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第二部 破壊 16

 珠恵への退職の報告は辞表を出してからだった。新しい就職先は決まっている、給与水準は現在と変わらないと告げたが、興味なさそうに頷くだけだった。仕事の内容を話せばもっと興味を持つかもしれないが、藤岡からは親族を含めて、誰にも話さないよう厳命されていた。同僚は突然の退職をいぶかしんだが、学長や理事からは特段の引き留めもなく、あっさりと退職手続きが進んだ。藤岡が言っていた通りの展開だった。

 学生時代から通っていた大学を出るのは一抹の寂しさもあったが、梨奈の苦悩を取り除けるという期待が、荒川に力を与えた。私物をまとめ、大学の敷地を出たときにはもう、過去の地位や業績についての未練は消えていた。

 荒川は私物をリュックサックに詰めたまま自宅には戻らず、メトロに乗って霞ヶ関にある特許庁へ移動した。事前に言われたとおり、特許庁の前にある奇妙なモニュメントの前で電話をかけて三分ほどすると、まぶしげに目を細めた藤岡が歩いてきた。

「お待たせしました。まずはこれを身に着けてください」

 藤岡はネックストラップに繋がれたホルダーを差し出した。中に入ったカードには特許庁職員証とあり、荒川の名前と顔写真が表示されていた。

「これは?」

「研究所へ入るために必要なカードです。もちろん荒川さんは特許庁の職員ではありません。警備員に見られると少々面倒な話になりますので、ご注意願います。服装は基本自由ですが、建前公務員として入館しますので、今後はそれなりの服装で来ていただくようお願いします」

 藤岡は荒川が来ていたブラウンのジャケットとリュックサックを見ながら、わずかに顔をしかめて呟いた。

 特許庁の玄関に入り、セキュリティゲートを抜けて廊下の奥へ進んだ。人気のない区画へ入っていくと、一見物品庫に見える部屋のドア前に立った。

「顔認証システムで、一人一人の入退室が義務づけられています。くれぐれも私に続いて入らないでください」

 藤岡がセンサーの前に立つと、カチャリと鍵が開く音が聞こえ、ドアが開いた。荒川も同様にして鍵を開け、中に入った。

 狭い室内の奥にエレベータが設置されていた。ボタンを押すと、エレベーター表示が光る。やがて表示が点滅してドアが開いた。

 エレベータ内へ入る。ボタンは一階が一番上で、B4のみが表示されている。藤岡がボタンを押すと、内蔵がふわりと浮くような不快感と共に、箱が降下し始める。再びドアが開いたとき、二人の屈強な体躯をした男が入ってきた。

「荒川さんは今のところレベル3ですので、盗聴器や凶器を所持していないか身体検査を受けていただきます。携帯や身分証明書を含めて、すべての所持品を一時お預かりします。所持品は検査後すべてお返ししますので、今しばらくお待ちください」

 荒川は言われるままにリュックサックとポケットに入れた物を男たちに渡し、さらに金属探知機で検査を受けてエレベータを出た。外はオフィスビルのように、LEDライトに照らされた白い廊下と白い壁にドアがついていたが、通常ビルと違い、延々と廊下が続いていた。

「一体ここはなんですか」

「霞ヶ関の地下三百五十メートル存在している役所の補完設備です。地震や戦争などで地上の役所が機能しなくなった場合、ここで行政を行うことになっています。総床面積は三百三十万平方メートルに及んでいます。もっとも今は平時だからこの通り、ほとんど人はいませんが。部屋も十パーセントほどしか使用されておりません。

 正式名称は『緊急時各省庁予備施設』となっていますが、我々は裏霞ヶ関、通称裏霞と呼んでおります」

「はあ」

 あまりに非現実的で、思考がついていかないのを意識しながら、歩き出した藤岡の後をついて行った。一分ほど歩いたところで、廊下が交差している場所を右折し、さらに歩いたところでようやく立ち止まった。

