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第三部 闘争 13

 旭川市でグロウのメンバーと合流した辻田は、マンションの一室で医師から左手の治療を受けた。

「これで消毒と止血は終了しましたので、これから抗生剤と痛み止めの注射を行います」

「抗生剤はお願いします。ただし、痛み止めは不要です」

「えっ」注射の準備を始めた若い医師は、驚いた顔をして辻田を見た。「でも、その怪我ではかなりの痛みを感じているはずですが」

「確かにね。で、僕にとってこの痛みは、活力の源でもあるのですよ」

「はあ。それでは、抗生剤のみを注射します」

 納得しているとは言いがたい表情ではあったが、それでも医師は抗生剤だけを準備し始めた。それでいいと辻田は思う。左手の痛みは耐えがたいほどに全身へ広がっていくが、それを上回る快感が脳内を支配していた。この感覚は他人に理解できないだろう。

 治療を終えた辻田は部下が待っている部屋へ入った。座っていた部下たちが、一斉に立ち上がる。

「上猿払で起きたことはわかっていると思う。もはや日本政府は逮捕や起訴といった手続きを介さず、我々を抹殺しようとしている。我々が生き残るには、日本政府を打倒する以外に道はない。それを肝に銘じてください」

 はいっと一斉に部下たちが返事をした。

「もう一つ、上猿払で起きた爆発は僕が仕掛けたという噂を耳にしましたが、誰か聞いていますか」

 部下たちは不安げな表情で、お互いを見合あった。一人がおずおずと申し出る。

「そのような噂は聞いておりませんが……」

 辻田は穏やかな笑みを浮かべた。

「おかしいですねえ。僕はそのように報告を受けていますが。加えて噂を広めているのはあなただと」

 辻田が指差した先に、坊主頭の小柄な男がいた。

 男はきょとんと、狐につままれたような顔をした。「俺ですか?」

「そう、あなたです」

 笑っていた目が、氷の様な冷ややかさを帯びた。

「ヴェェッ」

 男の顔に穴が空いたような透明のまだら模様ができ、絞り出すような声を上げた。

 口から、大量の血を吐き出しながら、仰向けに倒れる。男は大きく目を見開き、血を吐き続けたまま動かなくなった。湿った血の生臭い匂いが室内に充満する。

「他に噂を広めようとする人はおりますか」

 部下たちは青ざめた顔で強く首を振った。

「よろしい。僕は少し休ませてもらいます。移動の準備が整ったら呼んでください」

 辻田はベッドルームへ向かった。

 噂などは最初から聞いていなかったし、死んだ男も噂を広めたという事実は確認していなかった。すべてはでまかせだ。しかし、部下が爆発させたのは自分であると考えるのは自然な成り行きだし、その前に組織を引き締める必要があった。男はそのスケープゴートとなったのだ。できるならもう少し苦しみを長く保ちたかったところだが、今はそんな時間がない。

 辻田はベッドに座り、ピンと背筋を伸ばして目を閉じた。体の色が透明に変化し、陽炎のように、極限まで薄くなっていった。

 辻田の意識には、暗黒の世界が広がっていた。目を閉じ、反物質が存在するブレーンの存在を意識した。身体が動き出す。

 何が(タオ)だ。もう玄の言うことなど、まどろこしくて聞いていられない。地球上の四分の一を破壊すれば、これまで微妙に安定を保っていた人類の秩序など、簡単に壊滅するだろう。人類はパニックに陥り、この世の地獄が始まる。しかしそれは、僕にとってのかけがえのない善。

 まずは東京。そしてニューヨーク、北京、パリ。これらの都市を破壊しただけで、相当な混乱が生じる。

 辻田は頬に当たる重力子(グラビトン)に変異を感じ、目を開けた。いつもなら規則的な動きで揺らいでいるはずなのに、今は不規則なノイズが混じっている。前方にはDブレーンが確認でき、変わったところは見られなかった。もっとも、視覚情報はあくまでも借りの姿だが。感覚を研ぎ澄ませながら、慎重に近づいていった。

