空色デイズ
「お前を信じる俺を信じろ!」
大学受験を控えた秋口に、片足を椅子に乗せ、天井――空の果てへ向けて、右手の人差し指をピンと突き上げた。
言われた相手――翌日にバレーボールのスポーツ推薦を受ける篠原唯含むクラスメイト達は揃って首を傾げていたが、いつしか「またアイツの中二病が出た」と呆れた雰囲気になっていった。
「あの馬鹿は放っておけ」。緊張で弱気になっていた篠原唯の彼氏にして、俺とも小学校からの腐れ縁のある桜井春坂はシッシッと手で払っていやがった。
高校三年間、ずっとこんな調子だった。アニメや漫画の影響を受けては、修学旅行で夜空を眺めて一人「あれがデネブ、アルタイル、ベガ。君が指差す夏の大三角」と浸ってみたり、パシろうとする先輩に向かって「俺を誰だと思っていやがる!」と啖呵を切ってみたり、文化祭でもステージで『けいおん!』でアレンジされた『翼をください』の歌詞を変えて『彼女をください』を勝手に作って熱唱する。
そんな有様だから、同じ学年どころか学校全体で、『中二病』として扱われていた。
ともかく周囲からはそういう目で見られていたわけだから、俺が教室で天を指して言った言葉は誰の耳にも届かないと思っていた。篠原唯とも三年間一緒のクラスだったから、いつも通りスルーされるとばかり思っていた。
しかし、篠原唯は確かに「お前を信じる俺……」と呟いていた。
雪がチラつくようになってきた高校生最後の冬。授業は聞き流してAO入試用の論文の練習をし、一般入試のため退屈な予備校に通い、知って何の得になるんだか見当もつかない数式や英単語を足らない頭に叩き込む日々が続いた。誰しも通る道だが面倒くさいと、一日何回ため息と欠伸をするのか数えるようになってきた頃、教室の机で缶コーヒー片手に『モザイクカケラ』を口ずさんでいたら、息を切らして篠原唯が教室に駆け込んできた。「なんだ?」と目をやれば、俺の方へと顔を輝かせてやって来た。
「あの言葉の意味、わかったよ!」。何のことだか忘れていた俺に、篠原唯はカバンから一枚のクリアファイルを取り出して、中に挟まっている一枚の紙を机に置くと、名門校『光世大学合格証』。真っ先にそれが目に入った。
「あの言葉のおかげだよ!」。篠原唯は興奮気味に話す。試験会場で問題と向き合った時、俺がアニメに影響されて口にした「お前を信じる俺を信じろ!」が頭に浮かび、何を伝えたい言葉なのかわかったと。
「自分だけ信じていたら多分受からなかった。春坂やクラスメイト達の言葉だけでも心もとなかった。そんな時に、あの言葉の意味が浮かんだ」。篠原唯の言葉に浮かれそうになる半面、『アニメからの借り物の言葉』で助けてしまったという感覚が拭えずに、「おめでとう」などと、普段ならもっと調子に乗って何かのアニメの言葉を言っていただろうに、単純な言葉しか出てこなかった。
東京北区にある、荒川沿いの大通りから路地三本入った家賃四万五千円のボロアパートから五分ほど歩いて、今日も大学へと向かうためバスに乗る。みんなが手元のスマートフォンを眺めるバス車内で、ボオッーと過行く街並みを眺めていた。
高校を卒業して、故郷の赤木市鏡花街――田舎から出てきて一年。どこもかしこもコンクリートだらけの街並みにも慣れてきた。一人暮らしも実家からの仕送りと居酒屋でのバイトで不自由なく過ごせている。炊事洗濯にはまだ慣れないが、それなりにこなせてはいる。
ただ、どうにもこの一年、つまらないものだった。東京の大学では、みんながみんな周囲からの視線を気にしているような立ち振る舞いをして、一人では決して目立たず騒がず、誰かに『周りと合わせろ』と言われたように過ごしていた。出る杭は打たれ、『普通にしていろ』と世間が強いてくる。
当然、俺の中二病は出る杭だった。初めの授業での自己紹介で、高校の時と同じように目立つようなやり方をとしたが、周りの反応は芳しくなかった。『なんだあいつ』。無言ながら、似たような服装と似たような髪型の奴らは、そう言ってくるようだった。
何をしても、そうだった。アニメの真似も歌を呟くのも、『いい加減大人になるんだろ?』などと……つまりは、もうやめろと、生き方を変えさせようと無言で強制されていた。
まるでねずみ花火だ。高校卒業までを過ごした十八年間を思い返して、すっかり周りに合わせるようになっていた俺は物思う。狭い田舎、大体知った仲の人の輪の中、あっちこっちで火花という中二病をまき散らして、こうしてつい消える。世間が、社会が――世間体という見えないくせしてなければ困るもののために、俺の中二病という個性は消えていった。
だがある日、フッと立ち寄ったツタヤにあった、かつて憧れ、真似をしていた――借り物の言葉として使わせてもらっていたセリフの詰まる作品たちが目に留まった。そういえば、もうずっとアニメも漫画も見ていない。そんな俺へ語り掛けるように、『天元突破グレンラガン』の主題歌『空色デイズ』が頭に木霊した。
