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第二部 破壊 22

 会議が終わり、部屋を出た荒川はエレベーターへ乗って一階へ降り、ビルの外へ出た。秋の日差しがやけにまぶしく、一瞬風景がぐらりと揺らいだ。気がついたときにはよろめいていた。どうにか体勢を立て直し、地面に倒れるの防いだ。肩から押しつけられるような疲れを意識しながら、膝へ手をつき、荒い息をしながら心を落ち着かせた。

 体を起こし、手入れされた木々がパラパラと植えてある敷地に立てられたシェルターに入った。カードをかざし、更に顔認証でゲートをくぐり中へ入った。正面の白く塗られた大きな金属の扉の前に立つと、ブザーが鳴り、モーターのうなり声と共に、扉が横へゆっくりと開いた。

 目の前に巨大な空間が広がっていた。天井からはLEDライトの光がまぶしいくらい降り注ぎ、いくつもの機械を照らし出していた。機械の周りには何人ものスタッフがおり、

操作を行っていた。ホールの中では低周波の振動音、サイレン、モーター音など、様々な音が反響していた。荒川は黄色の線で示された通路をまっすぐ前へ進み、正面にあるとりわけ巨大な機械の前で止まった。

「お疲れ様です」

 コンソールに向かってキーボードをたたいていた男が振り返って、度のきつい眼鏡越しに笑顔を見せた。まだ若く、大学生のようなあどけない顔をしている。

「ルークですが、かなりいい感じですよ」

「澤入君、感覚で語るのが君の悪い癖だ。数値を示しなさい」

「あっ、申し訳ありません」

 澤入はコンソールへ向き直り、キーボードを叩いた。

「透明化率残余率21.8556ポイント。前回から1.749ポイントの改善です」

「いい数値だな」

「そうでしょ、ルークの身体場の揺らぎとマシンの波長が完全にシンクロできれば30ポイント到達は確実です。貴重な試験ができたおかげです」

「ところで、ルークの状態に異常はないか」

「これといって変わったところはありませんよ。餌もよく食べますし、異常行動もありません」

「性格が変わったとかは」

「特におかしなところはありませんが」

「ちょっとルークを見てくる」

「承知しました」

 荒川は左側にある扉へ歩いていき、カードキーをかざし、更に顔認証で扉を開けた。獣の臭いが鼻をつき、動物の鳴き声が聞こえてくる。部屋の中には檻や水槽が置いてあり、中に様々な動物が飼育されていた。荒川は机の上にあるタブレットを手に取り、画面を操作しながら檻の前で止まった。檻には「ルーク」と書いた札が付いていて、中に一匹のアカゲザルがいた。

「ルーク、元気か」

 声をかけると、メークは餌をくれると思ったのだろうか、甲高い声を上げた。荒川はタブレットからルークに関する直近一週間の情報を抽出した。食事および排泄量は実験前とかわらず、異常反応を見せた様子もなかった。

 ルークの見た目はごく普通のサルだったが、よく見ると、若干体が透けて見える。およそ20ポイントの透明化が進んだ結果だ。

 透明症患者は身体場が独自の波形をともなっている。色戻法を用いると、その波形が健常者に近づいていることがわかっていた。透明症患者の身体場を健常者の波形にすれば、透明症の治療ができるのではないかという仮定の下、様々な実験が行われていた。その一つが澤入の担当するニュートリノマシンだった。

 透明症患者は太陽活動活発な程、色戻法がしづらくなることが知られていたが、これまで原因は不明だった。蓮村の研究により、ニュートリノを照射する、あるいは遮断させて身体に降り注ぐ量を減らすと身体場の揺らぎが変化することがわかった。これにより、ニュートリノが身体場に深く関わっていると考えられ、研究が進められた。

 ニュートリノは太陽から日常大量に地球へ降り注いでいるありふれた素粒子だ。ニュートリノが海だとすると、身体場は海に浮かぶ舟のようなものだ。ニュートリノマシンは外界から降り注ぐニュートリノを、核反応で生成した反ニュートリノで対消滅させてニュートリノを遮断させた上、人工ニュートリノを身体場に照射する機械だ。これにより、ニュートリノの量や波長を人工的にコントロールし、身体場の揺らぎに影響を与えるのだ。

