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第二部 破壊 9

 一体何が起きたんだろうか。伸也は携帯電話を取りだして、ネットを開いてみたが、今のところ何の速報も出ていなかった。取りあえずミネラルウォーターを飲もうと思い、部屋に入ってキッチンの冷蔵庫を開け、ペットボトルを取り出す。電話がバイブレーションし始めた。

 一口ぐらい飲ませろよと思いながら、ペットボトルをテーブルに置き、携帯電話を取り出した。画面を見ると、後輩ダンサーの寺岡だった。

「おう、どうした」

「宮本さん、朝からすいません。今、どちらにいらっしゃいますか」

「自宅だけど?」

 唐突に電話が切れた。

「何だよ」

 むっとしながらも、電波の状況が悪いのかなと思い、再び着信が来るのを待ったが、携帯電話は反応しなかった。取りあえず水を飲もうと思い、携帯電話をテーブルに置き、代わりにペットボトルを掴んだときだ。

「宮本先生っ」

 背後で聞き慣れた声と、ガタンと何かが床に落ちる鈍い音が響いた。振り返ると、ひっくり返った甲虫のように、背中を床に付け、両手足をバタバタと動かしている北村がいた。

「どうしちゃったんですか」

 宮本はペットボトルを再び置いて、北村の元へ行った。手を掴み引き上げる。

「すいませんすいません。ありがとうございます。ちょっと上下の感覚がわかんなくなっちゃいまして」

「また玄様ですか」

「そうなんですよ」

「はあ」

「さ、行きましょう」

 北村は伸也の腕を掴んで引っ張った。

「て言うか、どこへ行くんですか?」

「わたくしもよくわからないのです。ともかく、ここから出て行かなければならないのです」

「玄がそう言ってるの?」

「その通りでございます。さあ、行きましょう」

「ちょっと待ってよ、喉が渇いているんだから、水を飲ませてよ」

「そんな暇はございません」

 唇をわなわなと震わせながら、訴えるような目をして、さらにぐいと腕を引っ張ってくる。

「わかりましたから」

 北村の力に逆らい、携帯電話とペットボトルを持った時、

 窓が真っ白に光った。


 麻衣子は新宿から北に向かって明治通りを歩いていた。最初は走っていたが、ペース配分など考えられず夢中で走っていたので、炎天下ではすぐにスタミナが尽きた。行かなければという思いが体の中で暴れ回っていたが、足が動かない。頭上から日差しが容赦なく照りつけ、路上は車が埋め尽くし、熱気を帯びた排気ガスをまき散らしていた。それだけでも息が詰まるが、時折吹く風は、プラスチックが焼け焦げたような異臭を運んでくる。喉がカラカラに渇き、吐き気を催してくる。

 信号が変わっても一切動くことのない車の中では、人々が皆、不安と苛立ちを抱えた目をしていた。どこからかクラクションが響き、男の怒鳴り声が聞こえてきた。

 さっきまで伸也たちと朝食を食べていたのが幻のように思えてきた。マンションに戻った後に感じた地鳴りのような音。外へ出ると見えた立ち上る黒煙。そして十分後にテレビに映し出された映像。映画のワンシーンのように、青い空を背景に、ビルが真っ黒な煙を上げながら燃えていた。

 何もかも変わってしまった。

 電話とメールは回線がパンクして繋がらない。SNSはどうにか繋がったが、伸也にメッセージを送っても返事はなかった。そのうち友人から雑司ヶ谷でも爆発が起きているとメッセージが来て、いても立ってもいられず、部屋を出た。

 最初は車で行くつもりだったが、すでに駐車場は他の人たちが、出口へ向かって列を作っていた。道路は車で溢れ、全く動かない。

――都心はまだまだ爆発が続く、速く逃げろ――

――東京が火の海になるぞ――

 SNSはデマともつかないメッセージで溢れ出していた。みんな恐怖に駆られて東京から逃げだそうとしているのだ。麻衣子は自動車に乗るのを諦め、伸也の住む雑司が谷へ向かって走り出していた。二十分前のことだった。

