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第三部 闘争 5

 奈緒は目覚めた。いつの間にか、白い病院にあるようなベッドへ寝かせられていた。強い薬を飲んだときのように、頭がぼんやりとして、思考がまとまらない。半身を起こすと、ベッドの縁に辻田がいた。まるでずっとそこで見守っていたかのように、穏やかな笑みを浮かべて奈緒を見つめていた。

「気分はいかかですか」

「悪くはないわ。でも、頭がぼうっとしてる……」

「僕たちの狙い通りですね。では早速治療を始めましょう」

 不意に周囲が暗くなっていき、辻田もベッドも見えなくなった。奈緒は真っ暗な中一人取り残された。

「何? どうなってるの?」

 軽いパニックに陥りながら周囲を見ていると、やがて明るさを取り戻し始めた。しかしそこは白い部屋ではない。

 乾いた日差しが照りつけていた。目の前にスチールの門があり、振り返ると、いかにも公立学校の校舎といった、色あせた味気ない長方形の建物があった。門を通り抜け、道を歩く。どこへ行こうとしているのかわからなかったが、体は勝手に動き、道を進んでいく。住宅地に入ったところで、左側の家から女子高生らしき集団が出てきて奈緒を取り囲んだ。ほとんどが怒りに満ちた視線で奈緒を見ている。一人だけ、目を真っ赤にして涙を浮かべていた。

「奈緒、ちょっとツラ貸しな」

 両側から奈緒の腕を掴まれた。

――彼女たちが誰か知っていますか?――

「知らないわ」

――僕は知っています。泣いている子は、最近あなたを口説こうと、ことさらアピールしていた軽率な男の彼女。他の子はそのお友達。男の彼女さんは、あなたに嫉妬の炎を燃やし、お友達はそんな彼女に同情し、奈緒さんへ怒りをぶつけているというわけです――

 奈緒は古びた建て売り住宅といった感じの家に連れ込まれた。ドアが閉まると同時に、思い切り頬を張られた。頭が真っ白になっているところで、腹を蹴られ、息ができなくなって三和土に倒れた。

「おら、遠慮せずに上がれよ」

 周囲からケラケラと笑い声が聞こえる中、髪の毛を掴まれ、引っ張られていく。

 リビングに引き入れられると同時に暴行は再開した。床に倒され、周囲から容赦なく蹴りが入る。

「お願い……止めて」

 懇願は逆に彼女たちのサディスティックな感情を掻き立てたのか、暴行は激しさを増した。

――このトラウマはユリさんという人格が背負っていましたが、もう彼女はいません――

「彼女はどこへいっちゃったのよ」

――私が殺しました――

「殺したって……どういうこと?」

――無論肉体的な殺人ではありません。奈緒さんの精神が壊滅しないため、あなた自身が無意識のうちに作り出した人格を私が消し去ったのです。だから、今まで忘れていた記憶がこうして意識に現れているのです――

 辻田が語りかける中、女たちの暴行は続いていた。最後は服を脱がされ、全裸で土下座させられた。

 風景が暗転した。

 薄暗く、湿った臭いがしていた。花柄のカーペットが敷いてあり、段ボールや新聞のチラシが乱雑に置かれ、窓に取り付けられたレースのカーテンが風でわずかに揺らめいていた。

 目の前には白いTシャツ姿の中年男性。

 額や頬にうっすらと脂が滲み、口元には点々と無精髭が生えている。口元は無表情だが、顔全体から欲望の臭いが立ち上り、目の奥では、獲物を捕獲した獣が放つ暗い輝きを湛えていた。

 男の迫力に気圧され、奈緒はたじろいだ。

――彼が誰か覚えていますか?――

「知らない」

――僕は知っています。彼は奈緒さんの最初の継父です――

 男の口が開き、ピンク色をした軟体動物のように蠢く舌が見えた。

 男がのしかかってくる。抵抗するが、男の力は圧倒的だ。

「いやあぁぁぁっ……」

 腐ったような臭いを放つ舌と唇が、顔をなめ回す。

 やがて、全身を軟体動物が這いずっていく感覚が生じ、おぞましさで絶叫した。

――この苦しみきハマコさんという人格が背負ってくれていました。しかし彼女はもういない――

――気分はどうですか――

「最低よ。どうしてこんなことをするの?」

――すべてはあなたを苦しめるためです。苦しみの感情は天上へ届き、神へ滋養となります。それはあなたの精神が壊滅し、衰弱死するまで続くことでしょう――

 あははははと辻田の笑い声が響いた。


「AIが算出した確率によりますと、宗谷郡上猿払である可能性は九十六パーセントになります」

 皆川は度の強い眼鏡越しに冷静な視線を藤岡に向けていた。

「このエリアは開源パーキングシェルターから自動車で一時間ほどの場所にあります。かつては炭鉱集落がありましたが、人口は減りつつけ、一千九百七十年代には無人となっています。ここがかつて小学校が存在した場所です」

