第二部 破壊 18
「おい龍、お前何読んでるんだよ」
藍田は手を伸ばし、辻田が読んでいた文庫本を取り上げた。辻田はあっと小さく声を上げたが、怒る事はなく、ただ当惑した目をして藍田を見ていた。藍田は顔をしかめながら文庫本をパラパラとめくり、題名を見る。
「ニーチェ『道徳の系譜』か。相変わらずお前はくそ難しい本ばっか読んでるな」
藍田が本を突き返すように返してきたが、今まで読んでいたページは開いてあった。辻が本を受け取ると、つまらなそうに横へ座り、携帯ゲームを始めた。
最初はなんてがさつな奴だと思っていたが、悪意がないのは一緒に生活しているうちにすぐわかった。自分が思いもよらない領域へ平気で入ってくるのに、自分があまり気を遣わないところにも気を遣う。彼と自分は人との距離の取り方が少し違うのだろう。
すでに季節は九月を過ぎていたが、まだまだ残暑は厳しく、窓から強い日差しが差し込んでくる。エアコンがわずかに唸るような音を立て、冷たくて乾いた空気を送り込んでいた。再び本をめくるが、集中力が途切れて、内容に没頭できなかった。しおりを挟んで本を置き、立ち上がってのびをしながら外の風景を見た。
広々とした畑があり、白くて小さな花が風に揺れていた。田上先生の話だと、あれは蕎麦の畑でということだった。花が枯れて実ができたら収穫して、蕎麦に加工するのだという。ここへ来てから地元産の蕎麦が食事で何度か出てきたが、パサパサしてあんまりおいしいとは思わなかった。そのことを田上先生へ言うと、「十割なんだけどなあ」と悲しそうにつぶやいたのが印象に残っていた。
蕎麦畑の中には民家が点在し、その先には緩やかな傾斜の山々が見えていた。ここは山梨県北杜市で、南アルプスの麓に位置している。名称は「共光会病院研究センター」。名称だけでは何をしているのかわからないが、透明症患者の治療方法を研究している機関だった。外から来た人にはどんなことをしているのかわからないが、地元民には知られているようで、外を歩いていると、はっとした顔をされて家に入られたり、明らかに距離を取られたりする。確かにいい気分ではないが、ここへ来る前にいた時は「こっちへ近づくんじゃねえ」と怒鳴られるのは日常茶飯事だった。それに比べれば明らかに環境はいい。それでも、これからこの蕎麦畑を懐かしく思うことはないだろうと思う。
「そういえば、この間連れてこられた女の子が退院したらしいけど、なんか知ってるか?」
藍田が携帯ゲームをしながら聞いてくる。
「先週、三階の女子階に移ったって美佳さんが言ってたよ」
「さすがモテ男だな。情報が早い」
辻田は振り向き、困惑したように微笑んだ。「そんなわけないよ。優衣さんだって友達だし」
「お前が気づいていないだけだよ。看護師さんたちも、センターいちのイケメンだって話してたぜ」
女性のように長いまつげの奥に光る瞳は、美しく澄んでいた。去年から着ているTシャツはすでに小さくなり始め、大人に近づいた骨格が浮き出ていた。今年の初めはまだ丸みを帯びていた顎のラインも、シャープな印象を強めていた。
「俺たちと同い年なんだろ。どんな子だって聞いてるのか」
「知らないよ。食事も部屋で食べてるみたいだし。お風呂で一緒になったときに話しかけたけど、返事もしなかったらしいよ」
「うわっ、早速いじめられそうだな。女子の奴ら、結構陰湿だからな」
辻田は悲しそうに目を伏せた。透明症が怖いからといっていじめられ、透明症だけで隔離されても、またその中でいじめが始まる。十二歳で透明症を発症してから、散々見てきた現実だ。しかもここは既存の透明症施設も持て余す子供たちの吹きだまりだ。ここでいじめを受けたらもうおしまいだ。ひたすら耐え忍ぶか、少年院へ送られるような事件を起こすしかない。
センターには現在二十六人が入所していた。年齢は十二歳から十八歳で、義務教育もセンター所属の教師が教えていた。センターは厚労省が指定する透明症患者指定病院の一つだが、それに加えて透明症に関する特定機能病院の承認も受けている。ここでは保険適用外の治療についても積極的に取り入れ、結果を透明症学会や専門誌へ結果を発表していた。「要するに、俺たち奴らのモルモットさ」入所した最初の日に、年上の入所者から投げかけられた言葉だった。
