第四部 2
その後食事を終えて、食器の片づけを手伝っていた時だった。
セレネの書いたエンジェリーズという言葉。その言葉が一連の事件に関与していることは間違いないのだろうが、やはり天使語という単語に聞き覚えはない。造語かと思ったが、そういうわけでもないようだ。彼女はその単語を書いたっきり、少し悲しそうな顔のまま食器を洗っていた。セレネにとってこの天使語というモノは、何を意味するのだろうか。それは、彼女が言葉を発さないことに何か関係しているのだろうか。わからない。わからないけれど、俺はやはり何か重大な事件に巻き込まれているようだった。特高や国連が追っているということは、国家や世界規模の事案なんだろう。それを考慮すると、この若い少女に、一体どんな価値があるというのか。
心の内で思案していると、部屋の方からバイブレーションが聞こえた。振り返ると、ちゃぶ台の上に放置していた俺のスマートフォンが着信を知らせている。俺はセレネの手伝いを一旦やめると、ちゃぶ台に歩み寄って、スマートフォンを手に取った。電話をかけてきていたのはボンドマンだ。もしかしたら、あの件かもしれない。若干の期待を胸に、通話を開始する。
「俺だ」
「ようロボ。昨日は災難だったみたいだな。お前さんがただ働きするとは、天変地異の前触れかね」
カラカラと笑ういつもの調子のボンドマン。きっとどこからかセントレアでの一件を聞きつけたのだろう。相変わらず耳の早い男だ。
「姉さんの医療費には今のところだいぶ余裕がある。一件くらいのボランティアもたまには良いさ」
「相変わらずお姉ちゃん子だなぁお前さんは。やっぱりセレネが関わってるからか」
俺は無言を返事にした。マツリと似ている少女、セレネ。彼女を匿い、そして彼女の秘密を探ろうとしている。完全な俺のエゴだ。マツリに似ているからといって、セレネはマツリではない。だから構う必要はないのだ。だけど俺はセレネをマツリの代わりだと思っている節がある。それはきっと間違っているのだろうが、それでも人は間違う生き物だ。それを言い訳にしてここまでやって来た。
「そんなお前さんにニュースだ」
「やっぱりあの件か」
「ご名答」
そう言うと、ボンドマンは声の調子を変えた。若干の緊張感が俺たちの間に走る。
「お前さんから受け取ったファイルの解析結果が出た」
ファイルというのは、もちろんA27ファイルのことだ。人類進化研究所で奪取したあのファイルを、俺じゃなく専門家ならわかるのではないかと、ボンドマンに解析を依頼したのだ。もちろんボンドマンは専門家ではないので、彼の友人に頼む形にはなったが。
俺は息を呑んだ。これから聞かされることが、なんらかのヒントになる可能性は高い。否応なく期待は高まる。
「――俺の旧いダチに見てもらってな。このファイル、恐らく何かの言語体系が図式化されたものらしい」
言語体系。セレネの言う天使語という単語が脳裏を掠める。
「そこで、一体何の言語かって話なんだが、それはよくわからなかったらしい。なんでも言語系が流動的で、俺たちの話すような“言葉”と言っていいのか、それすらも怪しいと」
「言語が流動的――」
「おう。聞いた話だが、例えば目の前にリンゴがあるとすると、俺らはそれを“リンゴ”としか呼べないだろう。しかしその言葉は、リンゴという物体に対して無限に近しい呼び方があるらしい。伝える状況や時間によって“リンゴ”という物体の表現法は左右されるし、ある決まった呼び方が規定されているわけでもないらしい」
頭の中が混乱してきた。つまり同じモノでも、状況に応じて呼び方が変わる、といった具合か。
「――本当にそれは言語だと言えるのか」
ボンドマンは電話の先で溜息を吐いた。
「俺だって聞いた話だからよ。解析を担当したのは大学で言語学を研究してる奴だ。ま、そもそも言語体系だってわかるまで、大学内で色々な研究室をたらい回しにされたらしいが」
つまりその解析結果は信用に値することだということ。そもそもボンドマンを疑っているわけではなかったのだが。ともかく、これでA27ファイルの正体は判明した。謎に包まれていたヴェールの一枚を剥がせたわけだ。しかし、これで謎はまた深まった。人類進化研究所が言語の研究をしていて、セレネの連行依頼を出した。無関係とはやはり思えなかった。
そこで俺は、セントレアの一件で入手した唄のデータも解析に回してもらうことにした。
「追加で一つ、頼んでいいか」
