第二部 破壊 4
その店は荒川が勤める大学にほど近い、本郷の学生用アパートが建ち並ぶ一角にあった。カフェと言うより、喫茶店といった方がしっくりくる店構えだ。薄暗い店内の奥に座り、濃いめのブラックコーヒーを飲んでいた。店主の趣味なのだろうか、店内にはベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲が控えめに流れている。腕時計を見て、もうそろそろだなと思ったとき、店のドアが開いた。
蓮村啓介は奥に座っていた荒川を見つけると、子供っぽい目の周囲にある皺を深め、人なつっこい笑顔を浮かべた。
「ご無沙汰しております」
荒川は立ち上がり、一礼した。
「こちらこそ。忙しい中、時間をとらせてしまって申し訳ない」
蓮村は軽く会釈をして、荒川の向かいに座った。茶色のジャケットにグレイのスラックス。大学時代と変わらない服装だったが、一年ぶりに会ってみると、白髪が薄くなり、地肌が見え始め、一層老けたような印象だった。ただ、思ったほど消沈した様子はない。
「今年准教授になったそうだね。おめでとう」
「ありがとうございます」
「まあ、君くらいの能力だったら遅すぎるくらいなんだが」
「いえいえ、とんでもありません」
恐縮する荒川を手で制した。
「客観的な事実を言ったまでさ。私が大学に残っていたなら、もっと早く君を准教授に引き上げられたのにな。小室教授も見る目がないよ。まあ、君が私に近かったことが原因かもしれないがな」
「とんでもありません。あくまでも私の実力不足ですから」
「ま、憶測で話してもしかたがないか」
蓮村は寂しそうに小さく笑った。
「蓮村先生は今、何かされているんですか」
「その件なんだが」蓮村の目がわずかに光った気がした。「実はあるプロジェクトから誘いを受けてね。手伝いをしているんだ」
「はあ……」
大企業や公な機関で蓮村を採用するところはないだろう。だとしたら、怪しげなスピリチュアル関係にでも絡め取られたのか。
「プロジェクトというのはね、透明症に関するものなんだ」
荒川の体に、見えないナイフで貫かれたような痛みを感じた。
「どこが主催しているんですか」
「契約で、許可がないと話せないんだ」
「お言葉ですが、先生は今、私へそのプロジェクトについて説明されようとしているのではと思いますが」
「ははは、君は相変わらずロジカルだね」
「申し訳ありません、私の悪い癖で」
「いやいや、学者は常にロジカルでなければいけないよ。それに」蓮村の笑顔が消え、真顔で荒川を見つめる。「君の指摘は実に的確だ」
「どういう意味でしょうか」
「当局から、君の反応を見極めた上でプロジェクトを説明してくれと言われている」
痛みがすっと腹の底へ沈殿し、重苦しさへ変わっていく。頬がこわばっていくのを感じた。
「どうして私に……」
ある程度想像はついていたが、それでも聞かずにいられなかった。
「ここでは極めて話しにくい。場所を移させてもらえないか。怪しい連中ではないことは私が保証する」
どんな組織なのかわかならいのに、のこのこついて行くのは愚かすぎる。しかし、蓮村教授を差し向けた連中は、彼と透明症の組み合わせが、荒川に大きなインパクトをもたらすのをわかっているのだろう。
「荒川先生は、私の事情をご存じなんですか」
「ああ。大変なのは知っている」
「どこでそれを知ったんですか。私はまだ大学にも報告していないんです」
「それを含めて別の場所で説明させてもらいたい。来てくれるね」
蓮村が見つめる中、溢れ出ようとする感情が喉元で理性とぶつかり合い、言葉に詰まりかけたが、堤防が洪水で溢れるように、「はい」とつぶやいてしまった。蓮村はほっと息を吐いた。
蓮村はウエイトレスが運んできたコーヒーを一口飲み、立ち上がった。釣られるようにして荒川も立ち上がる。店を出て、蓮村がよどみない足取りで進む後をついて行き、春日通りへ出た。歩く先に先に黒いレクサスが停車しているのが目に入った。蓮村は慣れた様子でドアを開け、乗り込んだ。
「さあ、乗ってくれ」
躊躇している荒川に、蓮村が車内から声を掛けた。このまま立っているわけにも行かず、レクサスに乗り込んだ。
眼鏡を掛け、スーツを着た若い男が運転席に座っていた。後部座席の二人がシートベルトをつけると、運転席の男は言葉を発することなく車を発進させた。
レクサスは春日通りを南に向かって右折し、神田川を超えて丸の内へ入っていった。その一角にあるオフィスビルの前でレクサスが止まった。
「降りてくれないか」
蓮村に促されて車内から出る。どこへ行くのかと思っていると、続いて出てきた蓮村がオフィスビルの中へ入ってく。入り口で蓮村がカメラに顔を向けると、どこかで柔らかな電子音が響き、自動ドアが音もなく開いた。
「君もカメラを見てくれ」
