第三部 6
セントレア教会付属孤児院。夜の帳が下り、周りは暗闇で満たされていた。施設の外縁に待機していたが、街灯の光も淡く、周囲の状況をあまり正確には捉えることができない。もし怪しい人間が現れたとしても、かなりの至近距離まで接近してこなければ発見することは困難だろう。それほどまでに、セントレアの周りは暗く、見通しが悪かった。
しゃがんだままで、身体の節々が悲鳴を上げつつあるが、この様子だと立っていても誘拐犯に勘付かれることはなさそうだ。俺は音を立てないように立ち上がり、フェンスの影に身を隠す。まるで刑事の張り込みのようだが、ドラマのようにのんびりと過ごせるわけではない。食事なんてもってのほかだし、こんなに周囲が暗闇に包まれているようでは、状況の確認にもかなりの注意力が要求される。少しでも気を抜いたら、いつの間にか保護対象を奪取されているなんてことが起こりかねない。一瞬でも集中力を切らせない、一般の人間が思うより過酷な仕事だ。
腕時計を確認する。午前一時半。張り込みを始めてから三時間と少しが経過した。今のところ不審者の類は見受けられない。時々通行人が歩いているだけで、特段不審なことは起こっていなかった。クレアには何か異常があればすぐに連絡するよう伝えているが、彼女からの連絡もない。今の段階では普段通りの真夜中だと言えるだろう。
確かに、誘拐犯がセントレアを再度訪れる可能性は低くない。他の孤児院の事例を鑑みても、もう一度ここに現れる可能性は高いだろう。ただし、もう一回来ると言っても、それが今夜だという確証はない。だから明日や明後日、遅ければ一週間以上後の可能性もある。今日だけが勝負というわけでもない。この仕事は若干の長丁場が予想された。
俺は子どもたちが眠っているであろう居住スペースの方へ顔を向ける。そこにも何か動きがあるわけではない。クレアに聞いた話だが、この前行方不明になったゲルマン系少女と、連れ去られなかった同じゲルマン系の少女は部屋が少し離れていたという。もしその唄とやらが誘拐に使われた道具ならば、やはり聞こえる範囲が限定されているようだ。確かに夜中大音量でその唄を聞かせれば不審に思われるに違いないだろうし、相手もそれを理解しているようだった。だから聞こえる範囲に限界があったのだ。しかしやはり引っかかるのは、その唄の効力だ。なぜゲルマン系の女の子だけが誘拐できているのか。気持ち悪い唄だと聞いてはいるが、気持ち悪いからといって目標の少女を外までおびき出せるわけではあるまい。そんなことがもしできようものなら、それは最早人心掌握となんら大差ない。唄で人を操る。そんな芸当、現代の技術でできようものか――。
そんなことを考えていると、ふと、何か物音のようなものが聞こえた。侵入者かと思い身を固めるが、そんなことはなかった。物音は歩くような音ではなく、何か規則性を保っているように聞こえる。
そう、まるで――
「唄――」
その今にも消え入りそうな小さな音色は、それこそ音色と表現して良いものか実に悩ましい代物だった。確かに“唄”と表現するのは頷ける。しかし、これを本当に“唄”と呼称していいものか、俺は内心戸惑っていた。
例えるのなら、そう、緊急地震速報。あれに女性のヴォーカルをつけてテンポを落とした感じ。なんとも人の感情をざわつかせる奇妙な唄だった。
女性が唄ってはいるのだが、その言語を読み取ることはできない。日本語でも、英語でもない。俺が今まで聞いたことのないような言葉のニュアンス。その不気味さに全身の皮膚が泡立つようだった。
俺はその不穏な旋律に一瞬身を固めてしまったが、そんなことをしている場合ではない。間違いなく誘拐犯が現れたのだ。俺は頭を振って思考を鎮静化させると、念のため持って来ていたICレコーダーを取り出す。実際はこんなことをするより、さっさと音の発信源に向かうべきなのだろうが、この唄はもしかしたらセレネと関係があるのかもしれない。今は少しでも情報が欲しい。だから俺は、この奇妙な唄を取り敢えず録音しておくことにした。
レコーダーのスイッチを入れて、指向性モードに切り替える。かなり微弱な音量なので、集音ベクトルを定めておかないと、俺の呼吸音が入ってしまいそうだった。レコーダーのモードを切り替え、俺は集音を開始する。レコーダーにイヤホンを突き刺し、リアルタイムで録音状態を確認する。少し聞き取りにくいが、唄自体の録音はできているようだった。しばらく録音を続けていると、唄とは別の物音が聞こえることに気が付く。それと同時に録音を打ち切り、レコーダーをポケットにしまいスピードシックスを取り出す。誘拐犯かもしれない。息を潜めて音が聞こえた方に意識を集中させる。耳をそばだてていると、聞こえてきた音が足音であることに気が付く。しかし相手は、自分の足音を隠そうとはしていない。しかも足音は聞き取れる限り子どものような軽さで、大人の、まさに男という感じではなかった。