 モニターに雑草と低木が茂っている原っぱが映し出されてた。

「ここから更に北へ二キロ程進んだ場所がキャンパーがSNSで秋野とのトラブルを公表した場所であると考えられます」

 モニターが切り替わり、SNSの画像が映し出された。

「この画面を確認すると道の沿いに生えている木はハンノキで、画面の右隅にアシが確認できます。上猿払は湿地帯が多く、画像に写っている植生とも合致します。

 これを元に情報収集衛星の赤外線センサーで確認したところ、興味深いポイントを発見しました」

 モニターが切り替わり、暗い画面に県道七百三十二号線を示す白い線が描かれていた。その右上部分に三カ所赤くポイントされていた。

「ポイントした部分がそのほかの場所よりも十度気温が高いことが確認されています。恐らくエアコンの室外機が設置され、廃熱を排出していると思われます」

 藤岡はキーボードを操作してモニターの画面を変えた。迷彩服を着た竹井の上半身が現れる。

「竹井、聞いたとおり、対象は上猿払にいる可能性が高い。よってAC部隊は732号線の起点に移動。移動後先遣隊の五名を選抜して進入口の調査を行え」

「承知しました」


 空調が効いた真新しいオフィスの一室。多くの人が電話をしたり、モニターに向かったりしながら忙しく立ち働いていた。そんな中、窓際の奥にある机で椅子に座った中年男が腕を組み、不機嫌そうに口をへの字に曲げていた。市村課長だ。彼の周囲は爽やかなオフィスとは違い、重苦しい空気が流れている。

「ちょっと奥へ行こう」

 立ち上がり、歩き出した男に、北村は戸惑いながらも後を付いていった。オフィスを出て、廊下を挟んだミーティングルームへ入ると、白髪頭の時岡が奥に座っていた。市村は時岡の横に座り、北村は向かいの席へ座るよう言われた。

「これ、一体どういうことよ。ちゃんと俺に説明してくれる?」

 市村は北村に一枚の紙を放り投げるようにしてよこした。机の端で辛うじて落ちるのを免れたその紙を手に取り、北村は内容を見た。それはメールの文書を印刷したものだった。


市村課長

お疲れ様です。

本日私は体調不良ということでお休みさせていただきましたが、その原因というのは北村さんにあります。

 以前からあの人は付き合ってほしいと言われておりました。その申し出を私はずっと断っていましたが、昨日の帰り際でした。

 あの男は私を抱きしめ、頬にキスをしたのです。

 あまりにショックで昨日は一睡もできず、体も動かない状態です。今もこのメールはベッドから入力しているという有様です。

 午後に母親と一緒にメンタルクリニックへ行く予定です。結果はまたメールいたします。


                                岡島篤子


「そんな……まるでわたくしが岡島さんにセクハラを働いた様な文面にしか思えませんが」

「いや間違いなくセクハラの告発メールだよ。お前、本当にこんなことをしたのか?」

「いえ、神に誓ってこのようなことは一切行っておりません」

「じゃあなんで岡島はこんなメールを俺によこしたんだ」

「それは恐らく、わたくしが大原さんへのいじめを咎めたので、その報復ではと」

 市村は疲れたように小さくため息をついた「そういうことか」

「そういうこととは何事ですか。大原さんは立派な人格を持った一人の女性です。彼女がコピーの印刷が少々ずれていると言った些細なことで、ネチネチ嫌みを言われることに我慢がならなかったのです」

「なあ北村、社会なんてのはな原理原則だけで動いているわけじゃないんだ。わかってるだろ。大原は派遣社員だ。嫌なら辞めてもらっていいし、代わりはいくらでもいる。でもな、岡島はウチの大口顧客であるオカジックスホールディングスの社長の娘さんだよ」

「はあ……それが何か」

「はあじゃねえんだよ」激高した市村が机を拳で叩きはじめた。「このメールと同時に岡島社長から問い合わせがあって、担当している平井専務がお見舞いに行っているんだよ。社長は激怒していて、お前を刑事告発すると言っている」

「でも、それは岡島さん嘘です。警察に捕まってもわたくしの嫌疑はやがてはれるはずです」

「そうかもしれないがな」渋い顔をして二人のやりとりを聞いていた時岡が口を開いた。「告発され時点でお前の人生と俺たちのキャリアは終わりなんだよ。あとで名誉回復されても、世間はセクハラで捕まった奴としか見てくれないんだ。

 一時間猶予をやる。それまでに辞表を書き、私物を整理してオフィスから出てけ。でなければセクハラ認定して懲戒解雇だ」

「ええっ……。そんな……理不尽です」

「知るか。それとも不当解雇で訴えるか。お前に弁護士費用をまかなえるだけの金はあるのか」

 勝ち誇ったようににたりと笑う時岡にどす黒い怒りが沸き起こる。この怒りをぶちまけたいという思いに狩られるが、ぐっとこらえて立ち上がる。オフィスに戻って自分の机に座ると涙が溢れてきて、人目もはばからず、ボロボロと泣き出した。同僚たちは関わり合いになりたくないのだろう。視線を合わさず、まるで北村が存在しないかのように、仕事をしている。

