第二部 破壊 7
気がついたとき、周囲は暗闇に包まれていた。どうなっているんだと思いながら、手をついて半身を起こそうとしたが、手が隙間に落ち込んだ。引き抜きながら腹筋だけを使って体を起こすと、傾いた窓ガラスが見えた。ガラス越しにはLEDの照明に照らされた白いベンツが見えていた。
見たことがあると思った瞬間、ここが自動車の中で、いつも麻衣子が止めている場所だと気づいた。シートを倒した助手席に寝ていて、手が嵌まった場所は助手席と運転席の隙間だ。ダッシュボードには小さなブルドッグの置物が、デフォルメした表情で伸也を睨み付けている。ここは麻衣子の車の中だった。
無意識のうちにポケットに手を入れると、携帯電話の感触があった。取り出して電源を入れる。SNSを開けると、麻衣子や雄大を始め、DROP関係者から大量のメッセージが表示された。すべて「早く返事をちょうだい」「どこにいるんだ」といった内容だ。んなんだよと思いながら、ふと左上の時刻を見ると午前二時を表示していた。半日以上拉致されていたんだと思いながら日付を確認すると、木曜日と表示されて小さくあっと叫んでしまった。DROPで荒川の説明があったのが月曜日だから、すでに丸々二日以上経過していた。
あいつら、俺に何かしたのか。思わず両手で体に触れたが、寝ていたせいか筋肉にこわばりがあったものの、他に違和感はなかった。シートを起こして、麻衣子に電話を掛けた。
「今どこにいるのよ」
焦った麻衣子の声が聞こえてきた。
「お前の車の中だよ」
「何よそれ。みんな散々心配してたんだからね」
「そんなこと言われたって困るよ。俺だって恵比寿駅で拉致されて、気づいたらここにいたんだし」
「ちょっと待って」
いつも部屋着で着ているよれよれなTシャツとスエットパンツ姿の麻衣子が、焦った顔で駆けてくるのが見えた。ドアを開けて車外へ出たところで、麻衣子に抱きしめられる。
「どこ行ってたのよ。本当に心配していたんだから。警察に行ったって言ったきり、夜になっても帰ってこないし、携帯の電源も切ったままだし。もしかしてまた拘束されたんじゃないかと思って、警察に電話したのよ。そしたら伸也は来ていませんて言われるし」
最後は涙声になった麻衣子に「ごめんな」と言いながら、抱きしめ返した。
「竹井から電話があったんだ。荒川さんがDROPを閉める理由を教えてくれるって言うから、のこのこ出かけちまったんだ」
その後は本当に新宿署へ連れて行かれ、事情を聞かれることになった。竹井からの電話の内容から始まって、気がついたときの部屋の様子や三角眼の男の特徴まで、うんざりするくらい繰り返し聞かれた。伸也は包み隠さずすべてを話したが、取り調べをした刑事は納得しない様子だった。この件に竹井が関与しているのだから、必死になるのはわかるが、伸也自身も三角眼の男の正体も含め、何が起きているのかさっぱりわからなかった。ようやく解放された時は午前八時を過ぎていた。
ロビーへ行くと、麻衣子と安田の巨体がベンチに座っているのが見えた。
「伸也、体調は問題ないか」
「はい、ありがとうございます」
「腹は空いていないか」
「何か食べたいです」
「この近くに早い時間から営業している喫茶店があるから行こう」
「お願いします」
安田は立ち上がり、ロビーを出た。外に出ると、すでに強い日差しが道路に降り注いでいた。伸也は目を瞬かせながら歩く。風はまだ爽やかだったものの、あと数時間もすれば、うだるような暑さになるのだろう。
角を曲がると爆発があった三階が見えた。修復が終わっていないのだろう、壁に足場が組まれ、窓の部分はまだブルーシートで覆われている。シートの上の部分に残っている、黒く煤けた跡が禍々しい空気を発散していた。
青梅街道をしばらく西に進んで角を左曲がったところに、営業中の喫茶店があった。自動ドアから中に入っていく。北欧風のモダンなインテリアで、出勤前の会社員でやや混み合っていた。ウエイトレスに案内されて、一番奥の席へ座った。三人ともモーニングセットを頼んだ。
「さて、疲れているところを悪いが、俺たちにも状況を教えてくれないか」
