第一部 ゴースト 31
時刻はもうすぐ午後七時になろうとしていた。強かった日差しもようやく収まり、濃紺で塗りたくったような暗い空が広がり始めていた。西の空には、家々の間から、わずかに太陽の名残が赤く染まっているのが見える。ここは国立市にほど近い多摩市の住宅地だ。竹井の視線の先には、三十年以上は経過しているだろう、古ぼけた四階建てのマンションがあった。
二日前、この一室にグロウ幹部の玉森が潜伏しているという匿名の電話が新宿署へあった。内定を進める中、マンションを出入りしている人の中で、玉森によく似た特徴の男がいるのが確認できた。体型は同じだったものの、出入りしているときはサングラスとマスク姿なので、本当に玉森なのかまでは確証できていない。
玉森は十七歳の頃に窃盗で逮捕歴があったが、八年前なので、当時の画像からは容姿が変わっている可能性が高い。最近の画像を入手しようとしたが、他の幹部と同様にかなり気をつけているらしく、記念写真的なものには全く写っていない。唯一あるのはパーティー会場の防犯カメラの片隅に、辛うじて確認できた横顔だけだった。鑑識課で玉森の正面からの合成画像を作ってもらったが、少々心許ない。
マンションのエントランスドアが開き、男女二人が出てきた。二人とも暗い中なのにサングラスを掛け、口にはマスクをしている。
――対象が出てきた。確保しろ――
係長からの無線で、三台の覆面パトカーに乗っていた男たちが一斉に路上へ出た。あっと言う間にマンションから出てきた男女を取り囲む。
「邪魔だ、どけよ」
男はサングラスとマスク姿なので、表情はわからなかったが、うろたえているのだろう、わずかに声が震えていた。女が不安げに男のシャツの袖を掴んだ。
「新宿警察署の滝口です。玉森悠紀夫さんですね」
本件を主導している捜査一課の主任が声を掛ける。
「人違いだよ。俺は畠祐二。玉森なんて奴、知らねえよ」
「すいませんがマスクとサングラスを取ってもらえますか。それに身分証明書も見せてください」
「おう」
畠と名乗る男は、むっとしながらサングラスとマスクを取り、女に渡した。少々えらの張った顎に、やや垂れ下がり気味の目尻、手配画像にかなり近い。
「身分証明書を」
「ちょっと待てよ」
億劫そうに顔をしかめながら、ジーンズのポケットに手を入れたとき、目がわずかに震えた。何かやましいことがあるのかと思う。
カードケースごと差し出された免許証を滝口が確認し、無線で番号を伝えた。次にカードケースから免許証を取り出してチェックする。
「主任、これを」
背後から若手の刑事が来て、滝口にタブレットを渡した。滝口は免許証とタブレットの画面を見比べながら、上目遣いに畠へ鋭い視線を投げかける。
「この免許証、偽造だな」
「ふざけたこと言ってんじゃねえよ、これは本物。これ以上妙な疑いをかける気なら、お前ら全員訴えてやるからな。僻地の駐在へ飛ばしてやるぞ」
血走った目で周囲を睨み付けるが、明らかに頬が震えている。
「見てみろ。警察に登録している顔写真とこの免許証の顔写真。別人だろ」
滝口が免許証とタブレット画面を畠に向けた瞬間、畠が免許証に向かって手を伸ばした。滝口が手を引き、畠の手が滝口の腕を掴む。
その瞬間、取り囲んでいた刑事が、畠に殺到した。
「公務執行妨害で逮捕する」
「離せよっ」
隣にいた女が悲鳴を上げて逃げようとするが、簡単に刑事に捉えられた。
畠と女の体が透明になっていく。
畠はあっという間に地面へ組み伏せられ、後ろ手に手錠をはめられた。
「いててっ、やめてくれっ。頼むよお」
「玉森、立てよ。これから署に行って、徹底的に絞ってやる」
「俺、本当に畠なんだよ。玉森なんて奴なんか知らねえから」
畠は荒い息をしながら、一転して情けない声を出した。刑事に後ろから脇を抱えられ、引っ張り上げられて立ち上がる。
「ほら、歩け」
前後左右を刑事たちに取り囲まれながら、小突かれるようにして、滝口が乗っていたセダンへ連れて行かれた。連れの女も別の車に乗せられる。
「竹井さん、どうかしましたか」
浅川が訝しげに様子を見ていた竹井の顔をのぞき込んだ。
「あいつ、グロウの幹部にしては、ちょっとチンピラ過ぎやしねえか」
「ははは。そうですねえ。なんか情けない声してましたよね」
「笑ってんじゃねえ」竹井が一喝した。「なんか嫌な感じがするんだ」
「申し訳ありません」
浅川は緩んだ顔を引き戻したが、目の隅には訝しげな部分があった。
浅川たちもセダンに乗り込んだ。滝口の車が発進したので後を追う。
「お前も、タブレットと免許証の画像を見ただろ」
