村へ向けた。「ニワトリみたいにキンキンしたひでえ声だった」
再び奈緒に向き直り、銃口を額に近づける。
「そうだろ。お前は親父コネでこのステージに立ったんだ。みんなお前の声なんか聞きたくなかったんだ。はいって言えよ」
「はい……」
「そうさ」男は満足げに頷く。「どうせお前はこいつの男の愛人の隠し子だろ。そんな奴の歌がうまいわけないんだ」
男の目が凶暴に輝き、うつむく奈緒の脳天に銃口を押しつける。
「はいって言えよ」
「はい……」
奈緒の震えが更に激しくなる。
北村の中で、何かがプチンと切れ、恐怖がすっと消えていく。
わたくしには、やらなければならないことがあるのです。
立ち上がり、男の肩に手をかける。
「お兄さん。やめてください。奈緒さんが恐がっています」
「お前……俺に意見するつもりか」
銃口が北村の鼻先へ突きつけられた。男に笑みはなく、純粋な憎しみで満たされていた。
殺される。
そう思った瞬間、発砲音が鳴り響いた。
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