第一部 ゴースト 15
「あの二人、喧嘩でもしたんですか? プライベートの事は知らないですけど、仕事に影響されるのは勘弁してほしいですよ」
雄大がうんざりした表情で呟く。
「二人が離脱するのは私的な事情だが、喧嘩とかじゃない」
荒川が仏頂面で答える。
「じゃあ何ですか」
「今は言えない。あくまでも私的な事情としか言えないんだ」
「わかりました。俺たちはあくまでも雇われの身ですからね。雇い主から言われれば従うしかないですよ」
ため息交じりに呟き、メンバーの中へ戻っていく。他のメンバーは雄大と同様に不満げな表情をしている者もいるが、これを機にいいポジションを掴もうと、目をぎらつかせているメンバーもいた。荒川は表情を変えずにタブレットを操作し、新たなメンバー編成をモニターへ表示させた。
メンバーから感嘆した声を上げる者、えーっと不満を口にする者、様々だった。
「明日の昼公演から、当面このメンバーで進める。済まないがリハーサルを進めてくれ。もちろん拘束時間は手当を支払う。以上だ」
まだ何か言いたげなメンバーを無視して、荒川はリハーサル室を出た。エレベータに乗り、地下駐車場までボルボへ乗り込もうとした時だ。
車の間から、目の前へ立ち塞がるようにして男が現れた。若くて口ひげを生やし、耳にはピアスをしている。口元には笑いを浮かべているが、目は明らかに殺気を孕んでいた。危険を感じ、荒川は反転して逃げようとした。しかし、その前に背後から抱きつかれた。
目の前には、天井のLEDライトに反射し、無機質な輝きを放つサバイバルナイフ。
背後の男は右腕一本で荒川を拘束していたが、かなりな腕力らしく、力を込めても、びくとも動かない。
「あんた、荒川だな」口ひげの男が笑いを浮かべたまま近づいてくる。「俺たちは時間がない。だから手早く答えろ。宮本の居場所はどこだ」
ナイフの切っ先が荒川に向けられる。
「早くしろ、答えなければ刺す」
耳元からしゃがれた低い声が聞こえてきた。
「知らん」
「嘘をつけ。今朝、レンタカー屋からこの車で宮本の女を拾ってっただろ」
口ひげの男が、ボルボへむかって顎をしゃくった。
「どうだ」
勝ち誇ったように、口ひげの男の笑みが、頬にまで広がる。
ナイフの切っ先が、鼻の付け根に突き刺さった。鋭い痛みが波のように、全身へ広がった。
「答えなければ、マスクがないと外に出られない顔に――」
背後の男から、ヴェッという喉の奥から絞り出すような声が聞こえた。同時に拘束していた腕の力が抜け、ナイフも離れる。どんっという音が床から響いた。
振り向くと、巨漢の男が床に倒れていた。必死の形相で目を大きく見開きながら首を掴み、必死で空気を吸おうともがくように口を開き、ヴェッヴェッと呻いている。
荒川は鼻の付け根から流れ落ちる血のしずくを手で拭いながら、男を一瞥すると、口ひげの男に静かな視線を向けた。
「お前……何をした」
口ひげの男は一転して、唇をわずかに震わせながら、怯えた目でたじろいでいた。
「辻田に言っておけ。俺には手を出すなと」
荒川がズボンポケットに手を突っ込んだまま歩き出した。口ひげの男は飛び退くようにして道を空ける。ボルボのドアを開け、ロックをしてエンジンを掛けた。外を見ると、すでに口ひげの男はいなかった。巨漢の男は四つん這いになり、肩を前後に大きく動かしながら呼吸をしている。荒川は携帯電話を取り出して電話を掛けた。
「麻衣子、荒川だ。お前が関わっているのがグロウに知られている。警察が情報の出所だったらそこを感知されている可能性がある。すぐに携帯の電源を切ってそこから逃げろ」
「ええっ? だったらどうやったら荒川さんと連絡を取るのよ」
電話口から麻衣子の不満げな声が聞こえてくる。
「公衆電話があるだろ。そこから出たら連絡しろ。俺は今、グロウの奴らに襲われて、お前の居場所を聞かれた。お前が伸也と一緒にいるのを知っているんだ」
「携帯の電源を切ってここから出ろだって。何言っちゃってるのよ」
麻衣子は荒川とのやりとりを話した。
「それはヤバいぞ、携帯の電源を切るんだ」
「どうしてよ」
「バカ、携帯ってのはな、GPSで位置情報がわかっちまうんだよ。警察が電話会社に問い合わせすれば一発だ」
「ええっ、そうなの?」
麻衣子は慌てて携帯の電源を切った。貴斗も携帯電話の電源を切る。
「怪我も治ったことだし、ここから出よう」
「でも、どこへ行くんだ」
全員の視線が、北村へ向く。
「はっ? どうかしましたか」
北村は緊張したように目を丸くしながら、三人の顔をせわしなく交互に見た。
「北村さん、自宅はどこですか」
「板橋区になります」
「奈緒もそこにいるんですね」
「ええ、そうです」