蓮村と同じようにカメラと相対すると、電子音が響いた。勝手に自分の顔も登録されていたのかと思い、不快感を覚えた。蓮村はそんな荒川の気持ちなど斟酌せず、むしろ気分が高揚しているのか、弾んだ歩き方をしていた。正面にあるエレベーターのボタンを押し、中に入ると、躊躇なく七階のボタンを押す。
七階フロアはしんと静まりかえっていた。光沢を放つ大理石調の廊下を歩いて行くと、左手にあるドアの前で止まった。ドアには「一般財団法人日本ネクストステージ財団」と表示されていた。蓮村がインターホンを押す。
「藤岡さん、お連れしました」
鍵がカチャリと開く音がした。蓮村はドアを押し開けた。
広い部屋だなと思ったのが第一印象だったが、すぐに理由がわかった。室内には安物の黒いスチール机と、華のない応接セットが一セットずつあるだけで、他の調度品の類いは一切ない。無機質な白い床と灰色の壁がむき出しだった。
スチール机には、男が一人座っていた。痩せ型で長身、グレイのスーツにノーネクタイ姿だった。不健康に見えるほど生白い肌で、贅肉を落としたというよりも、干からびて骸骨に肌が貼り付いているような顔をしていた。三角眼がきつい印象だ。明らかに会社員とは違う雰囲気だったが、かといってアウトロー的なすさんだ印象もない。
「荒川先生、お忙しいところをご足労いただき、ありがとうございます」
男が立ち上がり、近づいてきた。「藤岡と申します」
丁寧にお辞儀をしたので、荒川もお辞儀を返した。しかし名刺を出す様子はない。
「どうぞ、おかけください」
ソファを勧められて荒川と蓮村は並んで座った。藤岡も向かいに座る。
「お茶もお出しできず申し訳ありません。見ての通り、何もない部屋でして」
そう言われて、改めて室内を見回す。「ここではどのような活動をされているんでしょうか」
藤岡が、クククと押し殺したような笑い声を上げた。
「お察しかも知れませんが、ここでは何の活動も行っておりません。ドアに表示された日本ネクストステージは休眠財団です」
「説明兼、面接会場と思ってほしい」
隣でにこやかに話す蓮村に、荒川は疑念の目を向けた。
「私一人のためですか。ずいぶんと家賃が高そうな場所ですね。ホテルのロビーとか、もっと簡単にできる方法はいくらでもあるんじゃないですか」
「私どもの組織は、情報漏洩に厳しいところでしてね。様々な状況を勘案して、こういった場所が最適だと結論づけた次第です」
「いったい、あなたたちはどういった組織なんですか」
「これから説明させていただきます。ただし、以降はこの話に関して守秘義務が生じます」
「そんなことを一方的に言われましても困りますよ」荒川は困惑しながら、曖昧に笑顔を浮かべた。
「荒川さんがそうおっしゃるのはごもっともです。ただ、荒川さんと我々の立場は、決して対等ではないと考えていただけますか」
藤岡は立ち上がり、机からノートパソコンを持って戻ってきた。「ご覧ください」
キーボードを操作し、荒川に画面を向けた。
部屋を撮影した動画が映し出されていた。雑多な印象のリビングで、木製のローテーブルの上にはパイ生地を焼いたお菓子が置いてあり、クリーム色のソファには、黒いリュックサックがあった。続いて壁に貼り付けてある九月のカレンダーが映し出された。二十六日に「大型ゴミ」と赤字で書いてあった。
荒川の表情がこわばり始めると同時に藤岡は手を伸ばし、キーボードを押して画面を消した。
間違いない、画面に映っているのは荒川の家のリビングだ。しかも最近撮影されていたものだ。
「お前……どうやってこれを」
「方法は様々あります。要は我々がこうしたことを実行可能だと知っていただきたかったのです」
「不法侵入と恐喝、犯罪じゃないか」
「警察に訴えますか? ちなみに今の画像はストリーミングですでにパソコン内にはキャッシュも残っていない。動画を発信したサイトも、すでに我々の手で削除してあります。
この部屋は三日後に契約解除の手続きをしていて、不動産業者に残されているのは、防犯カメラに写った契約で会社を訪れた男の顔と、偽の身分証明書だけです。可能性があるとすれば、隣の蓮村さんを説得して、証人にすることですが」
蓮村は目を泳がせながら「申し訳ない」と頭を下げた。
「蓮村さんを責めてもらっては困りますよ。彼は我々の計画に従ったまでなのですから。それに、荒川さんにとっても大変興味深い話なはずです。だからこそ蓮村さんについてきたわけですよね」
荒川は藤岡を睨み付けたものの、反論できず言葉に詰まった。
「事後承諾で申し訳ありませんが、蓮村盛んが喫茶店で話した内容から先は、すべて守秘義務が生じます。違反した場合のペナルティはあえて口にしませんが、お察しください」
「荒川君、君にはもう、選択肢はないんだ」
荒川は蓮村を睨み付け、再び藤岡を見た。
「荒川さんには、承認していただいたと見なして話を進めさせていただきます」
藤岡は三角眼をすっと細め、笑みを浮かべた。
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