6.甘いフィナンシェ①
その日、ロゼッタが見た夢はとても幸せな夢であった。
昨日、つい思い浮かべてしまった甘いフィナンシェの幻想に影響されたからか、ほかほかのフィナンシェやマドレーヌやカヌレに囲まれるという夢だ。
うっとりとするほど甘く幸せな夢から目覚めてしまえば、自室として使ってる冷え冷えとした小さな部屋がただ静かに目の前に広がるだけ。
ロゼッタがのっそりと寝台から起き上がると、薄い寝間着越しに伝わる秋の冷たい朝の空気が、甘い夢の余韻を無情に切り払った。
時計を見ればいつもの起床時間よりも少しばかり早い。二日続けて同じ訪問者というイレギュラーが起きたため、無意識にそわそわしていたのかもしれない。
「はぁ……。夢の中だけは幸せね」
所々繕った跡がある厚手のカーテンを開け、朝日を浴びながら大きく伸びをすると、着替えをするためクローゼットを開いた。
「今日はどれにしようかしら?」
いつもであれば適当に目についた服に決めてしまうのだが、ロゼッタにしては珍しく悩んでいた。
あの青年は昨日、約束通りにまたこの屋敷を訪れた。であれば、今日も約束通りに現れる可能性は高い。
そう考えると、いつものように適当に服を選ぶことがなんとなく出来なかったのだ。
(昨日言っていたお店のフィナンシェを持ってきてくださるのかしら?………ってダメダメ!何考えているの!下手に期待をしてはいけないし、何より彼はもうここには来ない方がいい。それが彼のためであり、この屋敷の本来の持ち主であるケイネル伯爵家のためだから)
ロゼッタがこの屋敷に囚われてから、何度もケイネル家の者がやって来た。
時に、ロゼッタの家族と共に説得をしに。
時に、ロゼッタの婚約者である嫡男のエドガーと共に。
時に、力尽くで屋敷に押し入るために、多数の屈強な騎士を引き連れて。
それでも屋敷に入れないと分かった時からは、暗殺を請け負う手練れの傭兵をロゼッタに向けて何度も放った。
ロゼッタが知らないだけで茨が追い返してる者もいる事を考えると、一体これまでにどれだけの人数がこの屋敷を訪れたのか分からない。
(それでも、誰もこの屋敷の敷地内に一歩たりとも足を踏み入れられなかったけれど。出来ればこれ以上ケイネル伯爵家にご迷惑をお掛けしたくない…。もしも、あの青年が茨によって大怪我をしてしまったのなら、きっとケイネル伯爵家に、そして我が家にもその責任が問われるわ。………でももう、そんな事今更かしらね)
伯爵家の別邸を、家格が劣る男爵家の令嬢が乗っ取ってしまったのだ。その時点で、もうこの上ないほどの迷惑を掛けてしまっている。
きっと、ロゼッタの実家であるハイガーデン男爵家には、エドガーの実家のケイネル伯爵家から莫大な弁償を求められているに違いない。
「はぁ………。私がここから出られたとして、一体どうなるのかしら?私の命ひとつで責任が取れればいいのだけれど、きっとそれだけでは足りないでしょうね」
苦い現実に目を向ければ、甘い焼き菓子の事を考える資格など、ロゼッタにはこれっぽっちもないのだと痛いほどに理解が出来た。
小さなため息を吐くと、ロゼッタはクローゼットの中から出来るだけ綺麗な服を選び出し袖に手を通す。"綺麗な服"といっても、いくつも繕った跡がある茶色の地味な服である。
(破れた所を何箇所か繕ってはいるけれど、この服はまだ裾を切ったりはしていないわ。きちんとした長さの服なんて、もう後数着しかないのだから大事にしないとね)
着替えが終わると、今度は少しパサついた禄に手入れのされていない赤い髪の毛にブラシを通した。
侍女達がやってくれるような凝った髪型には出来ないが、三つ編みをくるくるとまとめて、お団子にするくらいならばロゼッタにも出来る。
髪の毛を下ろしたままでもロゼッタに問題はなかったのだが、自称庭師のあの青年がまた来る可能性が高い。それならば、出来るだけ髪の毛がフードから溢れにくいような髪型が良いだろう。
(うっかりこんな血を被ったみたいな色の髪を見せてしまったら、きっと怖がらせてしまうものね)
何本かのピンでお団子を固定し髪のセットを終わらせると、貴族の令嬢の物とは思えないほどいくつもの傷が付いた外履きを履き、ロゼッタは自室を後にした。