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第一部 ゴースト 19

 気がついたとき、伸也は薄い赤の中に一人、ぽっかりと浮かんでいた。体が地面についている感覚は無く、手を伸ばしても壁には当たらない。北村のぼろアパートは片鱗も存在していなかった。ここは一体どこなんだ。

――麻衣子――

 叫んだつもりだったが、口から声は発せられず、脳内に響いただけだった。

 上下の感覚は無く、体を動かすと、簡単に一回転した。暑くもなく寒くもない、水中にいるような圧力もない。無重力にいるときはこんな感覚なのかなと思う。

 どうすればここから抜け出せるんだろうかと思いながら、あたりを見回し、変化がないか探していると、点々と黒い染みのようなものが見えた。注視していると、染みは急速に拡大していき、一気に伸也を覆った。

 球体、円柱、トーラス、様々な物体が沸騰するように現れて合体し、分裂し、絡み合い、消えていく。赤、青、白、黒、透明。色も様々で、めまぐるしく変化していく。大きさも小指大から身長を遙かに超える大きさまで、様々だ。

 その光景が、上下左右、無限に広がっている。

 何が起きているんだ。

 あまりの激しさに、気が狂いそうだ。

――我は玄――

 どこからか声が聞こえてきた。

――お前は悪と戦うために生まれてきた――

――悪って、グロウのことかよ――

――いや、グロウを含むすべての悪に対してだ――

――すべてだかなんだか知らないけどさ、それって警察の仕事じゃないか。俺が関わる必要なんなないよ――

――違う、警察の力が及ぶ世界ではない。透明症のお前しか関われないのだ――

――透明症? この状態は透明症と関わりがあるのか――

――関わりと言うよりも、根本的な話だ。ここにお前たちが透明になった理由が存在している。

 お前たちはこの宇宙で、もっとも純化されたエネルギーの場に存在している。今、そのエネルギーのバランスが大きく崩れようとしている。だから私が現れたのだ――

――何を言っているのかわからない。もっとわかるように説明してくれよ――

――そのうちにわかる――

 不意に背中を掴まれ、引っ張られる。激しく変化する幾何学物体の中、加速しながら動き始めた。やがて、幾何学の形さえ認識できないほどすさまじい速度に達する。

――うおおおぉぉ――

 伸也はなすすべもなく叫びながら、力に身を任せる以外、選択肢がなかった。

 頭の中が、真っ白になっていく。


 いつの間にか、伸也は木々の間から覗く空をぼんやりと見ていた。オレンジ色に染まり、左手は暗い青だ。刺すように冷たい風が吹き抜け、煽られた落ち葉が頬をかすめた。

 俺は一体どうしちまったんだろうと思いながら、体を起こした。遠くから鳥の鳴き声が聞こえてきた。再び冷たい風が吹き、体温を奪っていくのを感じながら、ひどく体が冷えているのを意識した。体がガタガタ震えてくる。肩についた落ち葉を手で払いながら、周囲を見回した。斜面で木々が生い茂っている。今まで一度も見たことがない場所だった。風が吹くたびギシギシと枝がきしむ音が聞こえてくる。