「あの……どこか動いている電車を知っていますか」

 声をかけられて振り向くと、抱っこひもで幼児を抱えた中年の女性が立っていた。隣には幼稚園ぐらいの男の子がいて、女性の右手を握っている。もう一方の手は、キャリーバッグの取っ手を掴んでいた。女性は麻衣子を見ながらも、不安げに視線をあちこちに巡らせている。

「テロを警戒して、どこも止めているみたいですよ」

「そうですか」

 はあっとため息をつきながら、女性は歩き出した。突然の災いに、いても立ってもいられず、子を連れて外へ出てきたのだろう。同情はするが、麻衣子にも守らなければならない人がいる。麻衣子は女性を置いて、足早に歩き出す。

 ペース配分も考えず、がむしゃらに走ったせいで、走るだけの力は尽きていた。それでも張り裂けそうになる不安に突き動かされ、足を踏み出し続ける。握りしめた携帯電話をチェックするが、伸也からの返信はなかった。

 あたしには、もうあんたしかいないんだから。

 伸也がいない世界。そんな想像をしただけで、心細くなって頭の中が真っ白になる。灼けるような日差しが脳を沸騰させそうなほど熱くし、目の前の風景が、溢れた涙で陽炎のように揺らぐ。その向こうに、伸也と出会った頃の思い出が立ち上っていく気がした。 


 伸也と出会ったのは三年前。麻衣子が十八歳でDROPのオーディションに受かり、新人ダンサーとして所属したときだった。その頃伸也はすでにスターダンサーの一人として活躍しており、麻衣子にとっては雲の上のような存在だった。

 そんなある日、ドラッグストアで買い物をしていると、店のカゴを下げて歩いている伸也を見かけた。恐れ多くて声をかけようか迷いながら、ただ見ていると、いつもと様子が違うのに気づいた。目に焦りの色を浮かべながら、何かを探すように、足早に歩きながらキョロキョロと棚を見ている。

「あの……宮本さん、何かお探し物ですか」

 恐る恐る声をかけると、伸也はぎょっとしたように麻衣子を見た。

「君は、去年入ってきた……山野さんだね」

「はい、山野麻衣子です」

 あたしなんかでも名前を覚えてくれていたんだと思い、ちょっとうれしかった。

「何か捜し物ですか」

「うん、それがね……」伸也はわずかに言い淀み、一段声を落として言う。「生理用品なんだ」

「えっ」麻衣子は一瞬言葉に詰まりながら、あんまり驚くのも失礼だと思い、腹に力を込めて平静取り戻し、「こっちです」と歩き出した。棚へ行くと様々な種類があり、どれを選ぼうか、戸惑っている様子がありありとうかがえた。

「使う人から、商品の指定とか聞いていますか」

「それが、当人には聞けない状態なんだ。病院から言われて買いに来たんだけど」

「入院ですか」

 麻衣子を見ずに小さく頷いた。訳ありなのかな思いつつ、チラリと伸也が持っているカゴの中身をみた。歯磨き粉とティッシュペーパーが一箱入っていた。

「入院だったら夜用のこのタイプにしたらどうですか」

 伸也は麻衣子が指定した物を、素直にカゴに入れた。

「歯ブラシはありますか?」

「家にあるのを持って行くよ」

「あと、ウエットティッシュがあると便利です。それにスリッパも必要です」

 伸也は麻衣子の指示に従って、必要な物をカゴに入れた。

「ありがとう、助かったよ」

 会計を済ませて店を出ると、伸也は麻衣子に向かって頭を下げた。

「いえいえとんでもございません」

 麻衣子は恐縮して頭を下げ返した。

「入院のこと、よく知ってるね」

「身内が入院してたことがありましたから」

「そうだったんだ」伸也の口が、小さくあっと言い出しそうになった「ごめん、プライベートなこと聞いちゃって」

「ううん、大丈夫ですから」

 麻衣子は笑ってみせた。

 伸也は「じゃあ」と言って歩きはじめた。いつも多くの人々から羨望のまなざしで見られている伸也が、両手でレジ袋を下げている姿を見ていると、なんだかいたたまれなくなってきた。

