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第一部 ゴースト 1

 当時の光景を、今でも鮮明に思い出せる。

 予感めいたものを意識しながら眠りから覚めた。カーテンの隙間から漏れてくる朝日がまぶしくて手をかざしたが、光が遮られることはなかった。違和感を覚えながら起き上がる。

 手が青く透けていた。水中に漂う孵化したばかりの仔魚のように、冷ややかだが、生命感に満ちた手。きれいだなと思ったのが最初の印象だった。


「ねえ、何物思いにふけってんのよ」

 窓越しに人々の行き交う通りをぼんやり見下ろしていた伸也は、声をかけられて視線を動かした。正面には、麻衣子が小ぶりで形のいい唇を少しとがらせ、怒り気味の目をして見つめていた。

「ああ……ごめんよ。何だっけ」

「映画が始まる時間まで、まだ一時間近くあるでしょ。その間、何しようかって聞いてたの」

「そうだな……。映画館の途中に雑貨屋があっただろ。あそこでお皿を見に行こうか。この間一枚割っちゃったからね」

「うんうん、あたしもそう思っていたの。行こ行こ」

 機嫌を直してきらめくような笑みを浮かべて立ち上がる麻衣子に少しほっとしながら、伸也はぬるくなったコーヒーを飲み干した。

 控えめなボサノバが流れる店内を抜けて、レジで会計を済ませ、二人はカフェを出た。ビルから出て、人でごった返す渋谷の喧噪の一部へ溶け込んでいく。麻衣子が伸也の右腕を抱えるようにして腕を組み、寄り添ってきた。頭上から降り注ぐ日差しは強く、少々暑苦しくもあったが、彼女の柔らかな肌の感触と匂い、そして自分に寄り添ってくる想いが愛おしく、伸也も腕に力を込めた。

 センター街の緩い坂道を上り、ロフトに向かっていた時だ。前方で女性の悲鳴が聞こえてきた。まさか頭のおかしな奴がナイフでも振り回しているんじゃないか? 一瞬そう思って立ち止まり、身構えた。周囲の人々も同じように思っているらしく、不安げに前を見ていた。やがて二十メートルほど先で人だかりができはじめた。誰も逃げる様子がないので、暴力沙汰ではないようだ。

「ちょっと行ってみようか」

 麻衣子は少し顔をしかめながらも、頷いた。二人は再び歩き出し、人だかりの中へ入っていく。

「やっぱりそうか」

 人々の間から、一人の若い女性がへたり込むように道路へ座っているのが見えた。赤字で派手なロゴがプリントされているピンク色のTシャツに、体のラインがわかるぴっちりしたブルージーンズをはいていた。足下には、きらびやかなラメの入ったハンドバッグが転がっている。彼女は震える手でハンドバッグを開け、中から手鏡をとりだした。自分の顔を見て、再び悲鳴を上げた。

 女性の顔はまだら模様だった。右頬と額は肌色だが、そのほかの部分は青く透き通っていた。ファンデーションや口紅が、浮かび上がっているように見えた。透明になっていない箇所から、まだ透明になっていない脳がうっすらと見える。

「ねえ、雑貨屋さんへ行こう」

 後ろから、麻衣子がTシャツを引っ張ってくる。

「この子を放っておけというのかい?」

 伸也は振り向き、麻衣子を睨んだ。

「早川さんに連絡しておけばいいでしょ」

「早川さんだってすぐに来られるかわからないだろ。それに埼玉からここへ来るのに、車だって小一時間かかるじゃないか。その間、彼女を放置しているわけにはいかないよ」

「でも、今関わったら映画にも行けないわ。もう予約しているのよ」

「映画なんて、また見に行けばいいだろ」

 麻衣子は口をへの字に曲げて、ふてくされた顔を見せていたが、渋々と頷いた。

 二人のスケジュールが合わない中、久々の渋谷でのデートを台無しなされたのだから、ふてくされるのも無理はない。けれど、透明症でパニックになっている女性を見捨てて、映画を見に行く気には到底なれなかった。

 伸也は前を塞ぐ人の間をすり抜けて、女性の前にしゃがんだ。周囲から好奇心に満ちたぶしつけな視線を意識した。憤りを感じるが、ここで見世物なんかじゃねえと怒鳴りつけたら、喧嘩になるだけだ。伸也は視線を無視して女性を相対した。

