第二部 破壊 15
東京駅から中央線に乗り、立川駅で降りた。いつもならモノレールへ乗るのだが、歩く気力が尽きかけていたので、タクシー乗り場へ降りて、住宅地の名前を告げた。狭く、入り組んだ道を抜け、真新しい住宅が目立つ一角で降りた。気力を振り絞り、クリーム色の一軒家の前についた。五年前、まだ助教だった頃に住宅ローンを組んで購入した家だった。収入的には厳しかったものの、一軒家が持ちたいという妻の言葉に押されて決断した。
ドアの鍵を開けた。薄暗く、人気のない玄関が目の前に現れる。三和土の右隅には、白くて小ぶりなスニーカーが、ひっそり置いてあった。珠恵はまだ帰ってきていないらしい。
靴を脱いで、すぐ右手にあるリビングへ入った。玄関同様、薄暗くて人気のない部屋だった。整頓はされていたが、その分生活臭が薄く、うつろな印象だ。照明を点け、カーテンを開けた。明るさは取り戻したが、うつろな印象は拭えなかった。
ソファにバッグを置き、隣にあるキッチンへ行って、流しに何もないのを確認すると、二階に上がった。
階段を上りきると廊下があり。突き当たりに、明かり取りの窓が見えていた。ひっそりと静まりかえり、ここだけ温度が低くなっている気がした。目を細めながら、ぽつんとおいてあるトレイがあるのを確認して、近づいてラップを張った器の中を見る。ご飯や卵焼き、ソーセージなど、朝に作ったものがそのまま残っている。ただ、昼食用に置いた惣菜パンはなかった。ほっと小さく息を吐き、目の前のドアをノックした。
「梨奈、お父さんだ。調子はどうだ。食べたいものがあれば何でも言ってくれ」
返事はなかったが、ドア越しへ意識を集中した。わずかにことりと音がした。確かに生きている。そう思って再び息を吐くと、トレイを持ち上げて一階へ戻った。
梨奈に透明症が発症したのは半年前、十三歳の誕生日を迎えたばかりだった。場所は中学校で、教室はちょうど昼休みから授業が始まる直前だった。クラスメイトは透明になった梨奈を見てパニックを起こし、逃げ出した生徒たちが他のクラスへも伝え、瞬く間に全校生徒へパニックが伝染した。
結果、階段を転げ落ちた者が三人、校舎の出口で押し潰された者が二人、計三人が重傷を負い、捻挫などの軽傷を含めると、怪我人は三十人に上った。
梨奈は発症当日すぐに施設に保護され、メンタルケアと色戻法の訓練を受けた。一ヶ月後、家に戻ってきたときは完璧に色戻法を取得していた。しかし本来の天真爛漫な性格は影を潜め、荒川の言葉にも、暗い目をして時折頷くだけだった。
透明症を受け入れる中学校への編入を勧めたが、梨奈は外へ出たくないと言った。学校で自分引き起こしたパニックがトラウマとなり、人前に出ると、めまいや吐き気がして動けなるのだ。施設での訓練の時もほぼ個別指導のような形だったという。
透明症のカウンセラーのアドバイスもあり、しばらくこのままでいましょうと言うことになり、現在に至っている。
透明症を発症する前は、よく笑う明るい子だった。中学校ではダンス部に所属していて、放課後は毎日汗をかきながら帰ってきた。昨年熱海へ旅行に行ったときには、母親と手を繋ぎ、姉妹のようにケラケラと笑い合いながら晴れた海岸沿いの道を歩いていた。そんな二人を後ろから見ているのが好きだった。
あのときの幸福は失われてしまった。再び、梨奈は笑ってくれるのだろうか。
十年も二十年もこのままだとしたらどうしたらいいのか。そう思うと不安になり、眠れなくなる。
時刻は五時を過ぎようとしていた。珠恵は何をしているんだろうか。SNSもメールもメッセージは届いていない。梨奈があんなことになってから、早めに仕事を切り上げるよう彼女の勤める会社に頼んでいたというのに。どうしても抜けられないトラブルでも起きたというのか。とりあえず、先に帰った方が夕飯を作ることになっていたので、荒川は台所に立ち、米をとぎ始めた。
