第二部 破壊 8
松田佳菜実は地下鉄に揺られながら、ぼんやりと真っ暗な窓の外を見ていた。今週は九時半出勤なので、比較的空いているが、それでも座席はすべて埋まっている。ガタンと揺れた瞬間、ハイヒールの足では体を支えきれず、ぎゅっと吊り革に掴まりながら耐える。
霞ヶ関駅に着いて電車が止まり、ドアが開く。どっと吐き出される人の波に乗って佳菜実もホームへ出た。早足で歩きながら、腰回りが若干きつくなっているのを意識した。ここんとこ飲み会が続いていたから、脂肪がつき始めてきたか。気をつけないとと思う。
飲み会と言えば昨日の男だ。佳菜実はそっとため息をつく。外資系パソコンメーカー勤務という触れ込みだったが、よくよく聞けば、そのパソコンを専門に運ぶ物流会社に勤務しているだけだった。もちろんパソコンメーカーとは資本関係がない。大声で将来独立して会社を立ち上げるんだとイキっていたが、聞けば聞くほど現実感に乏しく、最後は合図打ちをするのも疲れてしまった。三十一歳なんだから、下請けの一社員に大手メーカーが金を出すはずがないなんてわかるだろうと思う。
ぶり返す怒りを抱えながら階段を上りきり、強い日差しを浴びた。UVカットのファンデーションを付けてはいるが、それでも心配なので日傘を差す。官庁街の広々とした道には、通勤するワイシャツ姿の公務員らしき人々が行き交っていた。一年前にはいい出会いがあるかと思って勤め始めた勤務先だが、官庁のエリート公務員は佳菜実のような派遣社員には見向きもしなかった。きっと、ああいう人たちは、同じような学歴の人と付き合うんだろうなと思う。あたしみたいに名前も知られていない三流大学出身の非正規社員とは、住む世界が違うんだ。
来週はとうとう二十九歳の誕生日が来る。母親には三十歳で結婚を決めると宣言していたが、どうやら厳しい雰囲気だ。ため息が出る。
「あの……すいません」
不意に声をかけられて、うつむいていた顔を上げる。いつの間にか、目の前に男が立ったいた。年は二十歳過ぎだろうか。まだあどけなさが残る顔立ちだった。痩せ気味で細身のブルージーンズに白いTシャツ、小ぶりなバッグを肩に掛けている。この辺りではあまり見かけない風体だ。
「警視庁ってどこにあるんでしょうか」
「すぐ近くですよ。あたしは国交省へ行くから、途中まで一緒に行きましょう」
「ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げる姿が初々しくてかわいい。顔もアイドルとまではいかないけど、悪くはなかった。こんな子と遊ぶのもいいけど、きっと生活力はないんだろうなあと思い、心の中でため息をついた。
「スマホに場所を登録したんですけど、途中で電池切れしちゃいまして」
「ふうん。でも、どうして警視庁なんか行くの?」
「仕事の関係で、待ち合わせをすることになったんですけど、その場所が警視庁前でして」
「変な場所で待ち合わせをするのね。普通は駅前とかでしょうに」
「そこがら近くの場所へ移動するみたいなんです」
「あなた、秋田出身?」
「えっ、よくわかりましたね。僕、秋田市から夜行バスで今朝着いたんですよ」
「『そこがら』でなくて、『そこから』よ。標準語はかが濁らないわ」
「気をつけていたんですけど、知らないうちに出ちゃうんですねえ」
男は恥ずかしそうに苦笑いを浮かべた。
「あたしも出身は男鹿市なの。だからそういうところってすごくわかるのよ」
「あ、そうなんですか。東京へ来て、初めて声をかけた人が同じ秋田の人だなんて、すごい偶然ですねえ」
「大学進学で東京に来たときは、標準語に直すのが大変だったわ」
交差点を右に曲がると、佳菜実が勤める国交省の玄関が見えてきた。また退屈なデータ集計作業が始まるんだと思い、ため息をつく。
国交省の玄関前に着いた。
「警視庁はこの先の角のところですから」
佳菜実が指さすと、男は再びぺこりと頭を下げた。歩き出そうとすると、前方から制服を着た警官が二人、小走りでこちらへ向かってきた。
「あなたたち、ちょっと待って」
「え、私?」明らかに警官は佳菜実を見ていた。仕方なく立ち止まる。
「すいません、お二人の関係を教えていただけますか」
「この人に道を教えていただけです。あたしはこれから国交省へ仕事に行くんです」
やれやれ、職質か。多摩の爆破事件以来、警官が倍ぐらいに増えていて、ちょっとでも挙動不審だと、片っ端から職質をかけられていた。隣で働いている芽衣は、仕事帰りにライブへ行くために着替えをキャリーバッグへ詰めて出勤したら、職質で中身を調べられたと怒っていた。