「こんにちは」

 伸也は穏やかに微笑みながら、努めて落ち着いた声で呟いた。

「あの……あたし……どうしちゃったの?」

「ちょっとした発作です。一緒に深呼吸をしましょう」

 伸也は大きく息を吸って、吐いて見せた。

 女性の隣に麻衣子がしゃがみ込んだ。ふてくされた表情は消えて、伸也と同じように穏やかな笑顔を浮かべている。

「さあ、この人と一緒に深呼吸をしてみて」

 耳元でささやくと、女性は呆然とした表情をしながらも、伸也に合わせて深呼吸を始めた。

「そう。その調子よ」

 麻衣子は言いながら、トートバッグを開け、中から薄いベージュの布を取り出した。

「これを被っていて」

 麻衣子はベッドシートほどの大きさに広げた布を女性の肩までかけた。

「頭までかけるけど、大丈夫?」

 女性はけいれんするように小刻みに頷いた。麻衣子はそっと頭までかける。

「何だよ、けちくさ。もうちょっと見せろよ」

 無神経な言葉が伸也の肩越しから投げかけられる。振り向いてにらみつけたくなる衝動を抑えながら、目の前の女性に集中する。

「僕たち、こういう者なんです」

 肩にかけていたパックパックから名刺を取り出し、女性に差し出した。

 『社会福祉法人 共進会 援助士 宮本伸也』

 名刺を受け取った女性は不思議そうに伸也を見た。「あなたは……誰」

「僕は透明症のソーシャルワーカーしている者です」

 透明症と言う言葉を聞いて、布の間から覗いている目から、恐怖の表情が現れ、体が震え始めていく。横にいた麻衣子が背中をさすった。

「不安になるのはもっともです。でも、様々な透明症を支援する制度はありますし、訓練次第では、通常の生活を送ることも可能です。僕たちは、あなたのお手伝いをすることも可能です」

「ご家族はどちらにいるの?」

「さ、札幌」

「親しい人は、都内にいませんか?」

 女性は首を振った。

 麻衣子が困ったという風に眉根を寄せて、伸也を見た。

「今のお住まいはどちらですか?」

「吉祥寺」

「このまま電車で帰るのは厳しいです。病気に理解があるタクシー会社を呼びますが、いいですか」

 女性がこっくりと頷いたので、麻衣子が携帯電話をかけ始める。しばらくして、麻衣子の携帯電話に着信があり、タクシーが到着したことを告げた。

「立ち上がれる?」

 麻衣子は女性を抱えるようにして一緒に立ち上がり、文化村通りへ移動した。通りを見回すと、行灯に「丸川」と表示されたタクシーが止まっているのが見えた。三人はそのタクシーへ向かう。

 ドライバーは、伸也に続いて後部座席へ乗り込んだ布を被った女性を、バックミラー越しにチラリと確認した。事情を聞いているのだろう、驚いた表情は見せなかった。

「吉祥寺へお願いします」

 ドライバーが「はい」と答え、タクシーは発進した。横で女性が、大きく息を吐いたのを感じた。

「あなたのお名前を教えてくれる?」

「奈緒……栗山奈緒です」

「奈緒さん、落ち着いて聞いて、これから私たちはあなたの自宅へ送り届けます。その後、ネットで『厚労省認可 透明症 病院』で検索してください。いくつも透明症を扱う病院が出てきます。その中から一つ選んで電話をしてください。きっと病院の肩が適切に対応をしてくれます。リクエストすれば、自宅まで来てくれるはずでから」

