東大斬りつけ事件に見る人文学の重要性
先日痛ましい事件が起きた。
センター試験直前の東京大学前で複数の男女が刃物で切りつけられたのである。幸い少年少女は軽症だったそうだが、男性は重症とのこと。無事快復されることを祈るばかりである。直接の被害者ばかりでなく、他の受験者達も多大なストレスを感じただろう。平常心を取り戻し実力を発揮できていればいいのだが。
報道によれば、加害者の少年は十七歳。警察の取調に「東大医学部を目指していたが成績が伸び悩んでいて、絶望した」と答えたという。やった事は決して許されることではないが、その絶望は察して余りある。
十代の少年にとって、世界のほぼ全ては学校である。生活の大半、人間関係の大半は学校という閉じたコミュニティの中で完結していく。そこで思うように結果を残せないと自身に価値を見い出せなくなっていく。その絶望は暗く深い。
社会に出たあとで振り返ると、ごくごく小さな構成要素でしかないことに気づくのだが、渦中でそれに気づくことは至難だ。
確かな実体を持った言葉としてそれを少年に伝えられる大人が周りにいなかったのだろう。
そんな絶望の中で僅かな光に成り得るかもしれないのがリベラルアーツ、人文学である。歴史や哲学などを包括する学問体系であるが、近年ビジネスで成功するための思考ツールとして注目されている。しかし、その本質は全く違うものである。
COTENの深井龍之介氏はリベラルアーツについてこう語っていた。
「リベラルアーツを学ぶことは新たなフレームワークを手に入れることである。」
自分とは異なる価値観や思考、社会構造を学ぶことで、多角的な視点を獲得していく。様々な角度、思考方法で自身や世界を捉えていくことで、その都度世界を再定義していく。そうして僅かでも息がしやすくなると、今まで見落としていたものにも気づくこともあるかもしれない。
そこまで難しく考えなくても、例えば、歴史上の偉人にも自分と似た悩みを抱えていた人物がいたことを知るだけでも救いになることもあるだろう。
マハトマ・ガンディという人がいる。非暴力不服従の運動を率いてインドを独立に導いた偉大なインド独立の父である。近代史を語る上で必ず出てくる偉大な革命家だ。
さて、そのガンディであるが、幼いときから頭角を現していたわけでは決してない。どちらかといえば落ちこぼれである。裕福な家庭に生まれて教育を受けるが、成績はあまり振るわなかったようだ。若い頃のガンディは常にこのコンプレックスを抱えて成長していく。十代前半で結婚、子供を持つが、逃げるように単身アフリカに渡ってしまう。その逃避先のアフリカでの経験が革命家ガンディを形作っていくのである。
今でも尊敬される偉大な革命家ガンディであるが、いい父親だったのかと言われれば疑問がある。息子とは仲違いし、終生関係が修復することはなかった。ガンディが死んだ数ヶ月後、彼は路上で死体となって発見されている。人間というのは多面的なものである。
社会における価値基準もまた流動的なものである。
宮廷文化華やかな平安時代は和歌を読む力が重要視された。優れた和歌を読むことで、互いの文化的素養を競ったのである。
武士の時代になると、価値基準は武力になっていく。いかに大きな武力を持つかが権力に直結していく。
そして動乱の戦国時代、何より望まれたのは生き残る力である。あらゆる手段を用いて戦場で生き残った者達が勝者となっていった。
現代日本ではコミュニケーション力だろうか。いかに周囲と協調できるかが問われる。日本社会は、個ではなく集団としてグローバル社会に対面していくことを選択した。
これからも様々な外圧、内圧によって、価値基準は変化し続けていくだろう。今日石屑同然に扱われているものが、明日には金塊に変わっているかもしれない。
進学校で深く人文学について扱うことは難しいだろうことは分かっている。テストの点数にほとんど寄与しないのだ。そんなことをする暇があるなら数式の一つでも解かせたほうがいいかもしれない。それでも敢えて言いたい。子供に世界は多面的であると伝えてほしい。価値観は一つではなく、時代や環境によって様々に変化していくのだと教えてほしい。それが暗闇から抜け出す手掛かりになることもあるのだから。