第二部 破壊 25
「澤入君、二ヶ月以前のルークの血色素量のデータファイルはどこなあるんだい」
「それならクラウドへ移動しておきました」
そろそろ帰ろうと立ち上がり駈けた澤入は突然声をかけられ、少しむっとしながら答えた。
「ああそうか。わかったよ」
荒川は視線をシャットダウンしたパソコンに目を移し、訝しげな顔をした。「もう仕事を終わるのか」
「八時ですし。なにか問題がありますか」
「いや、大丈夫だ。ただ、最近終わるのが早いと思ってね」
「最近ハマっている配信ドラマがあるんですよ。『空飛ぶ猫クールーの大冒険』っていうんですけど、今はシーズン3が配信中なんですが、このところ、シーズン1から見直していまして」
「そうなんだ。まさか徹夜で見ているんじゃないだろうね。最近疲れたような顔をしているし」
「ははは、そんな訳ありませんよ」
澤入は「失礼します」と言って研究室を出た。廊下でほっと息を吐く。配信ドラマにハマっているというのは二週間前の話で、今は全く視聴していない。部屋へ戻り、冷凍のうどんを温めて簡単に食事を取り、シャワーを浴びてパジャマに着替えた。メールもチェックすることなく、そそくさと照明を消し、ベッドに潜り込んだ。目を閉じると、たちまち眠気が訪れ、深い睡眠に入っていく。
澤入にはそれが夢だとわかっていた。周囲はぼんやりと淡い光で満たされていた。辛うじて立っているという感覚はあったが、足下も光が差して、床らしきものは確認できなかった。
足下から顎にかけて、すっと何かに撫でられるような感覚がした。それは波のように全身の細胞へ広がっていく。
「ああ……」
波は細胞を震わせ、快感となって澤入の心も震わせた。世界の頂点に立った者しか味わえないような強烈な全能感に似たもの。ノーベル賞、世界チャンピオン、独裁者。いや、そんなものじゃない。僕は世界をこの手にしたんだ。根拠のない確信が、快感を更に増幅させた。
潮が引くように快感が消えていく。スポーツを終えたような心地よさに浸っていると、目の前に人影が出現し、明確な輪郭を形作っていく。梨奈だった。
――澤入さん、ニュートリノマシンは簡単に動かせるの?――
――条件次第だよねえ。ニュートリノマシンていうのは原子力を使ってニュートリノを作っているんだ。だから原子炉が稼働しているときでないとマシンも動かせないんだ。逆に言えば、原子炉が稼働している間はいつでも稼働できるんだ。もちろん、上司である君のお父さんの許可がいるけどね――
――今原子炉は稼働しているの?――
――二ヶ月前に定期検査を終えたばかりだから、当面稼働する予定だよ。どうしてそんなことを聞くのさ――
再び強烈な快感が波のように押し寄せてきた。快感に身を委ねていくうち、疑問は口の中でとろけていく砂糖菓子のように、幸福感の中へ埋没していった。
梨奈は誰もいない廊下を階段へ向かって歩いていた。途中、優衣の部屋のドアに「死ね」と書いた紙が貼ってあるのを横目で見て、そっとほくそ笑んだ。寮を出て、アルミ屋根だけの渡り廊下を歩く。曇り空から鈍い光が放たれ、弱く冷たい風が吹き付けていた。向かいのビルへ入り、二階の生徒が授業を受けている教室へ入った。
「荒川さん、体調はよくなりましたか」
入ってきた梨奈を中年の女教師か心配そうに見た。
「はい、少し休んだら元気になりました」
「無理しなくていいんですよ」
「はい」
梨奈は微笑みながら自分の席へ向かう。
「あっ」
足をもつれさせた瞬間、抱えていた教科書を床に落とした。
「すいません」慌ててしゃがみもノートや教科書を拾った。
「バッグに入れてくればよかったじゃん」前の席にいた藍田があきれ顔で振り返って梨奈を見下ろしていた。
「消しゴムが」
隣の机の下に手を伸ばしたとき、梨奈は封筒を生徒の膝に向けて差し出した。封筒が引っ張られていく。