伸也は月曜日に品川のスタジオを出てからの話を二人にした。
「体調は問題ないの? 怪我はしていない?」
「大丈夫さ。ただ首筋に二カ所、注射針で刺した跡はあったけどね。そのほかに手首に注射跡があったんだ。ほら」
伸也は手のひらを上にして左手を差し出した。手首の静脈の上がわずかに赤みを帯びていた。
「睡眠薬を点滴されていたらしい。さっき警察で血を採られたよ。睡眠薬の成分が残っていないか調べるそうだよ」
「伸也を拉致した連中は、お前にグロウと戦えと言ったんだろ。なんであえて眠らせる必要があったんだろうな」
「それが謎なんですよ」
「北村さんと奈緒だが、お前と同じように、月曜日に拉致されて、昨日の深夜に解放されたのは知ってるな」
「はい、警察で聞きました」
「奴ら、身体検査でもしたんじゃないのかな」
「透明症に関してでしょうか」
「ああ。奴らは俺たちが知らない情報を知っているんだろうな。伸也、お前に他の透明症とは違っている特徴はないのか?」
「そう言われても……心当たりはありませんよ」
「俺や麻衣子でなく、お前たちが選ばれたのは何らかの理由があるはずなんだ」
「ダンスバトルの能力かしら。高藤の店に行った後、荒川さんにバトルのレッスンを受けたけど、あたしは全然だめだったわ」
「つまり、伸也はダンスバトルをする能力を持っていると」
「それに、北村さんは伸也のことを『選ばれし者』と言っていたわ」
「伸也は何か自覚みたいな物はないのか」
「あるわけないでしょ。北村さんに言われて、俺はいい迷惑なんですから」
モーニングセットが運ばれてきた。芳ばしい香りのコーヒーを一口飲んだ。モヤモヤしていた意識がすっと晴れていく気がした。続いて厚切りのバタートーストを口にする。サクサクした表面と中の柔らかなパンの食感が食欲を加速した。たちまち一枚を平らげ、ベーコンエッグを食べきった。残った一息つき、残ったコーヒーを飲み干した。
「そういえば、荒川さんは今どうしているんだ」
「それがね」麻衣子の顔が曇る。「行方をくらましちゃってるのよ。従業員の対応は弁護士がしている状態。雄大たちは直接会わせろって言っているんだけど、入院中だからって拒否しているわ。マンションへ行っても誰もいないし、みんな怒り心頭よ」
「荒川さんの件も竹井が絡んでいるから、伸也の拉致と関わりがあるはずなんだがな。一回会って、問い詰めなければな」
安田がタクシーに乗って帰るというので、雑司が谷の自宅まで送ってもらうことにした。麻衣子は一緒にいたがっている様子だったが、疲れているので、広いベッドで一人眠りたい気分だった。
自宅マンションの前にタクシーが着いた。安田に礼を言ってタクシーを降りた。
「何かあったら、すぐ俺のところへ連絡するんだぞ」
静かな住宅地に響く声を残して、安田を乗せたタクシーは走り去っていた。伸也はタクシーを見送ると、マンションに入り、エレベーターに乗って、自分の部屋へ行った。
このところ、麻衣子のマンションでほぼ同棲生活みたいな状態だったので、ずっと留守のままだった。そのせいか空気がややかび臭い。エアコンをかける前に空気を入れ換えようと思い、カーテンと窓を開ける。
熱気を帯びた空気が入り込んで、じわりと汗が滲み始めてきた。冷蔵庫にミネラルウォーターがあるはずなので、飲んでおこうと思ったときだ。
ドーンと地鳴りのような音が響くと同時に、わずかにマンションが揺れた。
「何だ……」
雨染みがこびりついたプラスチックのサンダルを履いて、ベランダへ出た。正面はビルで何も見えないので、身を乗り出して太陽光に目を細めながら道路沿いを見る。静かな朝の町並みが続き、ビルの合間から青い空が広がっていた。
再び地鳴りと揺れが起きた。どうやらこのあたりで起こっているようではない。どこかで工事でもやっているのかな思う。
部屋へ戻ろうと思ったとき目の隅に違和感を覚え、もう一度ベランダに身を乗り出す。右側のビルの隙間から、真っ黒な煙が立ち上っていた。
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