 照明が消えるように、スッと周囲が暗くなっていく。

――どうですか? 素晴らしい思い出じゃないですか――

 どこからか声が聞こえてくる。

「その声は辻田さんでしょうか」

「わたくしの人生で、最悪のできごとでございます」

――北村さんにとって最低な出来事は、僕にとって最上な出来事であるのです――

「わたくしを、ネガティブな感情の沼に沈めようとしているのですね」

――そのとおり、北村さんには心臓が止まるまで、苦しみ続けていただきます――

 世界が暗転して、今度は学校の教室が現れた。

「相変わらずしけた弁当だな」

 机に座っている北村を五人の男子生徒が取り囲んでいた。いずれもニキビ面の中学生で、ニタニタいやらしい笑いを浮かべている。

「俺がふりかけをかけてやるよ」

「ああっ、何をするんですか」

 男の一人が後ろ手に隠し持っていたちりとりを机の上に持ち出し、口を下げた。中からゴミが吐き出され、白いご飯の上に、灰色の埃や紙の切れ端混じったゴミをぶちまけられた。

「こんな不衛生なものをかけられたら、もうお弁当を食べられないじゃないですか」

「なんだよ。俺らのふりかけが食えないってのかよ」

「これはふりかけではありませんっ、たんなるゴミです」

「なんだと……」

 にたついていた男の目が、突然するどくなったかと思うと、手が伸びて、北村の頬を張った。肩を突き飛ばされ、床に倒れたところを馬乗りにされた。

「ほら、遠慮せずに食えよ」

 埃の付いた弁当を顔に押しつけられた。

 暗転。

「おい、お前目が付いてるんだろ。このカゴは鳥取県。愛知県はこっち」

 作業服の男が血走った目で睨み付けながら、宅配便の箱を突き返した。

「ああっ、そうでした申し訳ありません」

「申し訳ありませんじゃねえよ。ただでさえ忙しいのに、余計な仕事を増やすんじゃねえよ」

――北村さんもネガティブなエピソードに関しては事欠きませんねえ――

 あははははと辻田の笑い声が響く。


 伸也と奈緒、北村の三人がベッドで眠っていた。三人とも肌の色は透明で、通常よりも更に輪郭が薄くなっていた。眉間に皺を寄せ、苦しげな表情をしていたが、目を開ける様子はない。貴斗は腕を組み、彼らを睨めつけるように見下ろしていた。

「こいつらに、伊豆にいたあの死にかけた奴らと同じことをしていたのか?」

「その通りです。ご存じの通り、僕たちが健常者に対して肉体的な衝撃を与えるには、通常の方法をとるしかありません。でも、感情は違います。彼らを眠らせると、五次元へ届く感情子(エモビトン)がクリアに見えてきます。その不安を増幅させ、逃れられないようにすることによって、恐怖の感情を強化し、精神からエネルギーを搾り取っていたのです。

 彼らは強いストレスに晒されて精神を退行させ、やがては衰弱死していくでしょう」

「どうして俺にはこいつらと同じことをしないんだ」

「小野さんは僕たちの側だと認識していますから」

「俺がお前たちの仲間だって? どうしてそんな風に決めつけるんだ」

「もちろん僕が小野さんを僕たちの側に無理矢理引き入れることはできません。でも、宮本さんたちの側に行かれることはすなわち、小野さんも苦しみを生み出す側に回ることになるのです。我々の側にいれば苦しみを演出する側になる。この状況を考えれば、もうあなたの(タオ)は自ずと決まっているかと思いますが」

 伊豆での夜、糞尿にまみれ、土気色の顔で苦しげに顔を歪ませていた男たち。あんな風になるなんてごめんだ。

 しかし、このまま伸也を裏切って、辻田の側についてもいいのだろうか。そもそも伸也たちがああなってしまったのは、伸也が俺を助けてくれたからなんだ。

「なあ、今決めなくちゃいけないのか」

「そうです。僕たちに残されている時間は少ない」

「だったらこんな風に説得しないで、すぐにでも俺を伸也みたいにした方が早いんじゃないのか」

「もちろんそれも選択肢の一つではあります。しかし、小野さんは選ばれし者であり、その中でも、最先端の立ち位置にあるのです」

「俺が最先端? どういうことだ」

「この世界における善と悪は人類が誕生したときから生じ、現在までずっとせめぎ合っているのです。その中で僕たちは選ばれし者として悪を担い、ここで眠っている人たちは善を担っています。小野さんはそのどちらでもない。もしも小野さんが善の側に付けば、この世界の善は加速していきます。対して我々の側に付けば、悪は加速するでしょう」

「はあ? まるで俺がこの世界の命運を握っているような言い草じゃねえか」

 辻田は柔らかな笑みを浮かべた。「いいえ、比喩でも何でもなく、まさに小野さんが世界の命運を握っているのです」

「なんで俺なんだよ」

「そこまでは僕たちにもわかりません。ただ、事実を述べたまでです。

 もう一度目を閉じ、苦しげに眉間に皺を寄せている伸也を見た。

 伸也、済まない。俺はもう詰んじまったんだ。

「わかった。俺はあんたたちの側だ」

「ありがとうございます」

 穏やかに微笑んだ辻田が差し出した右手を、貴斗は握った。


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