 立ち上がるとひどいめまいがしてきたので、木に掴まって耐えた。落ち着いてくると改めて体に付着した落ち葉を払い、斜面を慎重に下った。

 足は靴下のままで、滑りやすい上に石を踏むと痛い。しかも足指がたちまち凍り付くほど冷たくなっていく。

 夜になったら更に冷えていくだろう。この状態で山にいたら、凍え死んでしまうかもしれない。

 日は急速に陰っていき、寒さもきつくなっていく。凍死が現実の問題として意識に上がってきた。

「宮本先生」

 右側から聞こえてきた声の元に視線を向けると、そこに北村がいた。斜面をよたよたと危なっかしい足取りで伸也の元に向かっていた。

「暗くなる前に出会えてよかったです」

 笑顔で声を掛けてきた。北村とは言え、知っている人間に出会えて少し安堵する。

「ここは一体どこなんですか?」

「実はわたくしもよくわかりませんのです」

「北村さんの携帯電話に地図機能はありますか」

「確かついていたと思います」

 北村はガラケーを取り出してボタンを押し始めた。

「静岡県加茂郡西伊豆町でございます」

「西伊豆町って。俺たち東京にいたんだろ。どうしてこんなところにいるんだよ」

「それは玄様に導かれたからです」

「また玄か。俺も今、玄に声をかけられたところだよ。悪と戦えだとさ」

「宮本先生の前にも現れましたか。共に戦いましょう」

 熱い口調で語りかける北村に、伸也はうざったそうに首を振る。

「俺は戦う気なんかないからね」

「そうはいっても、悪との戦いは既定路線ですので」

「勝手に決めないでくれよ」

「そうそう、玄様のご指示で靴を持ってきましたよ」

 北村がリュックサックからいくつか靴を取り出した。

「ありがとう、これが俺のだ。こっちは貴斗の靴だよな。このサンダルは誰の?」

「奈緒さん用に靴箱から持って参りました。もちろんわたくし、水虫等の病気はございませんので」

「二人の靴が用意しているっていうことは、あいつらもここに来ているの?」

「ええ。皆さんを探しておりまして、宮本先生を今発見したところです」

「麻衣子はどうしたんだ」

「麻衣子様は残念ながら、神に選ばれし者ではありませんでした。このため、わたくしのアパートへ留まったままでございます。恐らく、自ら関係者へ連絡を入れているはずだと存じます」

「そうだろうな」

 心配ではあるが、あいつもバカじゃない。恐らく、荒川へ連絡を入れるに違いない。

「だったら完全に暗くなる前に、二人を探そうか」

 貴斗は斜面を更に下ったところで見つかった。奈緒は斜面を下りきった谷底で、一人しゃがみ込んでいた。

「さて、これからどうすんだよ」貴斗が憮然とした顔で呟く「神様だかなんだか知らねえけどよ、このままだと、俺たち凍え死んじまうよ。大体、オッサンなんでお前だけ厚着なんだよ」