ガチャリと、フェンスを掴むような音が響く。その音は断続的に周囲に響き、いずれ大きな着地音が聞こえた。
音の方に、気付かれないよう顔を出す。フェンスを乗り越えたであろう音の主は、十代中盤くらいの女の子に見えた。
それと同時に、ポケットにしまっていたスマートフォンが振動を始めた。俺は少し驚きながらも、電話をかけてきた相手の名前を確認する。
“クレア”
スクリーンにはそう表示されていた。俺はなんとなく用件を悟りながらも、タッチパネルをスライドして通話を開始する。
「どうした」
電話の先で、クレアはとても取り乱しているようだった。呼吸が安定していない。過呼吸になっているのだろう。
「落ち着け、ゆっくりでいい」
「あ、あのね、ルイズちゃんが、ルイズちゃんが、いなくなっちゃって――」
ルイズというのは、もう一人のゲルマン系の女の子のことだ。恐らく俺の目の前にいるのが、ルイズだろう。
「ルイズちゃんと同じ部屋の子が教えてくれて。窓が開いてたから、多分そこからだって」
クレアは向こうで泣いているようだった。無理もない。誘拐の現場に居合わせているようなものなのだ。取り乱しても誰も責められまい。
「大丈夫だ。今、こっちでルイズちゃんを確認した。今から保護する」
そう言ってルイズの方を見やる。しかしそこにはもうルイズの姿はなかった。
「――馬鹿な」
この一瞬でいなくなったというのか。俺は背筋を汗が伝うのを知覚する。まさかもう連れ去られたというのか。
「どうしたの、ルイズちゃんは大丈夫なの」
クレアの叫びが耳を貫く。そんなことはありえない。もしかしたら、音の発信源の方へ走っていったのかもしれない。
「見失った。恐らく唄の発信元に走っていったんだろう。すぐに連れ帰る」
俺は舌打ちした。こんな簡単なことで保護対象を見失うとは――。やはり少し疲れが溜まっていたようだ。しかし、このまま行方不明にさせるわけにはいかない
「またかけ直す。じゃ」
俺は通話を打ち切ると、耳に全意識を集中させた。音が聞こえるのは――あっちか。俺はもう隠れるつもりもなく、全力疾走で音の方へ走っていく。少しづつ音の元へ近づいていることは間違いないが、音自体の大きさは小さいままだ、恐らく音の発信に指向性を持たせているんだろう。一方向限りだが遠くまで音が聞こえるように。そうすることで多少距離があっても、目標に音を届けられる。広範囲に音を聞かせられないのがネックではあろうが。
しばらく闇夜を駆けて、俺は小さな通りに出た。急いで辺りを見回す。音を遠くまで届けられるとは言え、限度があるはずだ。それを考慮すれば、流石にこの近辺に潜んでいるはずだ。
俺の周りには、廃ビルが乱立しているほか、通りの路肩には一台の無個性なバンが停まっていた。そしてバンの近くに、背丈百五十センチくらいの女の子がいることに気が付く。
俺はショルダーホルスターからスピードシックスを取り出しながら、猛ダッシュでバンに駆け寄っていく。バンまでの距離、約二十メートル。しかし俺がバンまでたどり着く前に、ルイズの身体がバンに引き込まれていった。
「その子から手を放せ――」
俺が大声を上げると、それに驚いたようにバンのエンジンが起動する。そのまま間髪入れずに、タイヤが空回りする音が響く。連中、逃げるつもりだ。この暗闇の中で、バンのナンバープレートは流石に確認できない。ここで取り逃がせば、ルイズの奪還は困難になるだろう。
俺は舌打ちして、スピードシックスを構える。照準は、バンの前輪タイヤ部分。スポーツカーでもない限り、エンジンは基本的に前輪部についている。後輪を狙わない理由はそれだ。そして運転手そのものを狙わないわけは、照準が少しでもズレた場合、ルイズに命中してしまう可能性があったから。保護対象を死なせてしまっては本末転倒だ。だから俺はバンの動きを止めるため、前輪のタイヤを狙った。
指先に力を込める。こういう時に躊躇は要らない。人差し指は引き金の遊びをすぐに通り過ぎ、撃鉄がはじかれる。ファイアピンが薬莢の底部を叩き、内部の火薬を炸裂させた。内圧に耐え切れなくなった上部の鉛が、超高速でライフリングで回転を生み出し、バレルから亜音速で飛翔する。銃身から放たれた弾丸は狙いを一切違わず、バンの前輪タイヤを打ち抜いた。
