第三部 闘争 7
蓮村が最初に認識したのは闇だった。奥行きもない真の闇。上下左右といった感覚はなく、波の上で漂っているように、何かに揺られているように思えた。何か手がかりはないかと、あれこれと見回していると、不意に何かが視界の隅に入った。視線を元に戻しても、それは見つからない。今度はゆっくりと視線を動かしながら、平面を探した。
再び平面が現れた。蓮村は揺れを意識しながら、視線を外さないよう慎重に、視界の中央になるよう視点を動かした。
宇宙から見た地球のような、緩やかに湾曲した平面が広がっていた。蓮村はその上に漂っていた。
平面の上には一本の木が描かれていた。青々と茂った葉から、根の先まで、余すことなく写っている。少しだけ視線を動かすと、広大な森林が映し出された。更に視線を動かすと、今度は細胞の一つ一つが、びっしりと平面全体に映し出された。わずかに移動すると、今度は真っ暗な世界で強烈な光を放っている恒星が映し出された。
Dブレーンだ。ここに三次元空間に存在するすべてが膜として収められている。蓮村は自身がその外から世界を見ていることを知った。
所詮四次元時空によって形成されている自分の意識では、リアルな三次元の膜を認識することはできない。このため外界からの刺激を自分がこれまで培ってきた知識を元に、無意識が再構成しているのだろう。
揺られているように感じるのは、Dブレーンからにじみ出ている重力子の影響か。
――玄よ。どうして私をここに呼んだのだ――
――重力子を見失わないよう、前へ進む感覚で動いてください――
どこからか声が聞こえてきた。身体もないのにどうやったら前へ進めるのか。戸惑ったが言われたとおり、前へ進めと心の中で念じてみた。
不意に重力子のよる揺れが激しくなり、視点がぶれて目の前が闇に包まれた。落ち着けと言い聞かせながら、ゆっくりと視点を動かした。
再びDブレーンが見えてきた。近づくと、今度は動物の肌らしき者が映し出された。林のように生えている毛の間に、甲に覆われた八本足の巨大な虫がいた。ダニだろう。
――もう少し前へ――
更に前へ進むと、平面にできもののような隆起が見えてきた。重力子の波にもまれながらも、隆起の近くまで来た。
隆起に見えた物は人の形をしていた。見覚えのある中年男性。北村だ。肌は本来の色を付けている。恐らく五次元に入り込んでいる北村の部分なのだろう。なぜか眉間に皺を寄せ、ひどく苦しげな顔をしていた。
――北村さん、どうされましたか――
蓮村の問いかけに、北村は何か言いたげに少しだけ口を開いたが、言葉は聞き取れなかった。
――北村さん――
北村に近づいた。フェーズが変わり、鼓動する心臓が現れた。次に真っ赤な血が流れていく様が映し出される。しかし、いくら北村の肉体を探っても、彼とコミュニケーションをとれるわけではない。
感情のエネルギーが五次元へ流出しているはずだ。その泉源の奥に北村の無意識が存在している。無意識からなら北村とコミュニケーションがとれるはずだ。
視点を動かし、再び北村の全体が現れると、体中を注意深く見た。
鳩尾から、上に向かって一本の糸のような物が伸びているのに気づいた。透明で一見釣り糸のように見える。しかしそれは左右に揺らめきながら、上に向かって水流のような物を形成しており、時折金色の輝きを放った。糸は闇の中へ吸い込まれていく。これは北村から流出している感情のエネルギーなのか。
視点をゆっくりとずらしながら、鳩尾の上に視点を移動させた。するとそれまで見えなかった黒い穴が存在しているのに気づいた。穴は直径一センチにも満たないが、正確な円形で、光が吸い込まれていくように思えるほどの黒だった。有機的な北村の体とはあまりに違和感があり、黒いシールでも貼ってあるように思えたが、穴は確かに北村の鳩尾に空いていた。
穴から誰かが呼んでいる。そんな気がすると同時に、穴の中へ吸い込まれていく感覚に襲われた。視点が勝手に動き出し、穴が眼前に迫ってきた。
周囲が闇に包まれた。意識だけが闇の中で存在している。そう思ったとき、唐突に周囲が明るくなり、まぶしいほどの光が照らし始める。
周囲にはポツポツと木や草花が生え、その奥には柵が見えた。塗装が少し剥げたブランコもあった。頭上からは強い日差しが降り注いでいた。蓮村はいつの間にか公園に立っていた。
ここでは自身の肉体も存在していた。どこへ来てしまったんだろうと思っていると、ベンチに一人の男が腰をかけいるのに気づいた。両肘を腿に着けて、手で頭を抱えている。公園にはその男と蓮村しかいなかった。これはきっと何か意味があるのだろうと思い、男に近づいた。
「すいません」
声をかけると男が顔を上げた。丸い顔で、シジミのような小さくてつぶらな目をした男、北村だ。ただ、蓮村が知っている北村よりも皺もなく、髪の毛も地肌が透けていない。二十歳ぐらい年が若そうだ。泣いていたのか、目が赤く腫れていた。
「北村さん、どうされましたか?」
「あなたは……。ああ、申し訳ありません」北村は悲しげに、眉をハの字に曲げた。「お顔は見覚えがあるのですが、どこでお目にかかったのか思い出せませんでして」
「私の名前は蓮村です。北村さんと一緒にグロウと戦っています。覚えていませんか」
「蓮村さん、グロウ……。聞き覚えがあるのですが、どこで聞いたのか思い出せません。申し訳ありません」
「では質問を変えましょう。北村さんは今、何をされているのですか?」
「実は……」