「僕は警視庁で待ち合わせをしていまして」
「警視庁?」
警官たちの顔色が変わった。一人が無線を取り出して話し始める。たちまちパトカーが横付けされて、新たな警官が加わった。
「申し訳ありませんが、所持品を見せさせていただけますか」
言葉は丁寧だが、有無を言わせぬ威圧感を発散させながら話しかけてくる。
佳菜実はむっとしながら肩に掛けていたトートバッグを差し出す。警官はファスナーを開けて、無造作に中を調べ始めた。
生理用品だって入っているんだからね。心の中で毒づきながら腕時計を見た。九時十五分を過ぎようとしていた。このままだと、始業五分前に着席するのは絶望的だ。
派遣先の上司である田川係長の顔が頭に浮かび、半年前の出来事を思い出す。電車の遅れで、職場に着くのが遅れた。始業三分前に着席してほっとすると、田川がむっとした顔で「社会人の常識として、始業五分前に席に着いているのは当たり前だろう」と言い放った。
あのデブ。あたしたちは始業開始からしか給料もらっていないんだからね。三十六のくせに髪の毛は薄いしデスクトップは二流アイドルの壁紙を貼ってあるし近くに来ると変な臭いがするしあたしたちにはガミガミ言うくせに中村課長にはペコペコ頭下げてるしあんなんで結婚できるはずがないって。
あのときの怒りがぶり返し、悪口が電光掲示板のように、ずらずらと頭の中を巡っていく。
「おい、どうした」
警察官の切迫した声で、現実に引き戻された。
若い男がガタガタと体を痙攣させている。
「グオォォッッッ……」
男が白目になり、喉から絞り出すような声を上げ始めた。皮膚が所々で透明になり始める。
警察官たち全員が男を囲むようにして注視している。佳菜実のトートバッグは口を開けたまま、路上に放置されていた。
「どうしちゃったんですか」
恐る恐る声をかけた佳菜実に、警察官がこわばった顔で振り向いた。
「危険だ、逃げろっ」
「え? ええっ」
逃げろって、止めたのはあんたたちじゃないのよ。トートバッグを持って帰ってもいいの? だいたい、どこへ逃げろって言うのさ。
佳菜実が戸惑って立ち尽くしていると、男の体が輝き始める。
ぱっと、光の粒になって弾けた。
風景が消え、すべてが光で満たされる。
佳菜実の意識はそこで途絶えた。
あいつ、また遅いな。田川は一つだけ空いている佳菜実の席を見て、軽い怒りを覚えた。始業の九時半まであと十分。五分前までなら許容範囲だが、それより遅くなったらまた言わなければならない。彼女は派遣できてもらっている人たちの中でも一番ミスが多いんだから。きっと仕事に対する姿勢がだめなんだよな。
田川はため息をつきながらデスクトップ画面に視線を移し、壁紙に設定した岡村愛良の笑顔を見て癒やされる。
頑張ろうと思う。明日は愛良ちゃんの卒コンなんだから、絶対定時で帰らなくちゃ。そのためにはレポート三件を、全部今日中に課長へ提出しなければ。田川はワープロを立ち上げた。
「あの人、松田さんじゃないの」
声が聞こえて振り向くと、女性職員が二人、窓から外を覗いているのが見えた。
「松田さんがどうかしましたか」
田川は三十代後半に突入してから、急速に重くなり始めた体を意識しながら立ち上がり、女性職員の横に並んだ。
「ほら、あの人たち」
玄関前の歩道に数人が集まっている。大半が青い制服の警官だが、その中に白いTシャツ姿の男と、スーツらしき上下を着た女がいる。田川の視力では、顔までは見分けがつかない。はっきり見ようとして、ずれていた眼鏡を直し、窓へ顔を近づけた。
「ん?」
集団から何かが光っていると思った瞬間、窓一面へ輝きが広がった。
光は強烈な熱を孕み、窓ガラスを一瞬で溶かして田川の上半身を襲った。0.5秒後、額から腹にかけての皮膚と筋肉は炭化し、血液は蒸発した。同時に強烈な圧力がかかり、田川のいるフロアを突き上げるように床や柱をバラバラに砕いた。田上の体は燃えながら、木の葉のように舞い上がっていく。同じフロアにいた人々は、何が起きたかわからないまま、高熱によるショックで命を奪われた。
爆風はビルの三分の一を吹き飛ばし、瓦礫と死体が斜め上に向かって飛散していく。
桜田通りでも爆発は起きた。法務省の赤れんが棟は一瞬で跡形もなく吹き飛び、向かいの警視庁本部庁舎は五階までにいた人々を爆圧と高熱で即死させた。さらに火災で生じた煙が上階で辛うじて生き残った人々を襲った。想定を遙かに超える大量の煙は、防火扉が閉まる前に各フロアへ侵入し、多くの人々が一酸化炭素を吸い込んで、バタバタと倒れていく。
