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第一部 ゴースト 23

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 薄闇が包むベッドの中で、お互いのぬくもりを素肌で感じながら、二人は抱き合っていた。伸也は今までの緊張が解けた反動でどっと疲れが襲っていた。半ばまどろみながら、麻衣子の髪の毛をなでていた。

 不意に麻衣子が顔を起し、伸也の上に乗りかかるようにしながらキスをしてきた。

「お母さんからね、伸也が小さかった頃のこと、いろいろ聞いちゃったわよ」

 いたずらをした子供のように笑う麻衣子に対して、伸也は無意識のうちに顔をしかめていた。

「やっぱり昔の話は嫌いなのね」

「そんなこないよ」

「嘘。あたしが小さかった頃って言ったとき、体がピクッて動いたもの」

「わかったよ。正直言って昔のことは思い出したくない。これでいいか」

 久々に会ったのに、イライラさせることを言うなよ。心の中で毒づいた。

「でもお母さんはうれしそうに話していたわ。家族で北海道へ旅行に行ったときとか」

「そんなこともあったな」投げやりに答え、顔を背けた「あの家の話はしたくないんだ。胸くそが悪くなる」

 心の奥。暗く湿り気を帯びた部分で、鬼火のように、ぽっと憎しみが点灯した。

「お前だって中学生の頃の話はしたくないだろ」

 今度は麻衣子がピクリと痙攣した。

 ああ、やっちゃったなと思い、抱きしめる腕に力を込めた。

「ごめん、言い過ぎた」

 麻衣子は何も言わなかった。ただ、体が少し熱くなった気がした。怒り出すのか、泣き出すのか。不安な気持ちで反応を待った。

「最近思い始めたんだ。あの頃って、嫌な思い出だけじゃないって」

 麻衣子は伸也の胸に顔を埋めながら、静かに、こもった声で呟いた。

「十一歳で発症して、施設へ送りこまれたわ。で、どうにか色戻法を覚えて学校へ復帰したら、全員無視。近づけばあっちへ行けと罵られ、歩いてると後ろから石を投げられた。守ってくれるはずの先生もよそよそしくて、絶対あたしに触ろうとしない。一番の親友だった奈々子ちゃんもそう。声を掛けても声を掛けても下を向いて、あたしを見ようともしなかった。昔、話したことがあるでしょ」

「ああ」

「あるとき、奈々子ちゃんから電話があったのよ。『ごめん』て泣きながら謝ってきた。お父さんとお母さんが、二度とあたしと話をしちゃいけないって。もし話したら、家から追い出すって。

 あんなに人を憎んだのは初めてだった。あいつの家に押しかけて、触りまくってやる。そう言って出かけようとしたら、お母さんが泣きながら止めたっけ」

 胸元で、鼻をすする音が聞こえた。

「でもね、今になったらあの人たちのこと、ちょっとだけ理解できるようになった気がするの。みんな怖かったのよ。透明症に触ったって病気がうつる訳じゃない。でも、百パーセントそうだとは言い切れない。そんな中で、奈々子ちゃんのお母さんはあたしに近づくなと言ったんだわ。十一歳の女の子が親から追い出されると言われたら、従うしかないわよね。そう思うと、まだ病気じゃなかった頃、みんなでゲームをしたり、一日中とりとめのない話をしたり。そんな思い出が懐かしく思えてきたの。伸也のお母さんも、離婚したお父さんの事情をわかっているからあたしに昔話をしてくれたと思うの」

「麻衣子は大人だな」

「何言ってんのよ。あたしより三歳も年上なのに」

「俺は町であの店の看板を見るたび、蹴り倒したくなるよ。もちろん事情はわかってる。でもさ、感情がついていかない」

 乱れた感情が落ち着いてくると、霧が立ちこめていくように、静かにやるせなさが覆い被さってくる。

 泣き叫ぶ弟の顔。俺はあいつから母親を奪っていったんだ。俺があの家に憎しみを抱いているように、弟も俺に憎しみを抱いているんだろうか。

 伸也は麻衣子のなめらかな背中を撫でた。柔らかいけれど、その下には鍛えられた筋肉を確かに感じる背中。背骨に沿って、腰へ向かって降りていくと、指先が小さな窪みへ触れた。彼女が十九歳の頃、頭のおかしな差別主義者に刺された跡だ。犯人は当時制限が無かった通用口で待ち伏せをしていた。出てきた麻衣子を尾行して、人気のなくなったところで襲ってきたのだ。背後に違和感を感じた麻衣子が、護身用に持っていた催涙スプレーを、バッグからポケットに移していたのが幸いだった。スプレーを犯人の顔に吹きかけて、怯んだ隙に逃げることができた。傷は浅く、内臓にまでは達していなかったものの、一歩間違えば殺されていたところだった。

 あの犯人の気持ちもわかるのかよ。喉元まで出た言葉を飲み込んだ。

 あきれた顔をして、あんたはやっぱり子供よねと言うのだろうか。それとも、暗く思い悩むのか。反応が怖くて、口にできなかった。

「あー、おなかすいた。なんか食べに行こうよ」

 時計を見ると、すでに午後六時近くになろうとしていた。

「そうだな、この家も食べるものはないし」

 伸也と麻衣子はベッドから抜け出してシャワーを浴び、服を着たあと、色戻法で肌の色を取り戻した。靴を履いて玄関ドアを開けて廊下へ出る。

「あ……」

 鍵を掛けようとしてドアを見たとき、一枚の紙が貼り付けてあるのが目に入った。

――ゴーストは出て行け――

 A4サイズの紙に、太字の赤い油性ペンで書いてあった。四辺は透明な梱包テープできっちり貼り付けてある。いきなり後頭部を殴られたような衝撃を受けた後、じわじわ怒りがこみ上げてくる。

