第二部 破壊 27
河田の運転する軽自動車は蓮村研究室の前に到着した。窓越しに機械へカードをかざしたが、ゲートバーは引き上がらない。
「突破して」
梨奈の言葉で河田はカードを引っ込めハンドルを両手で握り、アクセルを踏んだ。バーが窓へぶつかり、バキバキと音を立てて、折れていった。建物から甲高い警報音が鳴り出す。
梨奈も河田も音に怯むことはない。辻田と藍田はそもそも自分たちがどこにいるかも気づいていない様子だ。
正面に三階建てのビルがあった。そのロータリーへ到達する直前、ボンと中から音が響いたかと思うと、正面玄関からから黒煙が吐き出された。
久我が穏やかな笑みを浮かべている。足下には赤いポリタンク。表情そのままに、足で蹴ってポリタンクを倒した。ドクドクと透明な液体がこぼれていく。ガソリンの刺激臭がホールに充満し始めた。
「早いところ逃げてください。これから火を点けますから」
「久我君、正気かっ。上の階には多くの人がいるんだぞ」
久我は笑みを浮かべながら小首をかしげた。「さて、僕はおかしいんでしょうか」
手にはライターがあった。
「蓮村先生、逃げましょう」
呆然と久我を見つめている蓮村の腕を掴んで走り出した。通用口のドアを開いて外へ出た瞬間、ドンッと腹の底から音が響く。
灼けるような熱気を帯びた爆風が殺到した。
荒川は強烈な熱を背中に受けながら、前のめりに倒れた。周囲を黒煙が覆う。咽せながら四つん這いで逃げた。
煙が薄くなり、ようやく息ができるようになった。黒煙を放つ通用口を見ると、男が一人倒れていた。
「蓮村先生」
再び四つん這いになり、黒煙を避けながらうつ伏せに倒れているに近づいた。強烈な刺激臭を伴う煙の中、目を開けるのも、息をするのもままならない。
「先生、大丈夫ですか」
呼びかけても返事がない。蓮村は通路で爆風を受けたせいか、まともに熱気を浴びたらしい。どうにか脇に手を入れて、煙から引きずり出した。
「荒川君……ありがとう」
蓮村はゼイゼイと苦しげな息をしながら、かすれた声でつぶやいた。背中はまだ服が燃えている。荒川は手で払って火を消したが、黒い部分は腿の裏からうなじまで及んでいた。
「先生、もうすぐ助けが来ますから、頑張ってください」
少しだけ落ち着きを取り戻してくると、熱かっただけの背中に痛みが走り、すぐに激痛へと変わっていった。荒川もガソリンの火をまともに浴びたらしい。
パチパチと炎がビルを焼く音が響く中、背中越しから自動車のエンジン音が聞こえてきた。振り返ると、本来歩行者が歩く通路を通って、赤い軽自動車が車体を揺らしながら近づいて来るのが見えた。 軽自動車は荒川たちの横で停車した。助手席のドアが開く。
「お父さん、生きていたのね」
梨奈か口元に凄惨な笑みを浮かべ、近づいてきた。冷ややかな目で荒川を見下ろしている。
「梨奈、これはお前がやったのか」
「そうよ。全部あたしが指示したの」
事もなげに言い放つ姿に、荒川は衝撃を受けた。
「なぜ……そんなことをしたんだ」
「秩序はなぜ存在するのかわかる? 破壊されるためなのよ。平和は壊され、愛は引き裂かれ、清らかな魂は汚されていく。すべての善が存在するのは、それが悪によって破壊され、その断末魔の叫びによって生じる感情のエネルギーを神に捧げるために存在しているからなのよ。
ねえ、神様はなぜこの世界を作ったか考えたことはある? あたしは家にひきこもっていたとき、ずっと考えていた。どうしてこんなに苦しくて、怖い思いをしなくちゃいけないかって。
透明になったあの日。ずっと仲がよかった友達が、恐怖で顔をゆがめて『こっちへ来ないで』って叫んでいた。泣き叫ぶ子、石を投げてくる子。先生だって、遠巻きにしてあたしを見ているだけ。ひとりぼっちだった。