 奈緒は麻衣子の言葉に無言で頷いた。

「これを読んでください」

 伸也は「透明症になったらどうする?」という題名のパンフレットを渡した。「ここに詳しく対応方法が書いてありますから読んでください」

 奈緒は無言で受け取った。

 吉祥寺駅の近くまで来たタクシーは奈緒の指示で単身用のアパートの前で止まった。タクシーから出た伸也たちは、奈緒に付き添い二階にある奈緒の部屋の前まで来た。

「私たちはここで帰らせてもらいます。さっき彼女が言ったことは必ず実行してください。わからないことがあったら僕や彼女に連絡をしてください。いいですね」

 奈緒はぼんやりした顔をして、頷いた。ドア口で彼女が被っていた布を受け取る。すでに肌が露出している部分はほとんどが透明化していた。

「あの……」

「なんですか」

「私は……どうすればいいんですか」

 一瞬苛立ちと共に「だから」と口に出かかったが、どうにか寸前で止める事ができた。彼女はショックで伸也たちの言葉が頭に入ってこないのだ。

「『厚労省認可 透明症 病院』ネットで検索してください。それと、手に持っているパンフレットをよく読んでください」

 奈緒の顔に不安げな表情が広がっていくのがわかる。もう少し一緒にいてやりたかったが、彼女の部屋へ入り込むのは厳禁だ。ドアが閉まる。伸也たちはマンションを後にした。

「彼女、ちゃんとパンフレットを読んでくれるだろうかな」

「そんな心配したってしょうがないわ。あたしたちはできうる限りの事をしただけ。後は彼女次第よ」

「そうなんだけど」

 伸也は振り向いて、奈緒の住む薄いピンク色の壁をしたアパートを見上げた。彼女には頑張って生き抜いてほしいと思う。

 透明症を発症した患者の取り扱いは、全国透明症援助士協会から詳細な指針が定められている。まず、透明症の症状が現れた場合、本人あるいは本人の親族が病院を選定し、受診する必要がある。医師以外の第三者が自宅へ入り込んで、あれこれ指導することも禁じられている。

 この指針ができた背景には、透明症を狙うカルト集団の存在がある。彼らはSNSなどで透明症を発症した患者の存在を知ると、心身が弱っている彼らに近づき、系列の病院へ受診するよう誘導した。その中で患者を洗脳し、金品を奪い、奴隷同然に働かせた。

 こうした事例が多発し、協会で指針が作られた。しかしこれには批判も多い。そもそも悪い奴らは指針なんて無視をするから、真面目な病院や援助士がコンタクトする前に、悪い奴らに患者を奪われる可能性がある。それに、患者による自死の問題もある。イギリス政府の統計によると、透明症患者の自殺率は健常者よりも十倍となり、発症から一週間に限定すると三十倍にもなるという。協会の指針を守っていたら、精神的な危機に立たされている人々を、放置するしかない。

――要するに協会は、自分たちが訴えられるリスクを負いたくないだけなんだ――

 会員からはそんな声が聞こえてくる。おそらくそれが本音なんだろうと伸也は思う。

 伸也は共進会の早川俊夫に女性を救護して、家まで送り届けた旨を報告した。

「それはご苦労様です。彼女はどんな様子でしたか」

「ひどく取り乱していました。悪い奴らに引っかからなければいいんですけど」

「早速明日うちの職員を訪問させましょう」

「はい、お願いします」

 電話を切ると、隣で麻衣子が不機嫌そうな顔をして、携帯電話をいじっていた。

「あーあ。あと十分で映画が始まるわ。もう間に合わない。次の上映は夕方四時半。その時間だと、伸也はステージの準備に行かなきゃならないでしょ。次のデートの時はもう上映も終わってるわ」

「配信かレンタルで見ればいいだろ」

「あたしは大きな画面で見たかったのよ」

「しょうがないだろ。彼女を放っておけっていうのかよ」

「そうじゃないけど」

「じゃあ何だよ」

「ただ……言ってみたかっただけ」

 麻衣子の目が潤んだかと思うと、涙が溢れ、頬を伝っていった。

 同時に、麻衣子の色の肌が薄くなっていく。

「おいおい、ちょっと待てよ」

 伸也は慌てて覆い被さるようにして麻衣子を抱きしめた。

 透明になった麻衣子の二の腕を二人の間に押し込みながら、壁際へ移動する。

 中年の男がニタリと嫌らしい笑いを浮かべながら、背後を通り過ぎていった。

「落ち着けよ」

 伸也は押し殺した声で麻衣子の耳元へささやいた。

「ごめん……あの子を見ていたら、なんだか急に昔を思い出しちゃった」

「俺のほうこそ悪かったよ。気づいてやれなかった」

 さっきから、麻衣子がいらついていた理由がようやくわかった。彼女は奈緒に、かつての自分の姿を投影していたんだ。

「ごめんな……」

 伸也も感情が高ぶり、涙が溢れてくる。


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