 これまでの研究で、一時的に波長を変えることは成功した。しかし平均三十秒で元に戻ってしまっていた。しかも動物実験だと、自然では存在しない波長の組み合わせで被検体の動物が突然死することがあった。そんな状況もあり、透明症患者にたいして大きく波長を変えたニュートリノを照射することは躊躇されていた。実際EUではそうした行為が行われ、被験者に死者が出ていた。そんな状況を変えたのが梨奈だった。


 脳死状態で急速に身体場が弱まっている梨奈に、あらかじめスーパーコンピューターでシミュレーションされたパターンをプログラミングされたニュートリノが照射された。

 健康な肉体から発せられる身体場は強靱で、ニュートリノマシンの影響を受けにくい。このため、このため動物実験ではあえて被検体を衰弱した状態にして使用することがあった。脳死状態の梨奈は被検体としてはベストな状態だった。

「梨奈さんの身体場が大きく揺らいでいます。透明度は八十五ポイント。体重も減っています。すでに三十キロを切り、更に減っています」

 厳しい目をした蓮村が小さく頷く。シミュレーションで想定された状態だ。

 今回の実験は透明度を最高度に上げる事を目的としていた。通常三十パーセントは三次元空間に存在しているが、それを百パーセントへ持って行く。これにより、損傷している三十パーセントと高次元空間で健常な状態の肉体と結合させ、脳死状態から再生させることを目的としていた。

 モニターに照射室の中でガウンを着た梨奈が映っていた。元々透明だったが、今は輪郭も確認できない。

「透明度九十二ポイント、体重五キロ。このままだと、完全に高次元空間へ移動します。まだ継続しますか」

 澤入が不安げな顔で振り向く。

「ミーティングで話し合ったはずだ。梨奈さんの肉体はすべて限界まで透明度を高めていく。荒川君、いいですね」

 蓮村の問いかけに、青ざめた顔の荒川は、こわばった表情で頷いた。

「透明度九十六ポイント、体重一キロを切りました」

「透明度百ポイント、体重計測不可」

 澤入が叫んだ瞬間、モニターに映っていたガウンが台の上はらりと落ちた。

「マシンを止めてくれ」

 澤入がキーボードを叩き、ニュートリノマシンから作動音が消えていく。

「作業台を取り出します」

 モーター音と共にハッチが開き作業台がせり出していく。台の上には青いガウンだけが残されていた。荒川はガウンを手に取り、シルバーに鈍く輝く滑らかな台の上をそっと撫でた。

 すべての肉体が高次元空間へ移動した例はこれまでなかった。梨奈が戻ってくるのか、それとも永遠に高次元空間へとどまったままなのかはスーパーコンピューターのシミュレーションでも結論は出ていない。

 梨奈がいない。脳死状態で確実に死ぬことがわかっているなら、いっそのこと肉体が消えたとしても実験に賭けるべきだと思っていたが、喪失感は想定を超えて強く心を侵食した。荒川は膝の力が抜けていくのを意識しながら、まるで命綱のようにガウンを強く握りしめた。

「梨奈……戻ってきてくれ」

 現実を受け入れられない体が小刻みに震え、梨奈が戻ってくる方法を必死で考えていた。これまで、ずっと考えていたのに、急にわかるはずなんてあり得ない。心の片隅では冷静な自分がそうつぶやいていたものの、感情はついていかない。

「荒川君、ここにいても事態が改善する訳じゃない。研究室へ行って、善後策を検討しよう」

 蓮村が、台の横でうずくまったままの荒川の背中へ手を置いた。それでようやく立つことができた。

 梨奈が現れたのは実験から三日後だった。研究室内に重苦しい空気が漂う中、荒川は集中できず、何度もミスしながらデータの集計を行っていた。内線電話が鳴り、蓮村が受けた。

「荒川君、梨奈さんが正門の前にいるそうだ」

「えっ?」

 荒川は駆け寄って窓を開き、身を乗り出した。木々に邪魔されてよく見えなかったが、赤い服を着た人物が閉まったゲートの前に立っている。瞬間、荒川は駆け出して廊下に出て、階段を駆け下りた。

「お待ちください」一階に着くと、荒川を待ち構えていたように、藤岡の部下が待っていた。「彼女が本当に梨奈さんなのか確認しなければいけません。それまでは研究所へ立ち入ることは許可できません」