ドーンとという、地震とは明らかに違う揺れを感じ、藤岡は目を開けた。五秒後、けたたましい警報音が鳴り始める中、照明を点け、ベッドから抜け出した。ワイシャツを羽織り、スーツの上着を掴んで仮眠室を出た。LEDの無機質な照明に照らされた白い廊下を迷うことなく小走りで進む。B4513とだけ表示されているドアの前に立ち、センサーに顔を認識される。ドアが開いたところで上着の肩のずれを直し、身だしなみを完璧にして中へ入った。
テニスコートが二面すっぽりと入るぐらいの空間が広がっていた。正面には巨大なモニターが設置されてあり、細かく分割されて様々な画像が映し出されていた。それらは防犯カメラであったり、携帯電話で映された映像だったりした。
室内には十人ほどの男女がおり、緊迫した表情で電話をかけたり、パソコンのキーボードをたたいている。
「何が起きた」
藤岡が中央にあるデスクに座り声をかけると、始めてその存在に気がついたように、男の一人が振り向いた。
「警察庁と警視庁が攻撃を受けました。大規模な爆発が起きている模様です」
「合同庁舎六号館A棟B棟でも爆発が起きています」
「法務省と検察庁もやられたか」
「首相官邸前、山王坂の衆議院会館、参院議員会館でも爆発が起きています」
慌てた表情で、新たな男女が入ってきて、それぞれの席に着き始める。
「原のグループは霞ヶ関の現状を把握しろ。木場は都内の警察の現状把握、皆川たちは都内以外でテロが起きていないか確認。角田は外にいる職員の安否確認を頼む」
「はいっ」と声が響き、職員たちが仕事を始めた。
「警視庁機動隊の九拠点でも爆発が確認されました」
「大阪市の戎橋で爆発があった模様」
「名古屋の栄地下街でも爆発がありました」
「新千歳空港でも爆発あり」
「福岡渡辺通り、天神駅付近でも爆発がありました」
藤岡は部下の報告を、腕を組み、鋭い目で正面のディスプレイを見つめながら、じっと聞いていた。
「警視庁の動画がSNSへ投稿されました。ディスプレイへ表示します」
前面の大型ディスプレイ一面に、大量の黒煙を上げながら燃えている警視庁の画像が映し出された。更に画面が分割され、別の建物が燃えている動画が映し出されていく。火災の動画は加速度的に増えていく。
机に置いてあった藤岡の携帯電話がバイブレーションし始めた。藤岡は電話を取る。
「一体お前たちは何をやっているんだっ」
怒鳴り声が響く。水沢官房長官だった。藤岡はわずかに顔をしかめた。
「お前らはこうなる前に事を収めるのが仕事じゃないのか」
「確かにその点に関してはお詫び申し上げます。しかし――」
「しかしじゃない。私は今まで、お前たちを無用の長物呼ばわりしている勢力を押さえつけていたが、こんな事態になったからにはもう奴らを止めることはできない」
「その点は重々承知しております。ただ、今は事態の収拾に努めなければなりません。組織の存続についてはすべてが終わってからにしてください」
一方的に電話を切ったが、すぐにバイブレーションが響き始めた。画面を見ると同じ番号だった。
「電話に出なくてもよろしいんでしょうか」
いつの間にか、隣で竹井が立っており、ディスプレイを見つめていた。
「構わん。それよりもこのテロをお前は誰の仕業と考える」
「グロウの仕業としか思えません。こんな爆発を起こせるのは奴らしかいません」
「では、奴らはどうしてこんなまねをした」
「現状では正直わかりかねます。仮に彼らが政府の転覆を目指しているとしても、掴まっていないグロウのメンバーは現在二十五人です。武力面も含めて、彼らに国を掌握できるほどの力はありません」
「勢力はない……そうだな」
一瞬、藤岡は考え込むように視線を下へ向けたが、すぐに向き直り、さらに鋭さを増した眼光で叫ぶ。
「皆川、立川拘置所の状況をチェックしろ」
皆川がパソコンに向かう。
「小野貴斗ですか」
「藤岡課長、立川拘置所前で爆発が確認されました」
「角田、外部メンバーへ宮本、北村、栗山の三名を確保をするよう伝えろ」
藤岡は歯を食いしばりながら、青い空に黒煙を映し出すディスプレイを睨み付けていた。
「だからあいつらはここに確保するべきだと言ったんだ。この緊急事態に人権だなどと抜かしやがって」
吐き捨てるようにつぶやきながら机を拳でたたいた。鈍い音が響く。
「あいつらが唯一の希望なんだ。しかし、もうだめかもしれん」
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