患者がここへ入所する理由は様々だった。最先端の治療を受けたくて、わらにもすがる思いで来た者。家庭から見捨てられた上、素行が荒くて既存の施設からもたらい回しになってここへ流れ着いた者。既存の施設より金銭面での優遇が手厚いため、親によって送り込まれた者。藍田はここへ来た理由をあまり話したがらなかったが、ことあるごとに両親を呪う言葉をまき散らす癖からして、金の面だと辻田は思っていた。辻田自身と言えば、素行面何だろう思っていた。
荒川梨奈を初めて見たのはそれから一週間後のことだった。センターには一階に食堂があり、入院中だったり心身が不安定だったりした者を除き、基本入所者はそこで食事を取ることになっている。いつもの通りトレイを持って台に並ぶ食事を取るため列に並んでいると、後ろにいた藍田が背中をつついてきた。
「おい、あれを見ろよ」
藍田がそっと指差した先に、田上所長と見知らぬ少女がいた。田上より少しだけ背が高く、手足はすらりと長い。ショートカットの黒髪で、長い間外に出ていなかったせいか、病的なほど色白だった。まだ幼さの残る小ぶりな口と鼻に黒目がちな目。きれいな子だなと思った。入所者全員が揃っている場所は初めてなはずだったが、特に物怖じするような様子はなく、当たりを見回している。
目が合った。冷ややかで、刺すような視線が辻田を貫いた。呪いに罹ったように、体がこわばり、吸いかけた息が止まる。
誰もいない閉ざされた空間に放り出された感覚に陥り、周囲の騒音が消えた。このまま永遠に視線を浴び続けるのではないかと妄想し、軽いパニックに陥った。
しかしそれはほんのわずかな時間だった。梨奈の視線は灯台の光のように一瞬照らしたあと、辻田の反応など知らぬというふうに、他へ向かっていった。イヤホンを外したときのように、騒音が体を包み込む。
「おい、何だよあの女」藍田の顔はこわばり、やや青ざめていた。「睨んでる訳じゃないけど、なんだか怖い。あんな顔で見られたのは初めてだよ」
「僕もそう思った」
しかし、周囲を見回したが、他の入所者たちは辻田たちのように恐怖を感じていない様子だった。彼女の存在など気にしていないのか、あるいはそもそも気づいていないのか、夢中でじゃんけんをしている男たち。梨奈を盗み見しながら、ひそひそと話している女子。あんな目をされて、いつものような態度でいられるはずがない。
全員に食事が行き渡り、それぞれ席に着くと、隅の席に座っていた田上と梨奈が立ち上がった。
「はい、皆さん注目してください。一部の方は知っているかと思いますが、今月新たに入所した荒川梨奈さんを紹介します」
「よろしくお願いします」
ささやくような声だが、案外部屋によく響いた。お辞儀をし、入所者たちを見回した。辻田と目が合ったが、さっきのような強い力は宿していなかった。ほっと息を吐く。
「荒川さんはすでに今月初めに入所していましたが、体調不良のため、昨日まで自分の部屋で食事をしていました。今日からは皆さんと同じようにここで食事し、授業を受けてもらいます。まだわからないことがあるかと思いますが、皆さん教えてやってください」
田上が食堂から出て行くと、梨奈はトレイを取って台に乗った食事を載せていった。すべて取り終わると空いている席へ座り、一人で食べ始めた。他人を気にする様子はなかった。
早々に食事を終えた優衣と由李亜の二人が、梨奈の向かいへ座った。彼女たちは梨奈よ一つ年上の十五歳。世話好きで、新しく入所した子には性別関係なくあれこれ話しかけてくるのが常だった。笑顔を浮かべて話しかけていたが、梨奈は返事をする様子もなく、食事をしながら時折冷たい視線を二人に投げかけているだけだった。二人の顔に戸惑いの表情が浮かんできた。梨奈が器をトレイに置き、何かつぶやいた。二人の顔がさっとこわばったかと思うと、由李亜が憮然とした表情になり、立ち上がった。優衣の腕を引っ張り、二人は梨奈のテーブルから離れていった。
「おーい由李亜さん、どうしたんだい」