「伸也さん、あたし、持ちましょうか」

「大丈夫。すぐ近くだし」

 振り向いてニコリと笑い、再び歩き出す。麻衣子はその後ろ姿が寂しげなのが気になり、闇に消えるまでじっと見ていた。


 伸也から食事の誘いがあったのは、その一週間後のことだった。ドラッグストアで助けてくれたお礼だという。渋谷駅で待ち合わせをして、道玄坂にあるイタリアンで夕食を共にした。最初はダンスに関する話ばかりだったが、くつろいだ雰囲気になってきたところで、伸也は自分の家族の事を話し始めた。

「この間入院したのは俺の母親なんだ。酒を飲んだ上に睡眠薬まで飲んじゃってさ。二日間昏睡状態だったよ。どうしてこんな事をしたのか聞いたんだけどね。記憶がないって言うのさ。でも、明らかに精神的な問題があるだろうから、今は精神科の病院へ入院しているんだ。原因は俺の病気さ。そのせいで親父とも離婚しなくちゃならなかったしね。すごく申し訳なく思っているよ」

「大変だったんですね」

「救急車で運ばれるなんて初めてでさ、気も動転してたし、正直あのときはすごく心細かったんだ。君が話しかけてくれて、ほっとしたよ。改めてお礼を言うよ」

「いえいえ、とんでもないです」

 麻衣子は恐縮しながらも、同じなんだと思う。この人ならわかってもらえるんじゃないか。そんな考えがふっと浮かび上がり、心の底に押し込み、鍵をかけていたはずの思いが口をついて出た。

「あたしも、そうなんです」

「ああ」驚いた顔をして見せた伸也に、つい口にしてしまったのを後悔した。

「ごめんよ。急に言われたから。もしよかったら君の話をしてくれないか」

 伸也の真剣なまなざしに励まされて、麻衣子は頷く。

「あたしの生まれは川崎の郊外にある住宅地。お父さんはメーカーに勤めるサラリーマンで、お母さんは近くにあるスーパー銭湯でパートをしていたわ。

 透明症を発症したのは十一歳のころ。最初は隠していたんだけど、長いこと学校を休めばすぐにわかっちゃうでしょ。噂が広がって、お母さんはパートを首になったり、近所の人から避けられるようになったりで、すっかり塞ぎ込んじゃったの。お父さんはそんなお母さんを助けるどころか愛人を作って逃げちゃったわ。

 お父さんとお母さんは離婚して、お母さんが親権を持つことになったの。あたしは施設に送られて、戻ってきたら補助金目当ての男が転がり込んでいて、散々いじめられたわ。結局あたしの定期検査であざが見つかったのがきっかけで、男は逮捕。お母さんは手首を切って病院行きよ。最後はビルから飛び降りて死んじゃったわ。

 親権はお父さんに移ったけど、あの人も再婚して子供までいるし、そこへあたしが転がり込むなんて、ごめんだった。だから高校卒業まで、ずつと施設にいた」

 話しながら、今まで親しかった子にも打ち明けたことがなかった事を、すらすらと口にできるのはどうしてなんだろうと思っていた。施設にも麻衣子と似たような境遇らしき雰囲気の子はたくさんいた。しかし、お互い壁を作って、自分の傷を語り合うのはずっと避けてきたはずだった。それなのに、どうして。

「だから、麻衣子ちゃんにはダンスで生きていこうと決意したんだね」

「えっ? そうなんですけど……どうしてわかるんですか」

「麻衣子ちゃんのダンスを見ていればわかるよ。輝きが違うんだ。去年DROPと契約したときに、お披露目のダンスをしただろ。あのときから他の子とは違うって気づいたよ」

「でも、あたしなんかより、もっとうまい同期の子がいるし」

「技術的にはね。切れるある動きとか、輝きをより効果的に見せるとか。でも、オーロラダンスは踊り手の感情とか必死さが、輝きの質感になって現れるんだ。ほんの微妙な違いなんだけど、それがオーディエンスを魅了するんだ。ホールがたくさんある中で、DROPはずっと支持を集めているだろ。技術的な面もあるけど、荒川さんがそういう子をオーディションで見分けて採用することが大きいんだ。麻衣子ちゃんにはそれがある。きっと三年後にDROPに残っているのは、麻衣子ちゃんともう一人の男の子だけだよ」