「はい、明らかに違っていますよね。免許証は元の画像を差し替えたんでしょうか。それとも免許証ごと変えたんで――」
「そんなことはどうだっていい。問題は奴が何者かだ」
「もしあいつが本当に畠だったら、免許証の画像は変えないでしょう。免許を取ったときの顔と変わっているわけですし、玉森かどうかは別として、少なくとも今自分たちが捕まえた男は畠ではないはずです」
「畠が顔を変えたらどうなんだ」
「えっ? 整形をしてですか」
「畠の目尻、ちょっと腫れていなかったか?」
「そう言われると……じゃあ、あいつは玉森の影武者ってわけですか」
「タレコミからだなんて、最初から嫌な気がしていたんだ……」
竹井は独り言のように前を向きながらつぶやく。
「あえて、畠を捕まえさせたんですかね。これって、捜査を攪乱するためでしょうか」
竹井は無線を取った。
「滝口主任、一度止まって畠の身体検査をしていただきたいのですが」
「何を言っているんだ。身体検査ならさっきやったばかりだろ。疑問があるなら署に言ってからにしてくれ。ここではグロウに襲撃されるかもしれない」
「待ってください。車内にいる男は危険かもしれないんです」
「どういう意味だ」
「関係者が全員亡くなっているので確証はありませんが、新宿署が自爆攻撃されたとき、死亡した容疑者はすでに身体検査をしていたはずです。それでも爆薬を確認できなかった。つまり、一般的な身体検査では爆薬を確認できなかった可能性があるんです」
「つまり、こいつは罠であるというのか」
「ええ。ですから、本庁へ行く前に、交番が所轄で今一度おかしなところがないか確認するべきかと思います」
「わかった。係長に確認してみよう……え? おい……お前、どうした。暴れるなっ」
スピーカーからガタガタと音が響き始める。前を走る滝口の車の中は暗くて様子はわからないが、少しふらついていた。
「ヴヴヴヴオオオォォッッ」
唸り声が聞こえてくる。
「浅川っ、伏せろ」
「ちょっと待ってくださいよ。俺運転しているんですから」
「つべこべ言うなっ」
叫びながら浅いの襟首を掴み、力任せに引き寄せた。
「ああっ、よしください」
車がつんのめるようにして止まり、ダッシュボードの下で暴れる浅川を必死で押さえつけた時、
張り裂けるような轟音が響き、車体がふわりと浮き上がった。
一瞬、無重力を感覚した後、激しい衝撃が走り、シートベルトが体を思いきり締め付けた。
「あああっ」
自分で叫んでいるのに、どこか遠いところで響いている気がする。
金属がこすれる音が響き渡る。
再び衝撃が走り、バックレストに思い切り頭をぶつけた。
気がついたとき、体が上下逆さになっていた。シートベルトで辛うじてシートにくくりつけられている。フロントガラスは跡形もない。
「おい、大丈夫か」
運転席の浅川は、竹井と同じようにシートベルトでつり下がっていた。茫洋とした目をしながら、唇を震わせていた。竹井が肩に手を遣ると「はい、大丈夫です」とかすれた声で答えた。
ガソリンの刺激臭が車内に充満している。早くに逃げなければと思い、シートベルトのバックルを外した。頭から落ちて、脳天から脊髄に響いたが、構っていられない。
浅川はまだぼんやりした目のままで、動こうとしない。手を伸ばし、浅川を締め付けているバックルを外した。落ちてきたところで脇を抱え、屈みながら車外へ出た。
竹井たちが乗っていた車が、爆発するように発火した。
禍々しい熱気と、息が詰まるような焦げた臭いを感じながら、周囲を見回す。
静かだった住宅地は、一瞬で燃えさかる瓦礫となっていた。勢いよく炎が火の粉上空に散らし、どす黒い煙をまき散らしていた。しかし人影は見えず、時折木材が燃えてはじける音が響く以外は静かだった。地獄の祝祭に、浅川と二人で放り込まれたような光景が広がっていた。
「何が……起こったんですか」
浅川はワイシャツの袖で口と鼻を押さえながら、くぐもった声で言った。
「あの男に爆薬を仕込んでいたんだ。グロウめ、またやりやがった」
「自爆攻撃ですか」
「違う」竹井は滝口の車があったはずの道を見つめながらつぶやく。「あのチンピラが自爆なんて覚悟を持っていたはずがねえだろう」
「取りあえず、助けを呼びます」
「待てよ」
竹井は携帯を取り出そうとしていた浅川へ向き直り、おもむろにジャケットの襟を掴んで、脱がせるようにして押し下げた。
「何するんですかっ」
腕を動かせなくなった浅川を突き飛ばし、地面に転がったところを馬乗りになる。
「仲間に殺されかけた感想を聞かせてもらおうじゃねえか」