色戻法を覚えたから、もうあんなことは起きない。そう言われても、突然あの光景が頭の中で爆発して、パニックが起きたわ。ずっとこんなことが起こるなんて、絶望でしかなかった。だからあたしはすべて終わりにしたくて、死ぬことにしたの」
「済まない。私は何もしてやれなかった」
梨奈は腹を押さえ、押し殺したような笑い声を上げた。
「そんなことない。お父さんはあたしに素晴らしいプレゼントをしてくれたわ。あたしを玄の元へ連れて行ってくれた」
「それは……ニュートリノマシンのことか」
「ええ。高次元の世界であたしは玄に会い、真実を知ったの。神は感情のエネルギーを受け取るため、この世界を作ったのよ。神にとってこの世界は、エネルギーを作り出すためだけの飼育施設でしかない。いずれは神によって収穫される運命。
あたしは神の命を受けて、この世界に混乱をもたらし、感情のエネルギーを最大限発するために遣わされた」
そのとき、シェルターから悲鳴が聞こえてきた。人々がバラバラと現れ、こちらへ向かって走ってくる。
「準備ができたらしい。あたしは行くわ。もし生きているようだったら、またあうかもしれないわね」
梨奈は車の助手席へ戻ろうとした。
「待ってくれ」
荒川は立ち上がり、梨奈の左腕を掴んだ。
「離せ」
梨奈はためらいもなく右の拳で荒川の顔を殴った。唖然としている隙を突き、更に膝蹴りを食らわせた。
肉体と精神的な衝撃で、荒川は息もできず倒れた。助手席に乗り込む梨奈を見つめるしかなかった。
「梨奈、待ってくれ……」
振り絞るような声に、梨奈は蔑みを含んだ目で笑った。
車が走り出す。
五人の男女が河田の運転する軽自動車に向かって走ってくる。誰もが必死な形相だ。
「スピードを上げて」
梨奈の言葉に河田が反応する。石畳の上で更に激しく車体を揺らしながら、軽自動車は加速し、集団に向かっていく。
四人は車を避けて通路から外れたが、男性の一人はまともにぶつかった。激しい音と共にボンネットへ乗り上げ、フロントガラスにぶつかって、盛大なひびが入った。男は口を開き、白目をむいた状態でボンネットの付け根に留まった。
「邪魔ね。振り落としなさい」
河田は前を向いたまま、冷静な表情でハンドルを左右に揺らした。車体がふらつき、男がずり落ちた。梨奈は声を上げて笑った。
軽自動車はシェルターの前に着いた。巨大な扉は開いたままで、中から警報音が鳴り響いている。車は徐行しながら中へ入った。
様々な機械が並んでいる室内に人影はなかった。警報音だけが空疎に響くだけだ。段差ができている部分でこれ以上来るまでは進めなくなり、梨奈たちは車から降りた。
室内にはどこからか生臭い臭いが漂っている。梨奈は段差を乗り越え、奥へ進んでいった。河田、辻田、藍田も後に続いた。
正面にとりわけ巨大な機械が設置されている。ニュートリノマシンだ。そこから人が現れた。澤入だった。
「梨奈さん、お待ちしていました」
澤入は穏やかな笑みを浮かべているが、着ているベージュの作業服は、上半身が血で真っ赤に濡れそぼっている。
「全員殺せなかったな」
梨奈は氷の矢のように冷たくて突き刺さるような視線を向けた。
「そりゃあ拳銃でもあれば別だけど、包丁じゃあどだい無理ですよ。特に三人目の宮井君の時に手間取りましてねえ」
澤入は右へ目を向けた。ニュートリノマシンの端の陰に、倒れている人の足が見えていた。その周囲には液体が広がっている。薄暗くて色はわからないが、ねっとりとした質感はそれが血であることを物語っていた。
「準備はもうできているの?」
「ええ。すぐにでも」
「だったらこの二人をマシンに入れてちょうだい」
「承知しました。君たち、こっちへ来てくれるかな」
梨奈に背中を押されて辻田と藍田が澤入の前に連れてこられた。
「二人とも、この台の上へ仰向けに寝てくれるかな」
澤入が指さした灰色をしたスチール台に辻田たちは黙って上がり、並んで横たわった。
「ねえ、僕たちはこれからどこへ行くのかな」