 荒川は二階の警備室へ連れて行かれ、モニターで監視カメラの映像を確認した。すらりと伸びた手足、小ぶりな鼻と少し厚い唇。その姿は間違いなく梨奈そのものだった。ただその目はかつての優しさが消え、鋭い視線で門の向こうを見つめていた。顎のラインも鋭さを増している様に思えた。荒川は喜びの中にも、若干の不安が芽生えてくるのを感じた。

「服はどこで入手したんでしょうか」

 そう言われれば不思議だ。梨奈は全裸で高次元空間へ消えたはずだ。服は洗いざらしのブルージーンズに、赤い花柄のブラウスだ。よく見ると、サイズが少し小さいようで、太ももがはち切れそうな程に張っていて、裾から足首が露出していた。ブラウスも、袖から手首が露出していた。そういう着こなしかもしれないが、少々違和感があった。

 携帯電話がバイブレーションをし始めた。男が電話に出る。

「門の前にいる女性の身長、顔のパーツすべてが実験前の梨奈さんの特徴と一致しました。この後彼女を別館に入れて、我々がDNA鑑定を行います」

 三時間後、DNAが梨奈の者と一致していることが確認された。荒川は蓮村と東京から来た藤岡共に、応接室にいる梨奈と面会した。

 部屋に入ると、ソファで腕を組んで座っている梨奈が目に入った。

「梨奈……よかった」

 涙が溢れようとしている父親に、梨奈は鋭い視線を向けた。芽生えていた不安が大きく膨らんでいく。

「お母さんに服を持ってきてって言ってくれない? どうせすぐに戻れないんでしょ」

 投げやりとも思える言葉を、荒川は冷や水を浴びる思いで受け止めた。

「ああ……わかった」

 思春期の子供だ。突然親に向かってぞんざいな口の利き方をするのはよくあることだ。しかし、しかし、引きこもりの前も後も、梨奈がそんな言葉を投げかけたことはないし、唐突すぎる。

「紙とペンある?」

 藤岡の部下が部屋を出て、便せんとボールーペンを持ってきて、梨奈に渡した。梨奈は黙って受け取ると、便せんに書き始めた。

「服のリストよ。お母さんに渡せばわかるはず」

「わかった」

 荒川と蓮村は梨奈の向かいのソファへ座った。藤岡とその部下たちは立ったまま、三人を観察していた。毛穴まで探り出そうとするかのように、まじろぎもせず見つめている藤岡の三角眼を意識しながら、荒川は話し始めた。