「何よこれ、あたしたちが来たのを見てたのね」

 蹴りつけたい衝動を抑えながら、梱包テープを剥がし、紙をくしゃくしゃに丸めた。

「こんなことをされたのは初めてだよ」

 誰もいない廊下を見渡した。この部屋のどこかに貼り付けた奴がいると思うと、胃の中に鉛が入ったような重い気分になる。

「ネットで事件の関係者だって、伸也の名前が晒されてるから、ここの人たちにも全部ばれちゃってるのね」

 二人はエレベーターを使ってロビーへ降り、外へ出た。身構えたが記者はいなかった。コインパーキングへ行き、金を払って車を発車させた。何を食べようか、あれこれ話したが、結局麻衣子のマンションでパスタを食べることになった。新宿にある駐車場に車を止めて、麻衣子のマンションへ行った。麻衣子はカニ缶と生クリーム、冷凍してあったトマトソースで、カニクリームパスタを作った。麻衣子が冷蔵庫から白ワインを取り出してきた。

「泊まっていくんでしょ」

「ああ、頼むよ。今日はあそこへ帰る気になれない」

「今日だけでなくて、当分ここにいたらどう? 着替えもあるし、移動だって楽だわ」

「そうしようか」

「じゃ、決まりね」

 麻衣子は嬉々としてワインを開けてグラスに注いだ。乾杯して食べ始めた。久々に食べたパスタは驚くほどおいしかった。ワインも胃へ染みこんでいくように入っていく。あっという間にボトルが空になってしまった。

「もう一本飲む?」

「もういいよ。久々に飲んだら酔っ払っちゃった」

 伸也は立ち上がり、部屋着のスウェツトに着替えてベッドへ倒れ込んだ。しばらくすると、洗い物を終えた麻衣子もベッドに潜り込んだ。

「ねえ、起きてる?」

「ああ」

「あたしね、覚悟はできてるから」

 背中から声が聞こえ、寝返りをした。ベッドサイドランプがほのかに照らす中、麻衣子は伸也をまっすぐ見つめていた。

「三人で暮らしてもいいと思っているの」

「麻衣子……」

「あたしはお母さんが、どんなに大変な思いで信ちゃんを育ててきたかわかるわ。だから信ちゃんがお母さんと一緒に住み続けるのもわかる」

「でも、母さんは脳梗塞で、将来介護をしなくちゃならない可能性だってあるんだ」

「それを含めて覚悟はできてるって言ってるの」

「悪いけどちょっと待ってくれ、このところ、いろんな事がありすぎたんだ」

「うん……わかった」

 麻衣子は少し不満そうな顔をしていたが、小さく頷いた。伸也の首に腕を絡めながらキスをしてきた。伸也はキスに答えながら、勢いだけで大丈夫なのかと思う。

 結婚については伸也も意識はしてきた。しかしそうなったら、これまでのようにダンス一辺倒というわけには行かないと思う。彼女を俺たちの生活の中に巻き込んでいいのか。迷うが結論は出てこない。

 抱きしめる腕に力を込めた。彼女の柔らかな感触と体温が愛おしいと思う。


 伸也の母親が亡くなったのはその五日後だった。急性の心筋梗塞で、すぐにICUで治療を受けたものの、元々脳梗塞で弱っていた体に抵抗力は無く、あっさりと逝ってしまった。

 ショックではあったが、入院する前から生に対する執着があまり感じられなかった母を見てきたので、早晩こうなるだろう思っていた自分がいるのも確かだった。

 葬式には多くのDROPの関係者が参列した。父にも弁護士を等して連絡を入れたが、最後まで彼と弟は姿を見せなかった。あの人たちは実の母親の死をどう思っているのだろうか。伸也はそう思いながら、喪主として一人祭壇の横に立ち、焼香を行う参列者をぼんやり見ていた。

 火葬を済ませて自宅へ戻ると、緊張の糸が切れたせいか、三十九度近い熱が出た。医者に処方された薬を飲んで、翌日の朝には平熱に戻れた。

「朝ご飯、おかゆにするけど食べられる?」

 麻衣子がベッドサイドに腰掛けて、横になっている伸也の額を撫でた。

「ああ、頼むよ」

「わかったわ」

 立ち上がり、部屋を出て行こうとした後ろ姿に声をかける。

「いろいろとありがとう」

 麻衣子は振り返り、微笑んだ。

「いいのよ。お母さんにはあたしもお世話になったし最後の恩返しよ」

 葬儀では関係者への連絡から始まって、香典返しの選定など、細々した実務はほとんど彼女にしてもらった。伸也一人なら、これほどスムーズにはいかなかっただろう。彼女には感謝の思いしかなかった。

 麻衣子が出て行くと、半身を起こし、軽いめまいを感じながら携帯電話を手に取った。メールやSNSをチェックする。仕事関係者や友人からのメッセージで溢れている。いくつか返信をして、画面を閉じたが、物足りなさが残っていた。

 結局、父親からの連絡はなかった。事情があるのは承知していたが、最後の別れぐらいしてもいいのではないかと思う。一歳年下の弟は、もう社会人になっているはずだ。密かに来ても気づく人などいないじゃないか。

 母親の喪失でぽっかりと空いた穴に、怒りが満たされていく気がした。


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