辻田はぼんやりとした目をして、わずかに笑みを浮かべながら梨奈を見た。
「善悪の彼岸。そこであなたたちは真実を知る」
澤入はコンソールパネルへ座り、慣れた手つきでキーボードを叩き始めた。ニュートリノマシンが唸りだし、辻田たちの乗った台が動き出す。
「後でまた会いましょう」
辻田は幼児のようなあどけない笑顔を見せながら頷いた。ふたりはマシンの中へ引き込まれ、進入口が閉じられていく。
「透明度六十五ポイント、合計体重二十八キロ」
「透明度八十九ポイント、合計体重二十一キロ」
澤入が淡々と数値の変化を報告していった。
「透明度百ポイント、体重計測不能となりました」
台が再び引き出された。そこには辻田と藍田が着ていた服だけが残されていた。
「成功です」澤入が立ち上がり、何かを期待するように、目を輝かせながら梨奈を見ていた。
「澤入さん、ありがとう。ご褒美よ」
突然澤入が、かっと目を見開いて腹を押さえた。よろめきながらうめき始めたかと思ったとき、大量の鮮血を吐き出し始めた。床に倒れ、体が痙攣し始める。梨奈はその様子を見下ろしながら、冷たい目で笑った。
「散々気持ちいい目に遭ってきたんだから、バランスを取らなきゃねえ」
梨奈は振り返り、河田を見た。河田は一瞬殴られたように激しく揺れた後、正気に戻ったように、目へ生気が戻ってきた。
「これは、一体どういうこと?」
「覚えていないの? みんなあなたがお膳立てしたこと」
「そんな……あたしは知らないわ」
「それは嘘」梨奈は耐えきれないというふうに、弾けるような笑い声を上げた。「あなたは自分が何をしたか覚えているはず。それがどんな結果になったのかも理解しているわ」
「あ、あたしは普通じゃなかった。なんだかぼんやり膜が掛かっているような感覚で、自分が何をしているのかよくわからなかった」
「でもね、他の人はたちは納得しないわ。包丁三本とポリタンク二個を買ってきたのはあなた。車のタンクからポリタンクへガソリンを移したのもあなた。防犯カメラを調べれば、すぐにわかるはずよ」
「そんな……あたしはどうすればいいの……」
訴えるような目をした河田をのぞき込むように顔を近づけ、頬をそっと撫でた。
「いい方法がある。久我君からお薬をもらってあるわね。あれを飲みなさい。ちょっと苦しいかもしれないけど、すぐにすべてが終わるわ」
頷いた河田に、梨奈は優しい目をして同意するように頷き返した。河田は胸のポケットから、小さなポリ袋を取りだした。中には白い粉が入っている。
「これ……」
河田は不安そうな目をして梨奈を見た。
「そう。これを飲むの。そうすれば、すべてが解決するわ」
河田の顔は蒼白で、すでに死んでしまったようにぼんやりした目で袋を見つめている。封を開き、上を向きながら持ち上げ、口に振りかける。手が震え、一部の粉が顎からこぼれていく。
梨奈はその様子を見ながら満足げに微笑み、目を閉じた。
梨奈の体が服ごと透明になり、更に薄くなっていったかと思うと、完全に消え去っていった。
足を踏み出すたびにやけどをした背中の皮膚が動き、激痛が走る。燃えているビルからシェルターまで、ほんの四、五百メートルほどだが、恐ろしく長い距離に思えた。
「荒川先生、澤入君がおかしくなって、包丁で人を刺しだしたんです。逃げてください」
恐怖で顔をゆがめながら、放射線技師の男が走り去っていった。荒川はすでに感受性が麻痺してしまったのか、その言葉を淡々と受け止めた。彼の言葉が本当なら、自分も刺されるかもしれない。しかし、行かなければならない。そこに梨奈がいるならば。
ようやくシェルターの入り口についた。扉は開け放たれたままで、耳をえぐるような警報音が鳴り響いている。止まっている軽自動車を回り込み、段差を上がった。
機械の奥で、倒れている人の姿があった。床に血が広がり、ピクリとも動かない。澤入に刺されたのだろう。