急発進したバンは、途端にタイヤの摩擦を喪失して前進を止めた。打ち抜いたのは左側の前輪だったので、勢いよく発進したバンはそのままの勢力を保ったまま反時計周りに滑り、路肩のガードレールに突っ込んだ。
銃撃の音と、バンがガードレールに衝突した音。その二度の衝撃音が周囲の緊張感をより高みへ引き上げていくようだった。俺はスピードシックスを構えたまま、ボンネットが潰れたバンに近寄っていく。その途中、後部座席の方から男が一人崩れるように這い出て来た。ルイズは無事であろうが、男に抵抗されても面倒だ。俺はすかさず車から出て来た男にスピードシックスを突きつけた。
「動くな。俺が聞いた時だけ話せ。余計な真似をすれば殺す」
男はそれを聞いて、一瞬身を縮こませた後、寝そべったままの体制で両腕を後頭部で組んだ。これでホールド・アップは完了した。
「お前の所属を言え」
「――さ、笹原警備の者だ。民警の」
笹原警備というのは聞いたことがないが、彼の言う通り民警なのだろう。男の服には差笹原警備と刺繍されたワッペンが貼られていた。流石にこれの偽装は考えにくい。民警か。そうなるとこいつらに任務を依頼した依頼主側が黒と見るべきか。
男に銃を向けたままバンの中を覗き込む。後部座席には紙袋を被せられたルイズが寝かされており、運転席のもう一人の男は衝突の衝撃で気絶したようだ。彼はハンドルに頭を打ち付けたのか、額から血を流して気を失っていた。
そして俺は、肝心な質問をすることにした。
「お前たちへ仕事を外注した依頼主は」
「い、出入国在留管理庁、だ」
出入国在留管理庁。この言葉を聞いて、セレネと邂逅した連行任務を思い出す。その時の依頼人も出入国在留管理庁だったが、のちにそれが嘘であることを知った。
つまるところ、こいつら笹原警備に依頼を行ったのは出入国在留管理庁ではなく、人類進化研究所である可能性が高い。ここでまた人類進化研究所が出てくるとは。セレネを捕まえようとしていた連中だ。諦めきれずに孤児院に匿われたと踏んでこういった手段に出た。ありえる話だ。
「依頼内容は」
「し、仕事の前にスピーカーとマニュアルを渡されて、指示通りに設定して再生しろって。それで女の子が来るはずだから、その子を捕まえて来いって、そういう依頼だった」
つまり、こいつらは殆ど情報を開示されていないわけだ。ホールド・アップしたこの男にこれ以上話を聞いても仕方なさそうだ。
「わかった」
俺はそう告げると、男の顔面を思い切り蹴りつけた。二回、三回。何度か蹴りを入れると、男は自然と沈黙した。殺す必要はないが、しばらく黙っていてもらう必要がある。
息を吐いて、バンの後部座席に転がされていたルイズを起こしてやって、紙袋を取る。顔が露になったルイズに、俺は質問する。
「怪我はないか」
ルイズは何度も頷いた。見たところ、擦り傷はありそうだが、軽傷のようだ。
「どうして外へ出た。消灯後はお手洗い以外行っちゃいけないはずだろ」
「……こっちにおいでって」
ルイズは小さく唇を動かしながら紡いだ。
「こっちにいらっしゃいって、唄が聞こえて」
「それは何語でだ」
「わからない。でもわかった。不思議な気持ちになって。行かなきゃって思ったの」
聞いた話では、気持ち悪い唄ということだったし、確かに唄ではあったが、何か意味があるようには聞こえなかった。確かに歌詞はあるのだろうが、言語がわからない。不協和音を想起させる旋律だった気はするが。
俺はクレアにルイズの無事を伝えると同時に、警察を呼んでもらうため電話をかけた。笹原警備に依頼を出したのが人類進化研究所なら、やはり身元詐称を行って依頼を出していたことになる。つまり仕事自体が無効になるわけで、こいつらはただ女の子を誘拐していたということだ。人類進化研究所はうまく逃げ切るような気がするが、笹原警備が誘拐を行っていたという事実は消えない。法的判断がどうなるかは知らないが、とにかく現行犯で逮捕してもらおう。
クレアに電話をかけながら、俺は音の発信を行っていたであろうスピーカーを持ち上げた。しかし先ほどの衝撃でどこかにぶつかったのか、液晶画面が破砕し、再度使えるような状態ではなくなっていた。俺は舌打ちして、ルイズの方を眺める。
彼女は心ここに在らずといった風に、どこか車の外を見つめていた。呼ばれたから、と彼女は言った。しかし俺には、その唄がただの不協和音にしか聞こえない。果たして、俺が耳にしたこの“唄”に、何か意味が隠されているのか。今のところはわからない。
クレアへの連絡を終えてしばらくすると、パトカーのサイレンが聞こえてきた。そういえば、人類進化研究所に潜入した際にもこんな感じだったな、と思い返しながら、俺は壊れたスピーカーを見つめていた。