 北村だけドカジャンを着込んでいる。

「申し訳ありません、あいにくジャンパーはこれだけしか持っておりませんで」

「よこしやがれ」

「ひゃっ、止めてください」

 貴斗が北村のジャンパーを引っ張り出したので、伸也が間に入る。

「止めろって、これは北村さんの物なんだから」

「だってよ、ここへ連れてきたのはこのオヤジなんだぜ。ジャンパーぐらいよこせって」「わたくしではございません、神様がわたくしどもを派遣されたのです」

「どうしてなの」

 奈緒が不安げな顔をして、ささやくような声で尋ねた。

「それは悪を懲らしめるためでございます」

「その悪ってのは、どこにいるのさ」

「それは」

 北村は考え込むように、眉間に皺を寄せた後、はっとしてリュックサックからウルトラマンのソフビ人形を取り出した。

「玄様玄様、悪はどこにおりますか」

 目を閉じて、ソフビ人形を両手で包む混むように持ちながら呟く。不意に大きく目を見開いた。

「こっちです」

 北村は降りてきた場所の反対側の斜面を指差した。

「ホントかよ」

 疑い深そうな顔をしている貴斗に気づかず、北村は歩き出し、枯れた藪をかき分けながらずんずん斜面を登りはじめた。

「遭難した時って、下手に動くより、ここでじっとしてた方がいいんじゃねえのか」

「いえいえ、わたくしどもは遭難なんかしておりませんから」

 北村は振り返り、にこやかに返事をして再び登り出す。

「どうする?」

「どうするも何もないだろ。俺はあのオッサンの後をついて行くなんてごめんだ」

 伸也の問いかけに、貴斗はさも当然という風に、ぷいと横を向いた。

「あたし、ついて行きます」

 奈緒の声は相変わらず弱々しかったものの、薄闇の中、北村を見る目はまっすぐで澄んでいて、迷いは見られなかった。

「ここへ来る途中、悟ったんです。私たちはこの世界を救うため、選ばれたのって」

「は? 下手な漫画みたいな話してさ、バカじゃねえのか。それとも変な宗教にでもはまってんのか」

 奈緒は胡散臭げに見ている貴斗に、ゆっくりと首を振る。「玄は真実の存在です。北村さんの言うとおり、私たちは戦わなければならないのです」

 さっきまでの怯えていた奈緒とは、別の人間みたいだなと伸也は思う。

「ああっ」

 北村が叫んだかと思うと、今度は転げるようにして、斜面を滑り落ちだした。

「北村さん、大丈夫ですか」

 伸也は駆け寄って、北村を抱き起こした。

「いや申し訳ありません。玄様が皆さんに説明をしたいとおっしゃいまして、降りようとしたら、ちょっとけつまずいてしまいました。そんなに痛いところとかありませんから、大丈夫でございます」

 北村は背負っていたリュックサックを下ろしてファスナーを開けた。再びウルトラマンのソフビ人形を取り出す。

「玄様玄様、我々にその姿をお見せください」

 北村がウルトラマンを両手で恭しく持ち上げる。目を閉じ、念じているかのように眉間に皺を寄せている。

「何?」

 ウルトラマンが、ぼんやりと発光し始めたかと思うと、表面が膨れたりへこんだり、変形し始める。変化は高速で、たちまち輪郭さえ確認できなくなっていく。北村は「熱っ」と叫びながらはじかれるようにして手を離し、尻餅をついた。口をぽかんと開けて人形に見入っている。

「おい、何が起きてんだ」

 貴斗の問いかけに、北村は目を大きく見開いたまま、首を振った「わたくしもよくわかりません」

「なんだよ、お前がやったんじゃないのかよ」

「ち、違います。わたくしもウルトラマンがこんな風になったのを見たのは、初めてなんです」

 ウルトラマンだった物は赤や青、緑といった様々の輝きを放ちながら宙に浮いていた。やがてその物体は白く輝きを放つ球体へと収斂していった。

 球体の表面は震えるように、わずかな揺らぎを生じていた。きっと今も高速で形が変化しているのだが、マックスまで加速して、肉眼では形を捉えることができなくなったのだろう。その表面は爆発するような緊張感を孕んでいた。

――我は玄――

 頭の中に直接響いてきた。

――お前たちは、破綻しようとしているこの世界を救わなければならない――

「は? なんで俺たちが世界を救わなきゃなんえんだよ」

――それはお前たちが選ばれた者だからだ――

「訳のわからねえ話をしやがってよ。勝手に選ぶんじゃねえって」

 貴斗はぷいと横を向いたが、奈緒と北村は玄を真剣なまなざしで見つめながら頷いていた。

「わたくしは行かせていただきます」

「私も」

「奈緒、何でお前までこのオッサンに同調するんだよ」目を輝かせて返事をする奈緒に、貴斗があきれたように鼻で笑った「伸也はどう思う?」

「俺か」伸也はここへ来る直前に、玄と会話した記憶を思い出す「お前はここへ移動する間、玄と話をしなかったのか?」

「なんだかグタグタ言ってきたけどな、聞きやしなかった」

「俺は北村さんと一緒に行こうと思う。玄は透明症の原因とこのトラブルに、根本的な関わりがあると言っていたんだ。グロウと戦うことが、透明症の謎を解決する糸口になるんじゃないかと思うんだ」

――そう、私の存在とお前たちの病は関係がある。お前たちは、悪と戦うために透明症になったのだ――

「悪ってのは辻田さんのことだろ、辻田さんも透明症なんだぜ。玄だか神だか知らないけどよ、矛盾してるんじゃねえのか」

――透明症自体は中立だ。関わる人間自身の問題だ――

 唐突に玄から輝きが消えた。めまぐるしく変化していた物体は、ウルトラマンのソフビ人形へ戻り、枯れ葉の上に落ちた。

「ああっ、玄様」

 北村が暗くなった地べたへしゃがみ込み、ソフビ人形を探し始めた。

「あったあった」

 ソフビ人形を両手で挟み込みながら、ニコニコしている北村に対して、貴斗は憮然としたままだ。

 太陽はすでに西の空へ沈み、木々の間から見える山稜の上が、わずかにオレンジ色へ染まっているだけだった。代わりに満月が空に昇り、青白い光が淡く周囲を照らしていた。風は更に冷たくなり、スエット一枚だけの体から、容赦なく体温を奪っていく。