「梨奈、これまでどこにいたのか教えてもらえるかな」

「山の中。住所とか全然わかんないわ。気づいたら倒れてたの。素っ裸で」

「服はどうしたのかな」

「近くに家があって、この服を干してあったの」

「借りてきたのか」

「うん、勝手にね」梨奈は声を上げ、ケラケラ笑った。「だって素っ裸で家の人に会ったらびっくりされるでしょ」

「山の中で気がつく前に、意識があったのはいつか教えてくれ」

「家の中よ。何もかも嫌になっちゃって、ドアノブにベルトを掛けて首を吊ったの。目の前がチカチカしてきて記憶が飛んだわ」

「山の中で気がつくまでの間は、全くがないんだね」

「そう。気がついたら天国にいると思ったら、寒いし、虫には刺されるし、もう最低」

「じゃあ、どうしてここへ来たんだい。お父さんがここにいるなんて、わからなかっただろう」

「それって、玄が教えてくれたのよ」

「玄? 一体それは何なのだ」

 荒川と蓮村は顔を見合わせた。

「老子を読んだことはある?」

「学生時代に一度読んだだけだが……」

「第一章に記載があるわ。

――「玄」は神秘的で奥深く、ほの暗いという意味であり、「道」の形容として述べられる。――

 玄とは、五次元で私を導く存在」

「玄はどんな姿をしていたのかな。詳しく教えて欲しい」蓮村が尋ねる。

「姿はよくわからないわ。丸かったり、四角だったり、三角だったり、いろんな形に見えるのよ。色もいろんな色に見えたわ」

「いろいろな色や形に変化していったのかな」

「そうじゃなくて、円にも見えるし、四角にもみえる。赤にも見えるし、白にも見える。言葉で言い表すのはちょっと難しいわ」

 蓮村は梨奈の言葉に頷きながら、ノートへメモを取り始めた。

「玄の周囲はどんな風景だったかな」

「わからなかった。目の前にその玄が見えるだけで、横とか後ろとか、目に入らなかった」

「それで、玄は君にどんなことを語ったのか教えてくれるかな」

「まず、服がある場所、それとここの場所」

「それだけ?」

「そうよ」

 素っ気ない解凍に荒川たちは肩透かしを食らった気分になったが、荒川たちには彼女が真実を語っているのか確かめようがなかった。

 その後、梨奈は精密検査を受け、透明症の症状以外は心身共に健康であることが確認された。荒川にとって喜ばしいことではあるが、彼女の性格が変容した事については腑に落ちなかった。

 荒川は便せんをスキャンし、珠恵宛のメールへ添付送信した。服は豊島区にあるダミー会社へ送るよう指示をした。

 荒川の気持ちとは裏腹に、蓮村研究室は研究の進展に皆が沸き立っていた。蓮村の提案で、夜に食堂で宴会が行われた。荒川は正直参加する気にはなれなかったが、主要メンバーが欠席するのも組織全体の士気にも関わるので、仕方なく参加した。会は大いに盛り上がり、余興が始まった。出演したのは澤入と河田江里という女性、久我尚人の三人だ。彼らはみな透明症で、本来の透明な姿をしていた。肌を見せつけるように、半袖Tシャツに半ズボン姿だ。一昔前のディスコソングが響き始め、部屋が暗くなった。ブーンという低周波が響き始める。

 三人の体がオーロラのように輝き始め、メンバーからどよめきが起きた。彼らがぎこちない動きで踊り始めると、オーロラも残像を残しながら合わせて動き始める。どよめきは程なく歓声に変わった。荒川はその様子をぼんやり見つめていた。

 透明症の身体は光速に近いスピードで消滅と生成を繰り返している。身体の表面に存在している気体は身体が消滅した瞬間、真空になった場所へ向かって動き始めるが、再び現れた身体によって押し戻されていく。この振動により、常に透明症周辺の気体粒子のエネルギー準位が上がっている。そこへマイクロ波を当てると励起を起こし、プラズマ発光する。彼らはその現象を利用していた。

 宴会が終わり、町に出て飲み直そうと相談している同僚から逃げるように、荒川は自分の部屋へ戻った。さっきまでバイブレーションし続けていた携帯電話をポケットから取り出し、画面を見た。予想通り、珠恵からだ。耳に押しつけ、留守電を聞く。かすれた声が聞こえてきた。

「梨奈は元気なんですか。意識は戻ったんですよね。詳しいことを聞きたいので電話をください。いろいろ規則があって難しいなら、生きているか死んでいるかだけでも教えてください」

 梨奈についての情報は珠恵も含めて、一切表に出していけないと藤岡から厳命されていた。しかし、梨奈が書いた服のリストは、梨奈と珠恵しか把握していなかった。このリストが荒川から送られてきたとすれば、梨奈は何らかのコミュニケーションがとれていることを示していた。

 もう少し待ってくれと思いながら、携帯電話を置いた。


 ルークには、正常な身体場を透明症の波形に近づける実験が行われていた。梨奈の実験で得られたデータにより、被検体が死ぬ率は格段に低くなっていた。現在ルークが一番の成功例で、マシン内では95ポイントの透明化が実現して、透明化残余率も上昇していた。透明症患者にこれと反対の施術をすれば、正常に戻ることが期待されていた。

「ルーク、元気でしょ」

 背後から澤入に声をかけられて振り向いた。荒川は頷く。

「ルークは透明になったとき、何を見ているんだろうか」

「残念ですが、ルークはしゃべれませんからねえ。ところで、梨奈さんはお元気ですか」

 澤入は探るような目つきをしていた。彼はセンターでの情報を知ることができる立場ではないが、ある程度噂は聞いているのだろう。将来は自らニュートリノマシンによって治療をしたいと思っているのだから、梨奈の変容は人ごとでは済まされないのだ。