目に強い光を放ちながら、口を開きかけたが、途中ですっとしぼんでしまった。
「いえ、見知らぬ人に話すようなことではありませんでした」
蓮村は北村の隣に座った。
「北村さんは覚えていないかもしれませんが、私と北村さんは深い関係にあるのですよ」
「そうなんですか。でも、わたくしは何も思い出せませんで。重ね重ね申し訳ありません」
北村はぺこりと頭を下げた。
「恐らくここは現実の世界ではありません。北村さんの心の世界だと思います」
「心ですか」
不思議そうに周囲を回す北村に、蓮村は微笑みかけた。
「きっとグロウによって、北村さんは何らかの術をかけられたのだと思います」
「はあ」
北村は狐につままれたような表情をした。
「今、北村さんにどんなことが起きているか、私に話していただけますか。きっと解決の糸口が見つかるはずです」
「それでは恐縮ですが、わたくしに降りかかったトラブルをお話しさせていただきます」
北村は自分が勤めていた会社で、客の娘から不当なセクハラ告発の濡れ衣を着せられ、辞めさせられた経緯を話した。
「それでベンチへうずくまっていたんですか。とんだ災難でしたね」
「悲しくて悔しくて、歩くのもつらくなり、ここに座っておりました」
「北村さん、あなたは今、何をされているんですか」
「えっ? 今お話ししたとおり、悲しくて歩くこともできずに――」
「そうじゃないんです。ここは現在ではありません。北村さんの心の中にある思い出なんです。そこに北村さんの意識があるとすれば、現実の北村さんは眠っているんじゃないでしょうか」
「わたくしには、ここが心の中だなんて、とても思えないのですが」
「私がここに来る前、北村さんの体から、一本の筋のような物が上に向かって立ち上っていました。それは恐らく感情のエネルギーではないかと思います」
「感情のエネルギー……。何ですかそれは?」
狐につままれたような顔をしている北村に、蓮村は曖昧に微笑んだ。
「失礼しました。北村さんは覚えていなかったんですね。説明すると長くなますので、そんな現象があるとだけ理解してください。
グロウは北村さんを苦しい思い出や嫌な思い出の世界に閉じ込めて、活動を減退させているんじゃないかと思います」
「どうしてグロウという奴はそんなことをしているんですか」
「それは北村さんが『選ばれし者』だからです」
「わたくしがですか?」北村は卑屈にも見える投げやりな笑い声を上げた。「勉強がちょっとだけいい以外はすべて不器用がわたくしがですか。みんなでダンスをすれば一テンポ遅れ、人前で喋ればしどろもどろになり、一週間必死で計画したデートの待ち合わせで、そんなピンクのスーツの人とは一緒に歩きたくないと女性に逃げられたわたくしがですか」
「それでも北村さんは『選ばれし者』なんです」
「わたくしには、そんな認識が一切ございません」
「論点を変えましょう。私は人は誰でも『選ばれし者』だと思っているんです。だってこの宇宙の中、このちっぽけな太陽系の更にちっぽけな地球で北村さんは生まれている。そして北村さんのような人生を歩んでいる人はこの宇宙に誰一人としていない。確かに北村さんは他人からすれば見劣りするような人生を歩んで来たかもしれません。でも、北村さんが生まれたことは奇跡なんです。ここで生きている。それだけで北村さんは『選ばれし者』なんです。他人の評価なんでどうでもいいんです」
「そうですか。なんだかちょっとだけ元気が湧いてきました」
「否定的なことを思い出すんじゃなくて、よかったことを思い出してください。わくわくすることを考えてください。そうすれば、この世界から抜け出せるはずです」
「そう言われましても……。なぜか思い出すことは嫌なことばかりで」
「北村さんを陥れた女性を思い出してください」
北村は目をぎゅっと閉じながら首を振った。「思い出すのも嫌です。あの嫌らしい目つきが、わたくしの心を萎えさせます。ああ、また元気が消えてしまいました」
「そうなんですか。でも、その女性は北村さんにひどいことばかりしたんですか」
「そりゃあもう。自分も仕事ができないくせに、わたくしのミスをあげつらい、いつも馬鹿にした調子でわたくしを呼ぶのです」
「そんな女性でも、何か少しだけでもいい思い出がないでしょうか。」
「いえ、断じてありません」
「いくら嫌な人であっても彼女は人間です。嫌な面もありますが、いい面が一つもないなんてことはないと考えますが、いかがでしょうか」
「そう言われても……。あっ、そういえば彼女が昔、ベルギーへ旅行に行ってきたと言うことで、課内の人にチョコレートを配ってくれました。まろやかな甘さで、口ので中にとろけていくんです。今まで食べたことがないようなおいしさでした。
そうそう、会社の帰り道にあの人がいたのですけど、道ばたにしゃがんで野良猫を撫でていたことがありました。あんな憎たらしい人でも、優しいところがあるんだと思いました」
「そうでしょう。どんなにひどい人でもよいところはあります。ひどく思える人生でも、素晴らしいところはあるはずです。否定的な世界から抜け出すには、素晴らしい世界を見いだすことなんです」
「なんだかまた元気が出てきました」
北村がニコリと微笑んだ。
「それが本来の北村さんです。ささやかでいいんです。もっともっと素晴らしい体験を思い出してください」
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