「さあ、行きましょう」

 北村はキラキラ光る目をして、伸也たちを見回した。伸也と奈緒が頷き、歩き出す。貴斗は小さくため息をついた。

「俺も行くよ。こんなところに一人でいたってしょうがねえや」

 四人は斜面を登り始めた。木の葉や下草は大半が枯れていたので歩きやすかったが、低木の枝は残っているので、顔に当たってくるものは気をつけなければならなかった。靴はスニーカーなので滑りやすいし、足下は暗いので、何度か転んで滑り落ちそうになった。それでも、谷底にいるときのような寒さは全く感じなかった。

 むしろ暖かい。鳩尾の奥から熱を帯びたものが湧き出て、全身に行き渡っているような感覚だ。グロウと戦うと決めたときから、疲れを感じなくなっていた。力がみなぎり、高揚感が心を突き動かしていた。

 やがて、前方に月光に照らされた白いガードレールが浮かび上がってきた。最初に北村が乗り越え、伸也たちも後に続いた。乗用車がようやくすれ違える程度の幅で、路面は荒れていたが、一応舗装された道路だった。

「この先です」

 北村は坂道を上り始めた。いくつかカーブを曲がったところで、前方に明かりが見えてきた。三階建ての角張った鉄骨造りで、小さなホテルか保養所といった外観だった。

「ここですね」

 近づいていくと、ひどく古い建物だとわかった。白い鉄の柵は所々さび付いており、植え込みの常緑樹は明らかに素人が切ったらしく、先端が唐突に切断されていて、半ば枯れかけていた。壁のモルタルも、薄明かりながら一部剥げているのが容易に判別できた。

「ここ、知ってるよ。板倉を乗せてきたところだ」

 貴斗が建物を見て呟き、下唇を咬んだ。目元が少し震えていた。

「板倉っていうのはいなくなっちまった奴か」

「ああ。拓真グループのナンバー2さ。その後、拓真さんは奈緒を必死で探し始めたんだ。怒ってるって言うより、必死になってるって感じだった。

 奈緒、お前が流出させた画像は、板倉さんから盗んだんじゃねえのか」

「そう」奈緒は目を逸らし、ささやくように呟く。「そのときの板倉さん、ひどく酔っ払って携帯をいじりながら寝ちゃったの。ロックがかかってなかったから、見てたらあの画像が出てきたわ。あの画像の人って、私のお客だったから、ヤバいんじゃないかってわかったわ。それで、あたしの携帯電話に転送したの」

「奈緒は板倉さんのお気に入りでさ」貴斗は上目遣いで奈緒を見ていた「あの人の愛人みたいなこともしてたんだ」

 奈緒が目を合わさずに頷いた。

「すると、あの画像はこの建物の中で撮影されているのか」

「その可能性が高いと思う」

「行ってみましょうか」

 北村が玄関へ向かって大股で歩き始める。

「ちょっと待ってくださいよ」

 伸也は駆け寄って北村の腕を掴んだ。

「正面から入ってどうするんですか。ここで何をしているんですかって聞くつもりですか」「はい、そうですけど」

 北村はきょとんとした顔をして見せた。

「そんなことしたら、即殺されるぞ」

「じゃあ、どうしたらいいんでしょうか」

「警察に通報して、俺たちはずらかればいい。オッサン、携帯電話を持ってんだろ」

「そりあゃまずいな」

 暗闇の中から声が聞こえてきた。窓明かりに薄笑いを浮かべた見知らぬ男の姿が照らし出された。痩せていて、短く刈った髪を金髪に染め、上下白黒の迷彩柄の服を着ている。

 手にはショットガン。腰だめで、伸也たちに向けられている。



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