冷凍食品を使いながら、なんとか六時過ぎに夕飯を作り終えたが、珠恵はまだ帰ってこなかった。心配になってメールをしようかと思ったとき、ドアの鍵を開ける音が響いた。
「遅くなってごめんなさい」
半袖ブラウスとパンツ姿の小柄な女性が入ってきた。妻の珠恵だった。肩に掛けていたトートバッグをソファに置き、流しにいる荒川の横に来た。「手伝うわ」
三人分の茶碗にご飯をよそい、豚の生姜焼きと解凍したほうれん草のごま和えを器に盛り付け、インスタントの味噌汁に湯を注いだ。
「梨奈を、呼んでくるわ」
かみしめるようにつぶやく珠恵に荒川は目で頷いた。
珠恵は二階に上がり、五分ほどして戻ってきた。小さく首を振る。「部屋で食べるって」
食事をトレイに載せて、再び二階に上がり戻ってきた。このところ、儀式のように毎日同じパターンが続いている。
「梨奈は元気か」
「うん。大丈夫よ」
今のところ、まともに会ってくれるのは珠恵しかいない。荒川は三ヶ月ほど梨奈の姿を見ていなかった。
二人だけの食事が始まった。三人の時は芸能人や同級生の変わった言動など、話題が尽きることはなかったが、今は二人とも言葉を発することはない。梨奈がこんな状態では、浮ついた話をするのがためらわれるからだ。
「ねえ、これを見て」
食事を終えた後、珠恵はソファに置いてあったトートバッグから、カラフルな印刷が施されたパンフレットを取り出し、荒川に差し出した。
『透明症治療器GT-200』
――当社が特許を取得したラジウム鉱石のホルミシス効果と、低周波のハイブリッド刺激により、透明症の症状を軽減!――
タイトルを見ただけで、読む気が失せたが、珠恵の期待に満ちた目を見ていると、頭ごなしに否定するのも忍びなく、パラパラと斜め読みした。
「『さくら会』に来ていた前山さんていたでしょ。あの人に誘われて今日この説明会に行ってきたの」
『さくら会』は荒川たちが夫婦で参加している透明症患者の親で構成される自助グループだ。
難解な単語をちりばめながら、自信ありげに支離滅裂な説明を展開している主催者と、わらにもすがる思いで、その説明を聞いている透明症患者の親たち。そんなイメージが頭の中に広がっていく。こみ上げてくる怒りを大きなため息に変え、ゆっくり首を振る。
「珠恵、これは詐欺だよ」
珠恵の顔がみるみるうちに蒼白となり、怒りで目を震わせた。
「そうかもしれない、でも、もしかしたら効果があるかもしれないのよ」
荒川はもう一度首を振る。「効果は無い。百パーセントないよ」
「どうしてそんなことが言えるのよ。実際、治療してみないとわからないでしょ」
「放射線も低周波も透明症に何の効果も無いのは知っているはずだろ」
「でも――」
「定価四十万円か。五十人に販売しても二千万の売り上げになる。薬機法の承認も取っていないようだし、荒稼ぎしたら捕まる前に夜逃げするつもりなんだろう」
涙があふれ、頬を伝っていくが、珠恵は臆することなく、強い目で荒川を見つめる。
「だったら……だったらどうしようって言うのよ。どうしたら梨奈を救えるのよっ」
最後は金切り声のような叫びになって、荒川の鼓膜に突き刺さった。
「座ろう」
背中に触れ、静かに押した。珠恵は子供のように素直に従い、沈み込むようにソファへ腰を埋めた。荒川も隣に座った。珠恵が体を寄せてきたので、肩を抱いた。
「どうしたらいいかわからなくなっちゃうのよ」
「わかるよ。でも、デマに惑わされちゃいけない。わかるだろ」
頷き、さめざめと泣き始めた珠恵の髪の毛を、優しく撫でた。荒川より少し高い体温が、自身のささくれた感情も癒やしてくれる。