「おお、なんだ」
「昨日の一件は聞いてるだろう。その時に手に入れた音声も解析してもらってくれ」
「それは構わないが――やはり、セレネに関係することなのか」
「恐らくな。入手した音声を聞かせたが、反応があった。彼女に関係していることは明らかだろう」
「――了解した。後でその音声を送ってくれ」
わかったと伝えて、俺は電話を切った。
A27ファイル。言語体系の図式。天使語。奇妙な唄。そのバラバラのピースが、少しずつ形を取り戻してきているように感じた。
そこでふと、視線を感じ取る。振り向くと、皿洗いが終わったのかセレネがこちらに身体を向けて見つめていた。その悲しそうな瞳は、俺の身を案じているように思えた。
しばらくして、また俺のスマートフォンが振動した。脳内を闊歩する様々な思案を切り払って、俺は電話の主がクレアであることを確認する。多分、ルイズの経過についての報告だろう。こちらからかけるつもりだったから、若干の申し訳なさが先行した。
「俺だ。ルイズの件か」
「うん。――ちょっと疲れてるみたいだね。あとででも大丈夫だけど」
俺の声色から疲労を感じ取ったのか、クレアはそのような提案をしてきた。気を使わせて恐縮だが、俺としてもルイズのその後は気になるところだ。早いうちに様子を聞いておきたい。
「いや、構わない。ちょっと寝不足なだけだ」
「寝不足は万病のもとだからね。私が言うのもおかしいけど、電話が終わったら寝た方がいいよ」
「そうさせてもらうつもりだ。――セレネにも言われたしな」
「セレネちゃん喋ったの」
ふと、クレアが驚いたようにそう尋ねてきた。別に言葉を発したわけではないが、少し言い方が悪かったか。
「いや、喋ったわけじゃない。誤解を招く言い方だったな」
「そう――いつか、自分の言葉で話してくれるといいね」
セレネが自分の言葉で話す。そんなことが今後起きるのだろうか。彼女には大きな秘密があるようで、それが話さない直接の原因かはわからないが、やはり喋れない理由があるのだろう。こちらとしては、自然と話せるようになるといいのだが。
「そうだな――それで、ルイズちゃんの様子はどうだ」
「うん。やっぱり身体に異常はないみたい。一応今日病院に連れていくつもりだけど」
「それが良い。あの唄に何が仕込まれてるか、わかったもんじゃないからな」
あの唄が天使語と何か関係があるのかはわからないが、脳などに作用する音声の可能性も捨てきれない。とにかく病院で精密検査を受けた方が安全だろう。
「昨日の夜のことは、何か言ってたか」
「えっとね、唄を聞いて、呼ばれてるように感じたって言ってたよ。それだけかな」
そうなると、ルイズから新しい証言を得ることは難しそうだ。
「わかった。ありがとう」
しかし、恐らくもう人類進化研究所はゲルマン系の女の子に対する誘拐を辞めるだろう。警察にその存在が露見する可能性は低かったが、やはり慎重にはなるはずだ。それを思うと、下手に大きな動きは見せないことが予想された。
つまり今、セレネをセントレアに預ける絶好の機会ではないのか。人類進化研究所が黙っている今、特高の信用も勝ち取っている。このタイミングなら、セレネを安全に保護施設に移送できるかもしれない。
「すまない、急な話なんだが、今日セレネを預かってもらうことはできるか」
そう尋ねたが、やはりクレアは驚いたように声を上げた。
「良いけど、そんなに急ぎなの」
「今がチャンスなんだ。状況が急転したタイミングがちょうどいい」
「――わかったよ。でもナオト、少し寝てからだよ。こっちには午後に」
ここで本名を出してくるあたり、卑怯な女だ。それに苦笑しつつ、了承して通話を終了する。
「セレネ、聞いてくれ」
俺はテレビを眺めていたセレネに声をかけた。
「今日の午後、お前を保護施設に送り届ける。いいな」
セレネはそれを聞いて、少し寂しそうな顔をしたが、すぐにコクンと頷いた。それに頷き返し、俺は移送の準備を始めることにした。
これでセレネとは一旦お別れだ。彼女の安全を考えると、そう頻繁にセントレアを訪れるのもリスクだろう。いくらセレネがマツリに似ているとはいえ、特別扱いするのも良くない。俺にはマツリがいる。だから代わりなんて要らないはずなんだ。セレネをここまで特別扱いしていたのは、一瞬の気の迷いだ。だからもう、彼女を家に置いておく必要はない――。そう自分に言い聞かせて、ボンドマンに唄のデータを送る準備とセレネを移送する準備を続けた。