「元気だよ。今のところ何の問題もない」

「そうですか」

 澤入の目が、すっと落ちくぼんだ気がした。まだ何か言いたそうな顔をしていたが、荒川は無視して飼育室を出た。

 研究室に戻り、各種のデータを集計していたらいつの間にか湯型六時を過ぎていた。食欲はなかったが、食堂へ行き、出てきた食事を無理矢理詰め込んだ。再び研究室へ戻り、新たにデータベースへアップロードされたフランスの論文をチェックし、検討を加えた。ある程度めどがついた頃、時計を見るとすでに十一時を過ぎており、室内には荒川一人になっていた。体がひどく重く感じ、床へ寝転がりたい衝動に駆られる。

「だめだ」

 独り言をつぶやき、パソコンをシャッドダウンして立ち上がり、研究室を出た。体を引きずるようにして、自分の部屋へ行き、シャワーを浴びた。スウェットに着替え、机の上に放置していた携帯電話を見た。また珠恵から留守電が入っていた。

「梨奈にはいつ会えるんですか。もう話はできるんでしょ。教えてください。会えないにしても、どんな状況か教えてくれてもいいじゃないですか。ずっとずっと中途半端な状況で、夜も眠れません。お願いです」

 熱にうなされ、うわごとをつぶやいているような声を聞いていると、心の内側へ針が刺さるような痛みが走った。途中で切りたい衝動を受けたが、罰を受けるかのように最後まで聞き、携帯電話を置いた。

 体内を巡る血がどす黒く濁っている気がした。携帯電話の隣に置いてあるカフェインサプリメントの瓶を取り、三錠出して飲んだ。キッチンへ行ってコップに水を汲んで流し込んで、大きく息を吐いた。本棚から適当に本を抜き出して読み始めた。倦怠感はひどかったが、サプリの影響で眠気は消えていた。

 一時間ほど経過した頃だ。室内の明かりが暗くなり始めた。視線を活字から天井の照明へ移動させる。照明が暗い訳ではない。視界自体が暗くなっている。

 心臓が激しく鼓動し始めた。立ち上がり、周囲を見回す。視界は急速に暗くなり始め、周囲の物が見えなくなってくる。やがて何も見えなくなってきた。荒川は身構えながら次に現れるだろう者を待ち構えた。

 闇の深さが微妙に変化し、まるで川のよどみで波打つ水のように濃淡が揺れ動き始めた。程なく濃淡は上下左右、荒川の体を包み込むように広がっていく。

 濃淡の合間から、誰かがじっと自分を射貫く視線を感じ取った。

「誰だ」

 あえぐようにつぶやいた。濃淡がねっとりとしたべたつくような笑顔に見えてくる。

 目の前に、白いピンホールのようなものが現れた。

 ピンホールは広がっていき、やがて一人の胸像を浮かび上がらせた。白い肌と短く切った黒髪。梨奈だった。人形のように表情を失った顔をしている。

「やめてくれ……」

 首を絞められた鶏のように、無様に振り絞る声を上げる。

 梨奈の目が戸惑いの色を浮かべた刹那、透明な水へ黒いインクを垂らすように、苦悶の表情が広がった。

 声は聞こえない。しかし、恐怖を湛えた目、ゆがんだ唇、大きく開かれた口腔から見える舌から、痛々しい梨奈の叫びが突き刺さってくる。

 苦悶の表情が頂点に達したとき、真っ赤な鮮血が口から溢れる。瞳は急速に生命力を失っていく。

 首へ横に赤い線が引かれた。それは鮮血となって肩や胸を濡らす。

 首から上がずれていく。滑るように、梨奈の頭が転がり落ちた。

 力の限り悲鳴を上げていた。これは幻だと心の片隅でつぶやく自分がいたが、感情は止まらなかった。


 気がついたとき、荒川は床に倒れていた。カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。こわばった体をほぐすようにして体を起こした。

 また眠ってしまった。ふらつきながら立ち上がり、大きく息を吐いた。肩から重く疲れがのしかかっている。

 このところ、眠っていると梨奈が殺される夢を見ていた。初めて見た夜は徳山と由李亜が殺され、梨奈を隔離するか否か議論された日だった。

 そのままにしなければ梨奈を殺す。はっきりとメッセージがあったわけではないが、意図は明白だった。闇の奥から声が視えてくる。眠らないようカフェイン剤を飲んだが無駄だった。意識を失うように、いつの間にか眠りへついていた。

  一体、あの闇の向こうには何が潜んでいるのだろうか。


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