憮然とした表情のまま横を通り過ぎようとした由李亜に、藍田が声を掛けた。
「あの子何様だと思ってんのよ」梨奈を横目で見ながら、明らかに彼女に聞こえる声で言う。「あたしたちが親切に声を掛けてやったのに、『お構いなく、自分のことは自分でやりますから』だってさ」
由李亜はフンと鼻を鳴らして歩いて行った。その後を優衣が困り顔をしてついて行く。
「あいつ、来て早々にやっちまったな」
藍田はニタニタ笑みを浮かべていた。辻田が怪訝な顔をしていると、「ああ、そうか」と合点がいったように頷いた。
藍田は顔を近づけ、急にささやくようにつぶやく。「お前、ここへ来て半年だから、まだ由李亜さんのやばさは知らなかったんだよな」
「なにがやばいのさ」
「そのうちわかるよ」
藍田は意味ありげに笑みを浮かべた。
午後の授業が始まった。センターには敷地内に教育施設があり、小中高と分かれて学習している。少人数なので学年分けはしていない。梨奈は午後から出席を始めた。
「そこ、祐二君の席だから座らないで」
座り掛けた梨奈に由李亜が冷たく言い放った。
「じゃあどこへ座ればいいんですか」
「そんなのあんたが調べればいいでしょ。自分のことは自分でやれるんだし」
嘲るように笑い、周りの女の子たちも、追従するように笑う。
前の席が空いてるよ。そう声を掛けようと口を開き掛けたところで、藍田からシャツの袖を引っ張られた。真面目な顔をして、小さく首を振った。他の子たちも教科書を開いたり、隣同士で話をしたりで、梨奈を助ける子はいなかった。辻田も居心地の悪さを感じながらも黙っていた。結局先生が来るまで梨奈は立ったままだった。梨奈はその感でも困惑するような表情は見せず、腕を組み、壁に寄りかかって窓の外を見ていた。
先生が来て、前の席に座るよう指示されて授業が始まった。授業と言っても、学年によって学習内容が違うので基本自習で、質問があるときは先生に聞きに行くというシステムだ。重苦しい思いを抱えながら午後の授業が終わり、各自自分の部屋へ戻っていった。辻田は藍田の部屋へ寄っていった。
「由李亜さんはさ、普段は明るくて気さくだけど、いったん怒り出すと根に持つタイプなんだ。彼女だけに嫌われるなら無視すればいいんだけど、彼女はこの入所者グループでも最上位のカーストグループに所属しているんだよ。高校クラスに徳山さんがいるだろ。あの人たちが最上位で、由李亜さんは取り巻きみたいな感じだね」
徳山は今年十八歳の高校三年生だ。背丈は百八十センチを超え、がっしりした体格をしていた。センターにあるジムでは、仲間とボクシングのスパーリングをしているのをよく見かけた。辻田からすればちょっと近寄りがたい雰囲気があったが、由李亜は親しげに話をしていたのを思い出す。
「由李亜さんから徳山さんに、あいつはしゃらくさいなんて話をされたら、男子でもやっかいな状態に追い込まれるのさ。だからへんにあの子へ肩入れしない方がいい。俺の予想だけどさ、あの子そのうち退所するよ」
「由李亜さんにいじめられてか」
「まあ……そうだね」
曖昧に笑う藍田に辻田は怪訝な顔をしてみせたが、答えは返ってこなかった。
ここは山梨の田舎なので、歩いて行ける範囲にはコンビニもない。休みの日、一部の子は車で町へ連れて行ってくれるが、ほとんどの子はここにいるしかなかった。やることは限られていて、ネットで有料放送を見るか、回し読みされてくる大量の漫画を読むぐらいだった。
梨奈が来て一ヶ月後の日曜日に事件は起きた。この日は日曜日で、辻田は本を読み、疲れると、パソコンでネットチェックをしていた。午後になって、藍田が漫画を抱えてやってきて、おすすめだという作者の漫画を読んで過ごした。予想外に漫画が面白く、夢中で読んでいたらいつの間にか午後七時にさしかかっていた。
「おい、もうすぐ七時だ。夕飯を食いそびれるぞ」
食堂は午後七時でオーダーストップされてしまう。二人は慌てて一階の食堂へ行った。どうにか七時前に食事をトレイに載せて、テーブルに着いた。今日はとんかつがメインで、ソースを掛けて食べていると、食堂へ白いワンピースを着た梨奈が入ってきた。