 Dブレーンの真上まで来た。反物質で構成された世界。この世界の透明症患者から体の一部を削り取り、まずは東京の透明症患者に触れさせよう。

 表面へ近づいたとき、突然圧を感じたかと思うと、体ごと吹き飛ばされた。必死でバランスを取りながら、ブレーンの表面へ衝突するのは避けた。もし少しでも表面に触れていたら、対消滅を起こし、身体は跡形もなく破壊されていただろう。

 重力子(グラビトン)がうねりながら襲ってきたのだが、通常ではあり得ない動きだった。一旦ブレーンから離れ、何が起きているんだと思いながら、慎重に観察しながら再び近づいた。

 ブレーンの表面に、極薄い霞状のものか浮かんでいた。近づいて行くと、微弱な感情子(エモビトン)が放たれた。

 敵意。それは言葉として変換されるほど複雑なものではなく、ごく原始的な感情だった。それでもこれは生物にしか作り出せないエネルギーであり、ここでは透明症患者しか存在し得ない。

――あなたは一体何者なんですか――

 問いかけても答えはない。代わりに感情子(エモビトン)が発生して、重力子(グラビトン)の渦を巻き起こした。今度はバランスを崩すことなく、影響から逃れる。

 霞は揺らぎつつ、うっすらと人の形をしていた。

――もしかして、あなたは蓮村さんじゃないですか――

 名前を言われて、霞の揺らぎが大きくなった。

――わかりましたよ。あなたは蓮村さんの身体場だ。あなたの肉体は消えたが、身体場はまだ意志をもって存在しているのですね――

 辻田は微笑んだ。

――死してなお感情を放つとは見上げたものです。しかし僕は、世界を壊していかなければならないのです。そこをどいてもらいましょうか――

 辻田は右手を払うようにして、感情子(エモビトン)を放った。重力子(グラビトン)を巻き込みながら、蓮村の身体場へ直撃した。

 霞が四散した。しかし再び霞が集まり、身体場を形成した。

――なんだと――

 もう一度重力子(グラビトン)をぶつけたが、結果は同じだった。蓮村の身体場は反物質のブレーンの前に立ちはだかっている。その重力子(グラビトン)は肉体を破壊するほど強いものではないが、反物質を扱う微妙な作業をするにのには致命的な障害だ。

 ならば別のブレーンを探すのみ。このマルチバースの世界なら、反物質のブレーンはまだ無数にある。

 辻田がブレーンから離れようとしたときだ。蓮村の身体場が動き出し、辻田の体を包み込んだ。

――何をするっ――

 ひどく息苦しく、体を締め付けるような感覚を覚えた。

 感情子(エモビトン)を放ち、重力子(グラビトン)を動かすが、自分の体が翻弄されるだけで、表面にまとわりついた蓮村の身体場が離れることはない。

 ここは一時撤退した方がいい。辻田は目を閉じ、自らの身体を意識しながら、鳩尾の奥にある輝きを意識した。

 輝きが肥大し、体全体に広がっていく。

 気がついたとき、辻田は靴を履いたまま、ベッドに横たわっていた。半身を起こしながら、ひどく体が重く感じるのを意識した。首筋に触れると、ねっとりとべとつく汗が指を濡らした。

 締め付けるような感覚は消えたが、息苦しさは変わらない。そして、体がひどく重く感じる。ベッドから出て立ち上がったが、激しい運動をした後のように、強い疲労感があった。息が続かず、その場にしゃがみ込みたい感覚に襲われる。

 蓮村の身体場が、五次元に取り込まれている辻田の体にまとわりついているのだ。痛み止めを打っていない左手がひどく痛んだ。目眩がして再びベッドへ倒れ込む。

 強い思いが身体場として残り、自分にまとわりついて苦しめている。これは呪いという奴なんだろうか。玄はどうしてこんなことを許したんだ。

 辻田はだらだらと溢れる汗にまみれながら、涼しい笑顔を浮かべた。僕は呪い殺されるのだろうか。ならばその前にすべてを破壊するのみ。それが僕の(タオ)

 まずは、もっとも障壁になっている者を倒す。

 携帯電話を取りだし、電話をかけた。

「彼にメッセージを送ってくれ。宮本たちの居場所を教えろと」


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