珠恵にはこのところ服用していなかった精神安定剤を飲ませ、先に寝室で寝るように促した。荒川は二階に行って、外に出ていた梨奈のトレイを回収し、家族の食器を洗った。すべて終わると、昼からの緊張の連続が、どっと疲れとなって襲ってきた。ソファへ倒れ込むように座る。体を動かすのもつらかったが、意識だけは冴え冴えとして、照明がやけにまぶしかった。
酒を飲みたい気分に駆られたが、酔いが覚めたらさらにひどい気分になるのはわかっていたので、心の中でだめだとつぶやいた。
このままだと、家族がバラバラになってしまう。焦りが内臓をかき回すように駆け巡り、体を蝕んでいく。なんとかしなければと思うが、荒川の力でできることはわずかだ。自分も安定剤を飲んで寝てしまおう。
不意に昼間の光景が脳裏によみがえる。
――透明症患者の身体は、高速に近いスピードで、消滅と生成を繰り返している――
蓮村の言葉が降りてきて、透明な水に垂らしたインクのように、すっと体全体へ広がった。
俺にもできるかもしれない。
強い衝動が沸き起こり、唐突に力がみなぎってくる。体を起こし、仕事部屋へ行って照明を点ける。壁の両面を本でびっしりと埋め尽くされた六畳の狭い部屋だった。荒川はパソコンのスイッチを入れ、起動する間に、身体場について記載がある本や雑誌を引っ張り出した。
猛烈な勢いで資料を読み返し、ネットで身体場に関する論文や記事を閲覧した。気になる部分をノートに書き写し、数式を書いて計算した。
蓮村先生の理論は、珠恵が騙されたインチキ商品と同じなのか。それとも透明症治療の突破口になるのか。強い衝動に駆られながら、思考を巡らせた。
ペンを持つ手が痛くなり、体がこわばり始めてくる。モニターの隅に表示されている時計は午前三時を過ぎていた。荒川はキッチンへ行ってコーヒーを入れ、飲みながら思考を再開した。
頭が朦朧とし始め、さすがに考えるのがつらくなり始めた。時刻は午前六時、とうとう徹夜になってしまった。それでもまだ身体場と透明症に関して様々な疑問やアイデアが浮かんでくる。
このままでは体が持たないと思い、後ろ髪を引かれながらもパソコンをシャットダウンして、仕事部屋を出た。シャワーを浴びて心と体をリセットする。
蓮村の理論が、間違いという結論にはならなかった。もっと検証がしたい。しかし今の大学で、身体場の研究をするのは、蓮村のスキャンダル以来タブーだった。
珠恵を起こして、簡単な朝食を取った。二階へ行ってドア越しに朝食を置いて声を掛け、家を出た。中央線に乗って大学へ行き、今日担当している二時限目の授業に登壇した。
集中ができず、何度も簡単な言い間違いを連発し、学生から疑念のまなざしを受けながら授業が終了した。
論文作成を早々に切り上げ、家に戻って再び身体場の検証を始め、また徹夜をしてしまった。ふらふらになりながら大学へ向かった。
このままだと、同じような状況が続いてしまうのだろう。
どうにか今日の授業を終えた荒川は、バックからおととい放り込んで置いたままの名刺を取り出した。
深呼吸を何度か繰り返し、携帯電話に番号を打ち込んだ。一回目の呼び出し音で電話がつながった。
「藤岡です。早々にご連絡いただきまして、ありがとうございます」
慇懃無礼にも聞こえる冷静な声が聞こえてくる。
「私の電話番号も把握済みなんだね」
「もちろんでございます。で、我々にご協力いただけるか結論は出ましたか」
「ええ。蓮村さんと一緒に研究をさせていただきます」
「ありがとうございます。それでは早速大学へは退職願いを提出してください。荒川さんほどの人材でしたら、赤松総長も退職に難色を示すかもしれませんが、そのあたりは我々がサポートさせていただきます」
荒川は電話を切ると、大きくため息をついた。
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