「あたしの必死さが輝きに現れるんですか」

「そうだよ。苦難に抗おうとする力が輝きになって現れるんだ。麻衣子ちゃんもそのうち見えてくるようになるさ」

 不意に感情がこみ上げ、恥ずかしくなるほどの大量の涙が溢れ、頬を伝っていく。

「急にどうしたのさ」

「ごめんなさい。あたし、これまで苦しんできたことに意味なんかないって、ずっと思ってた。なんであたしだけこんな目に遭わなきゃなんないのって、ずっと思ってた。でもね、それが魅力になるなんて、思ってもみなかったからうれしくて」

 伸也は慌てた顔をして、バックパックからポケットティッシュを取り出して差し出した。その中に食べ放題の焼肉屋のクーポン券が入っていたので、思わず笑ってしまう。

「あ、それまずかったなあ」

 動揺した伸也を見て、先輩ながらかわいいなと思った。

 伸也は父親に捨てられたこと、施設や自分の母の話をした。淡々と話す内容の背後で、強い悲しみを背負っているのがわかり、麻衣子は深い場所で共感した。

 その後、麻衣子は伸也と付き合うようになった。当時麻衣子には、別に付き合っているオーロラダンサー志望の男がいたが、オーディションに落ちまくっていた。何で俺が受からないんだと嘆いてばかりいる男は、それなりに技術を持っていたが、輝きが鈍かった。これこそ伸也の言っていた事かと気づき、麻衣子は男と別れる決心をした。

 伸也にも彼女がおり、健常者でかなりの美人だった。オーロラダンサーは健常者の女の子と付き合うのがステイタスという風潮があり、伸也も例外ではなかった。しかし彼の苦しみは、あたしにしかわからないという思いが麻衣子を強くさせた。健常者との彼女とも直接のやりとりがあったし、トラブルを嫌う荒川から解雇をちらつかされたが、怯まなかった。半ば奪い取るような形で伸也を振り向かせた。


 雑司ヶ谷にある昔ながらの商店街は、いつも老人や主婦たちが歩いているはずなのに、今は人影がなく、店も閉まったままだ。時が止まったような空疎な空気が、キリコの絵を思い出させ、不安を増幅させた。

 北に向かって歩いて行くと、前方に白い煙が立ち上っている光景が目に入ってきた。そこは伸也の住むマンションが見えていた場所だ。ペットボトルを取り落とし、カランと乾いた音が足下で響いたが、同時にどこか遠い場所から聞こえてくる気がした。

 喉の奥から、声にならない悲鳴が出てくる。

 動かない足を必死で動かし、商店街を走る。

 唐突に、住宅が自分に向かってなぎ倒されている光景が現れた。コンクリートの瓦礫が道路上に散乱していた。その上をよろけながら歩いて行く。辺りは埃っぽくて強い刺激臭を含んだ煙が充満し、息をするのもつらかった。さらに進むと火災が発生しており、耐えがたいほどの熱気が頬を嬲った。

 風向きが変わり、クリアな空気が入ってきたとき、マンションの全景が目の前に現れた。麻衣子は体の力が抜けて、膝から崩れ落ちた。口をあんぐりと開け、凝視する。

 伸也が住んでいたマンションは屋上から一階の手前まで、斜めに吹き飛ばされていた。残った部分も、真っ白な煙をまき散らしていた。伸也が住んでいた部屋は跡形もなかった。

「伸也……」

 頭が真っ白になりながらも、伸也が生きている可能性を考えいたが、思考が空回りするだけだ。

 伸也、死んじゃったの。

 心臓が爆発するように鼓動し、体が震えてくる。

 不意にお守りのように握りしめていた携帯電話がバイブレーションした。意識が飛んでいたが、機械的にSNSを開いた。

――返事が遅れてごめんよ。北村さんに連れて行かれちゃってさ――

 伸也からだった。

 麻衣子は震える手で、何度も間違えながら、メッセージを返す。

――生きてるの?――

――当たり前じゃん。なんでそんなこと言うの――

「よかったあ」

 はあっと息を吐きながら、安堵していると、ボロボロ涙が溢れてきた。

――今、どこにいるの?――

――よくわかんないけど、北村さんが言うには長野県みたいだよ――

――あたしは伸也のマンションの前。伸也の部屋が、跡形もなく爆破されているわ――

――ええっ!――


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