「遅かったな。もうオーダーストップだぞ」
うれしそうに声を掛ける藍田に、梨奈は小さく肩をすくめて見せた。
「大丈夫よ。まだ片付けてないから。食事を取っていって」
調理場の奥から、おばちゃんのしゃがれた声が聞こえた。
「なんだよ。この間おれが遅れてきたらだめだったじゃん」
「状況によりけりよ。あのときは全部片付けた後なんだから」
梨奈はトレイを持って食事を載せ、辻田たちと一つ離れた場所へ座り、黙って食べ始めた。
他の子たちが食事を終え始め、辻田と藍田も食べ終えた。食事中は梨奈だけになった。これから読みかけの漫画の続きを読もうと、自分の部屋に戻り掛けたときだ。食堂に男が一人入ってきた。高校一年の吉岡だ。
「おい、徳山さんと由李亜を知らないか」
梨奈に声を掛けた。梨奈は冷ややかな視線を吉岡に向け「知らないわ」とつぶやく。
「お前、さっきまで徳山さんたちと一緒にいたんだろ」
「いませんけど」
「嘘つけ、一緒だっただろ」
吉岡が険しい顔で声を荒らげた。調理場にいたおばちゃんが訝しげな顔をしてのぞき込んだ。まずいと思ったのか、吉岡は憮然とした顔をしながらも、梨奈から顔を逸らし、きびすを返して食堂から出て行った。
「おい、徳山さんと何かあったのか」
梨奈は首を振った。「別に。あの人とはろくに話したこともないし」
「じゃあ、なんで吉岡さんはあんなことを言うんだ」
「あたしが知るわけないじゃない。吉岡さんに聞いてよ」
もう話は終わったというふうに、梨奈はとんかつを口に運んだ。
「おい、行こうよ」
早く漫画を読みたかった辻田は、藍田の腕を引っ張った。藍田はなおも何か言いたげな顔をしていたが、辻田に促され、一緒に食堂を出た。
薄暗い廊下に出ると、人影に気づいた。吉岡が壁に寄りかかっていた。食堂の入り口を注視していて、まともに目が合った。普段から粗野な印象のある男だったが、今はそれに加えて、暗い怒りが目の中に渦巻いていた。思わず目をそらし、前を通り過ぎた。
階段を上りながら、振り向いて後から歩く藍田を見た。
「おい、この時点で吉岡さんが徳山さんと由李亜さんを探しているって言うのは、ここにいないって事か」
「まあ、そうだろうな」
「門限破りってことか」
「まあ、そうだろうな」
センターの門限は午後七時で、門限破りは先生からこっぴどく叱られた上、一ヶ月外出禁止の処分を受ける。いつもの藍田にとって、門限破りは格好の話のネタになるはずだった。ところが今日は上の空で受け答えしている。
部屋へ戻り、漫画を読もうとしたところ、藍田が声を掛けてきた。
「徳山さんと由李亜さんはやばい噂があるんだよ」
「え?」
藍田にはいつものようなふざけた雰囲気はなかった。
「お前がくるちょっと前の話さ。由李亜さんと同い年の女の子がいたんだけど、由李亜さんと仲が悪くてさ、何かあるたびに喧嘩していたんだ。それがある日誰にも言わず退所しちゃったんだ。それまで出て行く雰囲気なんかなかったのに、みんなで不思議だねって話してたのさ。そうしたら、どうやら由李亜さんが何かしたらしいって噂が出てきたんだ。それも徳山さん絡みでさ」
「それって、どういうことさ」
由李亜さんが、その子が退所する前に、外へ呼び出したらしいのさ。そこに徳山さんが来て、やっちゃったらしいんだ」
藍田がニヤッといやらしい笑いを浮かべ、右手の人差し指と親指で輪を作り、左の人差し指で穴を刺した。
「それ以来、由李亜さんに逆らうような子はいなくなったんだ。そうしたら梨奈が嫌われちゃってさ。女の子たちは近いうちに徳山さんにやられちゃうって噂してたんだよ。
今の吉岡さんの様子だと、梨奈は由李亜さんに呼び出されたらしいんじゃないのかな」
「でも、梨奈は普通にご飯を食べてたじゃないか」
「そうなんだよな。だから吉岡さんもおかしいって思ってたんじゃないのか」
半分開けた窓から、夜風が吹き込んできた。思いのほか冷たかったので、窓際へ行って、窓を閉めようとしたとき、遠い場所からサイレンが聞こえてきた。
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