ニュートリノマシンの前に来た。河田が床に倒れている。自らが吐き出した大量の血にまみれ、小刻みに痙攣していた。辛うじてまだ息はしているが、荒川にしてやれることはない。
河田の体を乗り越え、ニュートリノマシンへ近づいた。コンソール前には同じく血を吐いた澤入がいる。目を見開いたまま、ピクリとも動かない。検査台には二人分の衣類が置いてあった。恐らく後部座席に乗っていた子供たちが、この機械で梨奈と同じパターンのニュートリノを浴びたのだろう。梨奈の姿は見えなかった。どこへ行ってしまったのか。荒川は深い無力感に包まれた。立っている力が抜け、コンソールにもたれ掛かった。
「荒川君」
しゃがれた声が軽自動車の方向から聞こえてきた。段差を蓮村が荒い息をしながら四つん這いで近づいてきた。
「蓮村先生。大丈夫ですか」
蓮村は真っ黒に汚れた顔を苦痛にゆがめていた。やけどは荒川よりもひどく、背中がひどく焼けただれている。少し動いただけでも激痛が走るはずだ。荒川もまた痛みに耐えながら、蓮村の元へ近づいた。
「梨奈さんはどこへ行った……」
「どこにもいません。消えてしまいました」
「ニュートリノマシンを使ったのか」
「わかりません。ただ、後部座席に乗っていた二人の少年の服がマシンの作業台に残されていました。あの二人はニュートリノマシンの中に入ったのかと思います」
「荒川君。私をニュートリノマシンに掛けてくれないか」
「どうしてそんなことを言うんですか。先生はやけどの治療をするのが先です」
唐突な申し出に、正気を失ったのかとも思ったが、蓮村の目の奥からは、強い意志が立ち上っていた。
「君はさっき梨奈さんが君に語ったことをどう思う」
「にわかには信じがたいですが、可能性はあるかと」
「神が感情のエネルギーを採取するため我々が生きるこの宇宙を作った。実は私も長いこと、そんな仮説を立てていたんだ。梨奈さんの口からその仮説が語られた時、私は強い衝撃を覚えたよ。なんとしてでも自ら高次元世界へ行って、真実を見てみたいと思った」
「それなら、すべて落ち着いてからでもいいじゃないですか。今この状態で、わざわざ行く必要はありません」
「いや、むしろ今しかないんだよ。こんな事態に陥って、今後研究が継続できるかわからない。梨奈さんの時も散々揉めたが、倫理的な問題も存在している。それに私自身、六十近いのにこんな怪我を負ってしまったんだ。今後再起できるかわからない。行くとすれば、このタイミングしかないんだ」
蓮村のすすが覆われた背中からは、赤くただれた部分が覗いており、一部は明らかに炭化していた。ガソリン臭に加えて、肉の焦げる臭いが漂っている。素人目に見てもひどい状況だった。
「わかりました。台まで移動できますか」
「ありがとう」
蓮村はすでに絶命した河田の死体を回り込み、ニュートリノマシンの台の前に着いた。荒川は少年たちの服をどけ、蓮村が台の上に乗るのを手伝った。コンソールへ異動し、端末を操作する。ニュートリノマシンが低周波の振動を起こし初めて台が動き始め、機械に引き込まれようとした。その瞬間、荒川も台の上に乗る。
「荒川君っ」
「私もご一緒いたします」
「生きて戻る保証はないんだ。戻っても、梨奈さんのようになってしまうかもしれないぞ」
「承知しています」荒川は蓮村の隣に横たわった。「私は梨奈がどうしてあんな子になってしまったのか、何を見たのか知りたいんです。いや、知らなければならない。私にとってもこのタイミングがチャンスなんです」
荒川と蓮村は機械の中へ入っていった。ゲートか閉じられ、振動が激しくなっていく。
三分後、再びせり出した作業台には、焼け焦げた二人の服だけが残されていた。
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