あの日くれた言葉が今でも この胸に確かに届いているから 昨日よりも 今日僕は僕の 生まれてきたわけに気づいていく 答えはそう『いつもここにある』
自然と、胸を押さえていた。『いつもここにある』。ずっとアニメのついでに聞き流していた主題歌が伝えたかった意味。それがなんとなくわかった。
生き方の答えは、この胸にある。周りがどうだとか、ふつうはなんだとか、別にいい。
好きにやればいいじゃないか。ここでダメなら、場所を変えて。何もかも捨てて、やりたいように生きてやればいいじゃないか。忘れかけていたかつての想いが、一年ぶりに胸に灯った。
両親に黙って大学をやめた。貯金していた金も降ろして、アパートからも引き払った。カバンに着替えと財布だけを入れて、日雇い派遣会社に登録すると、その日その日だけを生きていく日々が始まった。
きっとみんなはこんなことしない。せっかく受かった大学を出ることも、親の期待を裏切ることも、みんなは『生きづらくなる』からしない。
でも、俺は違う。この一年は息が詰まりそうで、そこから抜け出してその日暮らし――自由な日々に漕ぎ出してみたら、まるで翼が生えたようだった。
小汚いオッサンと肩を並べて会場整理や片付けを仕事にして、適当な漫画喫茶かビジネスホテルに泊まって。いくら普通に生きる人々が『あんな暮らし、将来は真っ暗』だとか言っても、路頭に咲く花のように、好きなように生きて、好きなように死ぬ。それだけの事だった。
ある時、異変に気付いた両親からスマートフォンに電話がかかってきた。何をしているのか。どこにいるのか。問い詰めてくる両親に、「好きなように暮らしている」とだけ答えた。
別に、誰かに迷惑をかけているわけでもない。俺はただ、息の詰まる社会とは相性が悪かったのだ。故郷で好き勝手やっていたように生きたいだけなのだ。
「あれがデネブ、アルタイル……なんだったか」
電話を切って見上げた空には、いつかの修学旅行で見た夜空が広がっていた。あの時のように歌を口ずさもうとして、歌詞を忘れていた。
「まぁいいか」
忘れたのなら、また聴けばいい。責任もクソもない。好き勝手やっているだけなのだから。
その日暮らしの生活を始めて九年が経った。一応仮の住まいとして東京の外れにあるアパートの住所を借りて、日雇い派遣を続けている。休みたいときには休み、働きたいときには働く。大卒の同期たちが就活に四苦八苦し、苦労の末に入った会社でストレスばかりの日々をおくる中、今度はこちらが向こうの生き方に違和感を覚えていた。
「なんで、もっとスッキリ生きねぇのかな」
学生時代から続けているツイッターを見て、口をついて出た言葉はそれだった。『ブラック』『辛い』『社畜』……学生時代は、それこそその日その日にあったうれしいこと、楽しいことを呟いていた同期たちが、そういう単語の混ざるツイートを毎日のように発している。
嫌ならやめて、こっちにこい。そう言ってやりたい気持ちもあるが、なんとなく向こうの気持ち――境遇もわからないわけでもない。
みんな、積み過ぎたのだ。世間体が求める普通の会社員という生き方へ至るための道のり。そこにたどり着くために、成功を積み過ぎた。より良い結果を出して、より良い人と付き合って、より良い環境に身を置いて……
気づけば、動けないのだろう。動いてしまえば――今の自分を別の自分にしようとすれば、積んできた今までの成功が崩れて、その衝撃でダメになる。なんとなくそれがわかっているから、動けない。
ツイッターから目を離し、フラッとアパートの外に出てみる。夜空は故郷のように澄み渡るほどではないが、星がしっかり輝いていた。あの輝きのこの色は、多少見え方に違いがあっても変わらないもの。でも、生きている立場によって、見え方の変わるもの。
同じ空の下にいる、名門に受かった篠原唯はどうしているだろうか。まだ、春坂と恋人だろうか。もしかしたら、結婚でもして、子供もいるのだろうか。
「ん?」
めずらしく、郵便受けに封筒が入っていた。開けて見ると、懐かしい故郷で、高校卒業十周年同窓会の頼りだった。
しばらく、それを眺めていた。そして、ビラっと風に乗せて捨てた。
たぶん、生きている世界が違う。少なくとも、見えている世界の形は違う。そんな奴らと、また会う気は起きなかった。
自由に生きているという事は、時として、過去を捨てなければならない。空の色は変わらずとも、人の目は変わるのだ。その目がもっと老いてから……よく一緒に働くオッサンのように寛容になってから、また会おう。
もう、この生き方――道を決めてしまったのだから。突っ走って、その果てで再会したなら、それでもよし。
走り出した思いが今でもこの胸に確かに届いているのだから。