梨奈は立ち上がった。消しゴムを探した机を見下ろす。底にはうつむいて机を見ている優衣の後頭部があった。自分の机へ行き、教科書を置いて、自習を始める。
優衣は梨奈から受け取った手紙にただならぬ予感を感じ、机の下で封を開いた。手紙を取り出し、そっと机の上に載せて読み始める。
優衣は全身が小刻みに震えているのを感じていた。同時に魂が抜けて、上から震える自分を見つめているような感覚があった。本当なんだろうかと思い、窓際でノートに書き込みをしている辻田を見た。優衣のことなど一ミリも気にしていない様子だ。
梨奈は教科書を開くふりをしながら目を閉じた。鳩尾の奥に意識を集中すると、意識が闇の中へ沈んでく。生暖かくて息苦しい世界。鳩尾の奥から光が輝き始める。梨奈は闇の液体の中を泳ぐようにして光に向かった。光に手が届いた瞬間、闇が退き、光が体を包み込んでいく。同時に道路が見えてくる。低く唸るエンジン、ガタガタと揺れている。左右は流れるような風景が展開され、手元を見るとハンドルを握っていた。
目を閉じた梨奈の頬がわずかに緩んだ。
思い悩んでいる間に授業時間が終わった。
「次の時間は体育です。三十分後、体操着に着替えた後、体育館へ集合してください」
生徒たちが次々と立ち上がり、教室から出て行く。すがるような思いで辻田を目で追ったが、藍田と一緒にさっさと出て行ってしまった。ほとんどの生徒が出て行ってしまった中、優衣の横に少女が歩み寄ってきた。
「梨奈さん……」
「どうかしましたか」
涼しい笑みを浮かべながら、優衣を見下ろしている。
「なんでも……ありません」
「それならよかった」
梨奈が歩き出そうとしたかと思った瞬間、唐突にステップを踏み始めた。最初は緩やかに、そして次第にテンポを速め、タップダンスのような高速ステップを繰り出していく。
呆気に取られていく優衣に、意味深げな笑みを投げかけていた。
ぞろりと体の内側がなでれるような感覚がした。全身に鳥肌が立つ。
「ああっ……」
目の前が真っ白になり、心の中で、何かがパチンと弾けた。
優衣は無機質な蒼白の頬を痙攣するように震わせていた。機械のようにギクシャクした動きで立ち上がる。勢いで机が倒れ、上に乗っていた教科書やノートが床へ散乱した。右手には便せんを掴んでいたが、梨奈はそれを引っ張った。便せんはあっさり優衣の手から離れたが、彼女は気にする様子もなかった。更に梨奈は椅子の背に掛けてあったリュックサックのファスナーを開き、手紙の束を取り出した。優衣が何も反応しないのに満足し、足早に教室を出て行った。渡り廊下を進み、寮へ向かう生徒の集団へ追いついた。
「辻田君」声を聞いて振り向いた辻田と藍田に微笑みかけた。「いい物を見せてあげるから、私についてきて」
「でも、もたもたしていると、次の授業に間に合わないよ」
「大丈夫。授業は中止になるわ」
近づいて、訝しげに見ている辻田と藍田の手を握った。二人はショックを受けたように「あっ」と小さく声を上げ、お互い顔を見合わせた。
「見たか」
「ああ」
今度は梨奈を見た。「今のは何なんだよ」
梨奈は答える代わりに二人の手を離し、ステップを踏み始めた。まるで床からわずかに浮いているように、優雅で軽やかな動きだった。腕の振りは切れがあり、ブレのないターンを決めた。
突然踊り出した梨奈を唖然としてみていた辻田たちは、次第にとろんと眠そうな目になってきた。最後のポーズを決め、わずかに頬を上気させながら、梨奈は二人をキラキラした目で見つめていた。
「どう? わかった」
辻田と藍田はゆっくりと頷いた。
「じゃあ行きましょう」
梨奈はビルと廊下のする場所の隙間から、茂みに向かって歩き出した。辻田と藍田は彼女の後を、水中を歩くようにスローな動きでついていった。
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