「ここです」

 藤岡は振り向いて微笑みながらドアを開けた。中は教室の半分ほどの広さで、机の上にはキーボードとモニター、それを操作している研究員がいた。壁の棚にはファイルや本が乱雑に置かれ、棚の横には段ボールが無造作に積んであった。

「皆さん、ご存じの方もいらっしゃるかと思いますが、荒川和久さんをご紹介します。先日まで帝都大学の准教授をつとめており、専攻は宇宙物理学です。本日から皆さんと一緒に、研究に加わっていただきます」

「荒川君、よく来てくれたね」

 奥にいた蓮村が進み出て、荒川に右手を差し出した。荒川は彼の手を握った。予想以上に力強く握り返してきた。

「よく来てくれたね。みんなで一緒に世界を変えていこうじゃないか」

 蓮村が個々のメンバーを紹介してくれた。物理学、化学、分子生物学、医学といった分野の人材が集められていた。みな三十代から四十代の中堅クラスで、蓮村と同じように世界を変えていこうという熱気を感じた。荒川もまた彼らと一緒に研究を始めると、その熱気の中に引き込まれていった。


 荒川が研究に加わってから二ヶ月が経過しした頃、研究所内で一つの問題を巡って激しい議論が交わされているのを知った。

「やはり直接被験者を確認させていただきたいんです」

 会議の中、分子生物学を専攻している坂田はメンバーに向かって強く訴えていた。「中野さんもそう思うでしょ」

 声を掛けられた中野は憮然とした表情の田上を申し訳なさそうにチラリと見たものの、坂田に向かって小さく頷いた。

「確かに田上さんは我々のリクエストに応えてよくやっていただいています。コンピューターでのシミュレーションも相当な精度です。しかしながら、最終的な解明は被験者を我々の手で、直接診るほかないのではと考えています」

「お言葉ですが」田上はじろりとメンバー全員を見回す。「これは技術的、あるいは私の資質が問題になっているわけでもないことを明確にしていただきたい。問題はあくまでも倫理に関することです。皆さんがもっと突っ込んだ研究を行いたいことは重々承知しております。しかしながらこれ以上の実験を行うことは被験者に対して極めて深刻な健康被害をもたらす可能性があるのです。私はこれまで医師として皆様のリクエストに応じ、透明症患者の検査および試験を行ってきました。その過程で皆さんから試験へのクレームに対する回答は明確に説明してきました」

「田上さんが主張している内容は我々もわかっているんです。ですが、それを超えて行かなければならない」

「それが犯罪となってもですか」

「法的な件に関しては、すでに一線を越えてしまっていますよ」坂田は薄笑いを浮かべた。「運営資金は洗浄した金で、わかっている人が調べれば、明確に違法と言われるでしょう。被験者のデータも当人の許可を取らずに勝手に使っている」

「それとはレベルが違う。人命に関わる問題なんですよ。これで被験者が死んだり、重大な怪我をしたらどうするんです」

「田上さん、おっしゃることはよくわかります」彼らの議論に対し、腕を組んでじっと聞きいていた蓮村が口を開いた。「ただ、この問題は研究を立ち上げた当初からわかっていたことです。透明症は人間固有の病気です。安全性が確認できるまで、ネズミやサルを使って研究するわけにはいかない。最後は一線を越えなくてはいけません。問題はいつ、どうのようにして行うかなんです」

 荒川は田上たちの議論を困惑しながら聞いていた。荒川の専門は宇宙物理で、透明症患者がこの世界から消滅した先の現象を取り扱っていた。そのため透明症患者の身体に対する取り扱いには関わっていなかった。無論、倫理に対する責任は負わざるを得ないのだが、あくまでも間接的であり、荒川自身が議論のイニシアチブをとれるような立場ではなかった。

 この日の議論は大多数の推進派と、一人抵抗する田上との溝は埋まらないまま終了した。荒川は傍観者のように彼らの議論を聞いていたが、程なくして、重大な決断を迫られることになった。


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