5.訪問者④
空が白み始めた頃、ロゼッタは着替えを終えて朝食の準備をしていた。
準備といっても少量の塩を皿に出し、昨日菜園から採ってきたカブを冷たい水で洗っただけである。
「はぁ……。そろそろ水仕事がキツくなってきたわ。冬の間だけでもスープくらいは毎日作れるように、もっと枝を拾って来なくてはね」
かじかんだ指先を吐息で温めながら、火の入っていないかまどに目を向ける。本音としてはそろそろ使いたいところではあるが、薪の節約のため本格的に寒くなるまでは我慢だ。
ロゼッタはポリポリと新鮮なカブを齧りながら、今日やるべき事を考える。
(いつも通りまずは洗濯。その後は掃除をして……、今日は果樹園の手入れをしてしまいましょう。魔力を注いで育ててあげなくても、あの林檎ならもう食べ頃のはず)
果樹園にある真っ赤に熟れた艶やかな林檎を思い出す。
やる事が決まったのならば、後は行動するのみである。ロゼッタは冷たい水を飲み干すとキッチンを後にした。
シーツやタオルを干し終わった頃には、日は随分と高くなっていた。このまま屋敷の中の掃除を始めれば、終わった頃にはちょうどお昼の時間になるだろう。
「今日はお天気が良いから早く乾いてくれそうだわ。……そういえば、昨日の彼がまた来ると言っていたけれど、本当に来るのかしら?来たとしてもこの屋敷に入れる訳がないのに……」
空になった洗濯カゴを手に屋敷に戻ろうとした時、ふと嫌な予感がした。また門の方の茨が騒がしいのだ。
(まさか本当にまた来たの……?)
早足で屋敷に戻ると、洗濯カゴを少々乱暴に玄関の側に置き、昨日と同じフード付きケープを手に取る。髪の毛がはみ出ないようしっかりとフードを被ると、門の方へと向かって行った。
こそこそと木の陰に隠れながら門へと向かえば、そこには昨日と同じ青年が凝りもせずにまた茨と格闘しているところであった。
「いったいなぁ。別に悪さをしに来たわけじゃないのに………あっ!こんにちは、お嬢さん。今日も秋晴れの良い天気だ」
青年が隠れていたロゼッタに気が付くと、にこやかに手を振ってきた。
ひらりと振った手に巻かれているのは真っ白な包帯だ。昨日の傷はきちんと手当てをしたらしい。
「ここに来てはまた怪我をします。どうぞ、お引き取りを」
ロゼッタは顔が見えないようフードをしっかりと被ったまま、昨日と同じように帰るよう青年に告げる。
(何が目的でこのお屋敷に来たのか分からないけれど、これ以上ここにいたらきっともっとひどい怪我をしてしまうわ)
「どうかそう言わずに。美しいあなたにどうしても会いたくて、遠路はるばるまたこうして来てしまったのですよ」
「ですから、帰ってください!」
(美しい?呪われた赤い目をして、こんなみすぼらしい格好をした私が?お世辞でももう少しマシな事を言って欲しかったわ。……きっと私がそんな心のない言葉で絆されるような女に見えたのね)
青年の言葉にロゼッタは静かな憤りを覚える。下手なおべっかよりも、まだ呪われた魔女と貶された方が幾分かマシであった。
ロゼッタはふつりと湧いたその感情を難なく飲み込むと、感情のない静かな声でまた告げる。
「どうか、お引き取りください」
「失礼。言葉選びを間違えましたね。あなたに興味があるのは本当ですよ。それに私はこの屋敷の庭に心惹かれているのです。少し手を加えてあげれば、すぐに美しくなるでしょう」
「………」
そういえば昨日彼は庭師だと言っていたな、とロゼッタは思い出す。
エドガーの実家であるケイネル伯爵家は、本邸も別邸も庭園が美しいことに定評がある。お茶会の出来るような東屋をいくつも庭園内に作り、定期的にご婦人方を招いては、美しい季節の花々を眺めながらお茶楽しんでいるのだ。
ロゼッタが今いるこのケイネル家の別邸も、本来であればもっと美しい庭園が広がっていただろう。
(たしかに庭師達が居なくなってからは、庭園のお手入れを全くしていないわ。お花が綺麗に咲いてくれたら嬉しいけれど、それよりも菜園と果樹園の方が大事だもの)
"花より団子"というよりも、作物に関しては死活問題のため、どうしても食べられる物優先になってしまう。
「この屋敷に庭師は必要ではありませんか?荒れた庭のままでは心は休まりません。ですから、庭師である私が美しく手入れを致しましょう!」
青年はキラキラしいオーラを放ちながら、強引なまでの提案をする。
こちらから彼の顔は見えないが、きっと爽やかな笑顔をロゼッタに向けていることだろう。
「いえ。この屋敷に庭師は必要ありませんので、お気になさらないでください」
その提案をすげなく断ると、フードを強く握りしめながらロゼッタは言葉を続ける。
「このお屋敷についての噂は、きっと街で耳に挟んだことでしょう。ご覧の通り、茨に呪われているのです。ですから、もうどうか関わらないでください。庭師のお仕事を探しているのなら、ここではなく他のお屋敷をあってください」
「おっと。これは随分と強情なようだ。では、明日は何か贈り物を持って伺いましょう」
「……あの、私の話を聞いてらっしゃいましたか?」
「ええ、もちろん聞いていましたよ。ところで、お嬢さん。何か欲しい物はありませんか?」
「欲しい物?」
この屋敷にある物資はどれも不足しているため、欲しい物など星の数ほどある。
新しい服に温かい食べ物、石鹸や蝋燭に毎日使っても余裕のある薪。他にも生活に必要な欲しい物が沢山あるのだ。
そしてもちろん、贅沢品だって欲しい。
(甘いお菓子も食べたいし、欲しい物なんてありすぎるわ)
果樹園で採れる果実ではなく、砂糖やバターをたっぷりと使った甘いお菓子が食べたいのだ。
最後にそのようなお菓子を食べたのは、春の終わり頃だっただろうか。
美味しい食べ物も欲しいが、身なりを整える物だってもちろん欲しい。香油などはもう随分と前に使い切ってしまったため、髪や肌の手入れなどとんとしていない。
ロゼッタはそんな自身の欲を心に押し込めて、いつも通りしっかりと蓋をする。
「……欲しい物などありません。それより、早く帰ってく――」
「甘い物はお好きですか?」
ロゼッタの言葉に被せるように言葉を続けると、こちらの様子を伺うように返答を待っている。
(この人、全然人の話を聞いてないわ……)
「甘い物は好きですが、今そのような事は関係ないのではありませんか?」
「そうですか!では、この街には有名な焼き菓子屋があるのですが、お嬢さんはご存知で?」
「…いえ」
「そのお店の名物はフィナンシェで、それはそれは絶品なんだそうですよ。明日はそちらを手土産に持って参りましょう」
(美味しいフィナンシェ……)
ロゼッタの頭の中は一瞬で焼き立てほかほかの焼き菓子に占領された。焼きたての焼き菓子から香る、香ばしく甘いバターの香りまで思い出す。
ロゼッタが甘い幻想からはっと現実に戻ってきたときにはもう、青年はまた明日、という言葉を残して来た道を戻って行ってしまっていた。