「今言ったとおり、ここにはいられなくなりました。北村さんのお宅へ匿ってもらいたいんです」
「はいっ、喜んで」
北村の顔がぱっと明るくなる。
「それと、携帯電話を持っていますか」
「はいっ、持っております」
北村はポケットから折り畳みの携帯電話を取りだした。
「北村さんはまだ顔が割れていないから大丈夫でしょう。荒川さんの携帯番号を登録しといてもらえますか」
麻衣子が荒川の携帯電番号を教え、北村は何度か間違えながらも登録した。準備が済み、全員部屋から抜け出した。エレベータを使い、一階のロビーへ出る。マンションの外へ向かおうとしたときだ。
自動ドアが開き、二人の男が入ってきた。伸也たちと目が合い、あっと小さく声を上げた。
全員薄いグレーの作業着を着ているが、堅気には見えないすさんだ目つきをしていた。
左にいた男が、肩に掛けていたツールバッグを慌てて開こうとする。
視線がバッグへ動いた瞬間、貴斗が駆け出す。
勢いを付けたまま、右肘を男の顔面にぶち込んだ。
「逃げろっ」
男が背中から倒れた瞬間、ロビーに貴斗の叫び声が響いた。
はじかれたように、伸也と麻衣子が走り出す。
麻衣子に向かって男の手が伸び、服を掴んだ。
「嫌っー」
男と麻衣子が引っ張り合いになった時、反転した伸也の目の前に男の後頭部がさらけ出された。
男の耳を思い切り殴りつけた。
うぐっ、反吐を吐くような声を上げて、男がよろめいた。同時に麻衣子が男の手を振り払う。
二人は走り出し、外へ出た。左右を見渡すと、左手に貴斗の後ろ姿が見えた。彼を追って走り出す。
「貴斗っ、ちょっと待って。あのおっさんが出てこないわ」
「うるせえ、あんなのほっとけ」
背後から叫ぶ麻衣子に構わず、貴斗は走り続けた。伸也も気になったが、奴らに捕まったら、俺たちが殺されると思い、必死で走った。
やがて貴斗の息が上がってきた。
「十分離れただろ、ちょっと休もうや」
立ち止まり、荒い息で道端へ座り込んだ。周囲は住宅街で、入り組んだ道を走ってきた。偶然で見つかる確率は相当低いはずだ。
「トレーニングは止めたのか。俺たちはまだいけるぞ」
伸也と麻衣子も荒い息はしていたものの、立ったまま、貴斗を見下ろしている。
「うるせえな」
そんな言葉を吐かれれば、昔だったら黙ってまた走り出すのにな。むっとした顔をして横を向く貴斗に、一抹のさみしさを感じた。
「しかし危なかったな。もう少し逃げるのが遅れてたら、あいつらに部屋へ踏み込まれてたところだ。あのバッグの中に、武器を仕込んでただろうしな」
「でも、あのおっさんは捕まっちゃったんでしょうね」
「そりゃそうだろ、喧嘩が強そうには見えねえしな。それかさ、例の玄様とかいうのが助けてくれたんじゃねえのか」
貴斗がヒヒヒと声を上げて笑う。
「ホント、訳わかんないおっさんだったわ」
「でも、俺たちの怪我を治してくれたんだぜ。不思議な力を持っているのは確かだ」
「まあな」
「もう少しあの人の話を聞いてみたかったよ」
「でももう無理だ。今頃ボッコボコにされて奈緒の居場所を吐かされてるぜ。明日の今頃は山に埋められてるさ」
「だろうな」
「ねえちょっと……あれ見てよ」
麻衣子がぽかんと口を半開きにして、指差していた。
百メートルほど先で、歩いている男の姿が見えた。遠目からでも、肩を上下に動かし、荒い息をしているのがわかる。
黒のニット帽を被っている。間違いなく北村だ。
三人がまじまじと見つめている中、北村はたどり着くと、フルマラソンでも走ったかのように、その場へ倒れ込んだ。顔や首から、大量の汗が噴き出していた。
「おいおっさん、どうやってあいつらから逃げてきたんだよ」
「玄様が……助けてくださいました」
「また玄かよ」
「休むのはいいけど、その前に上着を脱ぎましょ。汗かくと後で冷えるわ」
「あ、ありがとうございます。申し訳ございません」
北村が緑のジャンパーを脱いで、麻衣子が受け取った。
「具体的に教えてくれよ。玄が天から降りてきて、あいつらにジャブでも食らわせたのか」
鼻で笑いながら話しかける貴斗に、北村は不意に口をつぐみ、目を逸らした。
「どうかしたのか。なんだか都合の悪い話でもあんのかよ」
眉根を寄せ、睨めつけるように北村を見る。
「それが……なんと言ってよろしいのか……」
伸也は北村の手がわずかに震えているのに気づいた。
「あんた、これどうしたのよ」甲高い声に驚き、視線を麻衣子に向けた。彼女の足下には北村のジャンパーが落ちていた。
麻衣子は怯えた目をして手のひら返し、伸也に見せた。
ややピンクがかった手の平へ、無造作に擦り付けられたように、赤いものが筋を作って付着していた。
「このジャンパー。血が付いてるよ」