竹井は灼熱の炎が立ち上る中、氷のような冷ややかな目で浅川を見つめていた。
「な、何を言っているですか。意味がわからない」
「捜査本部にスパイがいるのはわかっていたが、今確証できた。お前だ」
「バカなこと言わないでくださいよ。証拠があるんですか」
「この件がまだ宮本伸也からSDカードを受け取ったとき、まだ捜一はこの案件に絡んでいなかった。つまり、生安の中にスパイがいると考えられていた。そして今の爆発だ。
グロウは捜査本部に入った時点で玉森を爆発させようとしたんだ。しかし俺の警告したから先に爆発させた。最初の爆発と今の爆発。両方とも絡んでいるのはお前と俺しかいない」
「じゃあ、竹井さんにも疑惑があるわけですよね」
竹井は何も言わず、拳で浅井の顔を殴り始めた。
「何するんですかっ、やめてください」
情けない声を上げながら懇願する浅井を無視して、金槌で釘を打ち付けるように、無表情で殴り続ける。やがて、浅川の顔に透明な部分がまだらに現れ始めた。
「やはり透明症か」
「確かに俺は透明症ですが、グロウとは無関係だ。監察が散々調査しているはずですよ」
浅川は訴えかけるような必死な目で竹井を見つめている。
「まだしらを切るか。だったらこれから身体検査をするか。体のどこかに盗聴器を仕込んであるんだろ」
一瞬、浅川から表情が消えたかと思うと、目の奥から暗い憤怒の炎がチロチロと煌めき始めた。若手警官というか面をかなぐり捨て、仁王像のような険しい顔で、血が混じった唾を竹井に吐き掛ける。
「お前……どうして奴が爆発するとわかった。前から思っていたが、ただの警官じゃないな」
「だったらどうなんだ。今は自分の心配をしろ。お前を操っている連中をゲロすれば、極刑は免れるぞ」
「ヴエエエッッ……」
突然浅川が、白目になり、喉の奥から絞り出すようなうめき声を上げ始めた。がちがちと体が震え始める。
「どうした」
さっき無線から聞こえてきたうめき声と、滝口の切迫した声が今の自分と重なった。
立ち上がり、瓦礫へ向かって走り出す。
倒れかけた壁の隙間を抜け、路地に出た瞬間、背後から轟音と衝撃波が襲ってきた。
「うおおおっ」
体が持って行かれる。
地面にたたきつけられた。
竹井は爆風に抗う力もなく、瓦礫の礫を浴びながら、地面を転がっていく。
気がついたとき、竹井は病院のベッドで眠っていた。半ば朦朧とした意識で体を動かすと激痛が走り、思わずうめいた。改めて慎重に体を起こし、枕元にあったボタンを押した。
すぐに看護師と医師が入ってきて、診察を受けた。日にちを聞いたらすでに事件発生から十八時間が経過していた。彼らが部屋を出て行くと、今度は竹井の上司である市川主任と今回の逮捕を指揮していた捜一の樋口係長が入ってきた。二人と寝ていないのだろう、もひどくやつれていたが、充血した目だけは思い詰めたように、ギラギラと輝きを放っていた。体を起こそうとした竹井を市川が手で制する。
「寝たままでいい。起きたばかりで済まないが、早速当時の状況を教えてくれ」
竹井は玉村の逮捕から浅川が爆発するまでの経緯を話した。浅川に話が及ぶと、市川は携帯電話を取り出し、浅川の身辺を調査するよう指示を飛ばした。
「爆発のきっかけは竹井さんか車列を止めようとしたからなんだな」
樋口が探るように竹井を見る。
「確信はありませんが、状況から見てそうではないかと思います」
「どうして奴が爆発すると思ったんだ」樋口係長が切迫した声で問い詰めた。「証明写真の件については俺たちも疑問を持っていたが、はまさか爆発するとは思っていなかった」
「それは私が最初の爆発の当事者だったぶん、滝口主任より爆発を深刻に受け止めていたからだと思います」
「本当か? 奴を連行するときに身体検査はしているんだ。紙切れ一枚ならともかく、爆薬を見逃すなんてあり得ない」
「樋口さん、焦るのはわかりますが、竹井を責めるのは筋違いだと思います。実際玉村と女が爆発物を所持していたとしか考えられないんですから」
「女も爆発したんですか。そうするとこの件で生き残ったのは私だけですか」
「そうだ。しかも周辺住人が七人死亡し、十五人が重軽傷を負った。全壊した住居は七棟。ひどい話だ」
事件を防げなかった樋口は、強い責任を感じているのだろう。竹井は共感するように強い目でベッドサイドの二人を見た。
「必ず犯人を捕まえなければなりません」
竹井は二人の質問に対し、さらに詳しい話を始めた。ただし、浅川が自分に向けた疑問は一切触れない。
第一部終了です。引き続き第二部が始まります。長いですが、お付き合いいただけると幸いです。




