暖炉の男の子<1>
冬のどんよりした雲を1枚めくると、真っ白で寒々しい大地が顔を見せました。さらに低く下りていくと、ポツポツと明かりのついた家が浮かび上がりました。外の気温はマイナス12度。肺も凍るような寒さの中、ちょうど、大地主の男がまきを取りに出たところです。
「トンツクさん、トンツクさん」
大地主の男に、知り合いのごますり男が声を掛けました。トンツクは最初気付かないふりをして、振り返る前に一度顎ひげを整えました。顔を合わせる者にはいつだって立派だと思われていたいのです。そのため、威厳の見せ方には1ミリも譲れないこだわりがありました。顎ひげを真っすぐ立てて、眉間を狭め、フンと力を込めて胸を張る。彼の場合はそれでした。
「これはこれは、イッチさんではありませんか」
たった今気が付いたとばかりにトンツクは言いました。
「きょうもひどい雪ですね。あまりに雪が降るものですから、一日中雪かきで肩や腰がたまらんのなんのって、村じゅうの人が言ってますよ。一層のこと、穴倉でも作ってこもりたい気分です。それはそうと、いつも思うのですが、トンツクさんの家の周りだけ雪が少ないのは、どうしてで?」
イッチはこんもり雪が積もった自分の家と、ちっとも積もっていないトンツクの家を見比べました。トンツクは、ニンマリ笑うと、イッチの肩を引き寄せました。
「実は、ここだけの話」
「ほうほう」
イッチは耳をそばだてました。
「うちの暖炉は特別でしてねぇ……1個のまきをくべるだけで、普通の3倍は暖かくなる一級品。年中ポカポカ、家の床まで温かい。熱さが暇をして、家の周りまで暖めてくれるってわけなんです」
「ほう! それじゃあ、まき代も随分安く済みますね。いったいどこの暖炉をお使いなんです? 一級品ときちゃあ、さぞお高いのでしょうね」
「少しばかり値は張りますが、買って後悔させません。なにしろ、コウ領にいる暖炉専門の職人に作らせた特注品ですから」
「さすがはトンツクさん。お目が高い!」
イッチは鼻穴を大きく広げ、興奮して息を吐きました。
「暖炉は冬国の生命線ですから、いいものを選ばなくては」
「たしかに。うちは妻と子どもの6人家族。部屋数も多いですから、毎月の暖房費はばかになりません。まきを買うためにあくせく働いているようなもんです。はぁ……みんな、自分が払わないからと言って、バンバン使う。まきを買うのは私だというのに。特に下の娘ときたら、まきがポンと湧いて出るものだと思っている」
「まぁまぁ、いずれお父さまの苦労が分かる年になりましょうよ」
「すみません、つい家族の愚痴を……」
「いえいえ、生きていれば愚痴くらい吐きたくなりますよ」
2人はワハハと笑いました。
「暖炉の件ですが――あまりにいい話なので、本当は誰にも言いたくなかったんですよ。でも、イッチさん。あなたとは付き合いも長いですから、特別に今回の業者を紹介しましょうか?」
「ぜひぜひ!」
イッチは二つ返事でした。
「あぁ、なんてありがたい! 助かります」
「いいんですよ」
「それで、おいくらで?」
トンツクは肩にからんで耳打ちしました。
「そんなにっ!」
「なに、高いだけの価値があります。よく言うではありませんか。安かろう悪かろうってね。いい暖炉は人を笑顔にします。あなたの家族も喜ぶ。一生物ですよ」
最後の一言が決め手になったようです。イッチは
「よし、決めました。ぜひ紹介してください」
とにっこりしました。
「では、詳しいことはのちほど」
イッチはルンルン気分で帰って行きました。1人になったトンツクは、いい話ができたとほくそ笑み、小屋からバケツ1杯分のまきを詰めて家に戻りました。
外と違って、部屋の中は南国のような暖かさです。でも、おかしなことに、部屋の真ん中にある暖炉には、火どころか、まき一つ燃えてはいませんでした。トンツクは、どっかり大きな尻を椅子に下ろして新聞をめくりました。
「いいカモを捕まえた。しめた、しめた。1個のまきをくべるだけで普通の3倍は暖かくなる――そんな都合のいい暖炉なんて、どこにもないのに! 自分がただ高い暖炉を押し付けられたとは思いもしないだろう。フハハハハ!」
外の雪は、一層ビュービューひどい風とともに強まっていました。トンツクは台所に行ってかまどの上で湯を沸かし、ジャガイモ、ニンジン、ダイコン、肉の切れ端、香辛料を入れてグツグツ煮込みました。さて、最後に魚醤を数滴垂らせば頰も垂れる冬国スープの完成です。
トンツクは大きなお皿を二つ用意して、黄金色に輝くスープをよそいました。ところが、「さぁ、ご飯だよ」とも「お待たせ」とも言わずに、むしゃむしゃ大皿の一つを平らげ、残りの大皿を持って地下へ続く階段を下りて行きました。地下通路の、突き当たりにある、木でできた扉の前で足を止め、ポケットの中をまさぐり、コツンと当たった金色の鍵を取り出し、鍵穴をカチャッと回しました。扉が開くと、ゴウゴウ空気もゆがむ熱気があふれました。壁に掛けられた温度計は55度を示しています。
部屋の中を照らすのは、壊れかけた灯籠の明かり一つ。粗末なベッドとテーブル、椅子、床には大量の本が積まれていました。高価な家具が一式ある居間とはまるで違う光景です。この地下室は、鉄格子さえないものの、あまりに閉鎖的で、陰気な空気のする所でした。
普通の人なら、これだけ熱い部屋に人が住んでいるなんて考えたくもないでしょう。しかし、部屋の角には、およそ健康とは見えない、鎖で手をつながれた男の子がいました。ボサボサの髪は赤色で、しばらく自分の顔も見ていないのか、表情は無頓着、こんなに熱いのに、目は人のぬくもりがまるで感じられません。彼は1冊の本を開き、感動のない目でただただ文字を追っていました。
「飯だ、飯!」
トンツクは鍵で乱暴に皿をたたき、テーブルの上に大皿を置きました。イッチと話していた声とは百八十度異なり、今は刑務所にいる強面の看守そのものです。
「いいか。しっかり飯を食べろ。お前が倒れたら、私の家が冷え切ってしまう。50度を下回らないようにするんだ」
トンツクは温度計を指さしてガミガミ言いました。
「1度でも下回ってみろ。すぐさまお前を鞭で打ってやるからな」
するとどうでしょう。鞭という言葉を聞いた途端、男の子は急にガクガク震え始めました。言葉の鞭が効いたようだと、トンツクは満足そうにニタリと笑い、扉をバタンと閉めて鍵をかけました。
この男の子こそ、トンツクが秘密にしている、特別な暖炉だったのです。信じられないかもしれませんが、この子は熱を生み出せる不思議な力を持っていました。例えばコップ1杯の水が目の前にあるとしましょう。彼は触れただけで50~100度のお湯に変えることができるのです。それでも自分がやけどをすることはなく、髪一つ燃えることもありません。彼自身、普通の人より熱さや寒さに強いという特性を持っていました。
彼が閉じこめられている部屋に関して言えば、天井にはいくつもの穴が開いており、そこから熱気が上がって家中を暖めるという仕組みでした。人の熱でここまで暖かくなるなんて、村人たちは夢にも思っていないでしょう。10歳そこらの男の子が、地下室に閉じ込められているということも、当然分からないわけです。
男の子は出されたご飯を食べませんでした。おなかは正直に空腹を訴えているのに、意地でも食べたくないという思いが頭をチラつくからです。でも、食べなければ力がつきませんし、50度を下回れば鞭で打たれるという罰が待っています。これまで、ご飯を食べないという理由で何度も背中を打たれてきたので、あの時の痛みを思い出しては恐怖で頭を締め付けられ、食べないということがしまいにはできなくなるのです。だから、この日も男の子はそういう自分に負けて、泣きながら大皿のスープを食べました。
ただ、ご飯を食べて、トイレに言って、風呂に漬かって、家の中を暖める。男の子はこの年になるまでずっと繰り返してきました。それ以外の生き方を、何一つ知らないのです。
けれども本は、いろんなことを教えてくれました。空は青々としているとか、雲が浮かび、雨や雪が降ってくるとか、そんなワクワクするようなことをです。そのたびに、男の子は目を閉じて、空や雲を思い浮かべるのです。本の世界では、どこにでも行けました。川や海に行って、魚という生き物が泳ぐ姿を見たり、鳥になって大空を飛び回り、たくさんの人が暮らす町や村を訪れたり……
ただ、分からないことがありました。白い雪がしんしんと降っているとか、赤や黄のお花畑とか、そういう言葉を見るたびに、白ってどんな色なんだろう? とか、赤ってどんな色なんだろう? なんて思うのです。男の子にはいちいち質問に答えてくれる人がいませんから、答えはいつだって身近な本の中にありました。赤色に関して言えば、お気に入りの北国夢物語に登場する暖炉の表現を見れば分かります。
ゆらゆら炎が波打つ様は、赤い宝石が生み出されるようであった。
なるほど。赤色というのは火の色をしているのだな、と。火の色は灯籠で知っていましたから、さながら自分の髪は赤い宝石か火のよう、というわけです。
トンツクが与えた物の中にはペンと紙もありました。頭を使わないとばかになると思ったからです。そのため、男の子は普通の大人より多くの言葉を覚え、意味を知り、文字を書くことができました。
でも、男の子にとってはひたすら”それだけのこと”でした。
本当に見たいもの、感じたいものは、紙に記された文字ではありません。
本も、紙も、ペンも捨てた外の世界。
空や雲は、どんなにか美しいことでしょう。太陽の光に目を細め、新鮮な空気をおなかいっぱいに吸う……そんな日が来ることを、願ってやみませんでした。逆に言えば、それしか持ち得なかったのです。
しかし、思い返してもみてください。手には鎖、部屋のどこにもない窓、鍵のかかった扉、鞭を振るう看守。男の子が外を知るには、あまりに高い壁です。本を読むだけでは、この状況を解決する手だてを見つけられないのです。今の男の子には、想像力に富んだ心でも、無謀な勇気でもなく、助けてくれる人が必要でした。
からっぽになった皿の底に、やつれた自分の顔が見えます。手を両頰に当て、男の子は喉の奥を鳴らしました。どんなに心が豊かになっても、自分の顔はちっとも豊かに見えませんでした。