第三部 3
次の日、俺はある場所へ向かっていた。セレネとの同居生活にも慣れてきたが、いつまでも住まわせておくわけにはいかない。いずれは彼女を手放す必要があった。
東京都世田谷区にある、小さなカトリック系の教会。俺は無宗教だが、ちょっとした用事で、ここを訪れていた。
教会の入り口の木製ドアを開ける。俺の身長の倍くらいある扉だが、それにしては軽い。女性だと若干きついかもしれないが、男の俺だったら、片手でも開けられる。
扉を開けると、整然と長椅子が縦に並べられ、その奥には十字架にかけられたキリスト像が見て取れる。典型的なカトリックの教会だったが、別に礼拝しに来たわけではない。
奥の牧師檀のところに、なにやら作業をする女性がいた。教会で作業しているから修道服に身を包んでいそうだが、別にそういったことはない。そもそも彼女の担当は教会ではないからだ。その女性がまぁ目的の女性なのだが、俺はゆっくりと歩み寄って、声をかける。
「来たぞ」
それだけ告げると、彼女は緩慢な動作で顔を上げた。まだだいぶ若い。俺と同い年だから当然と言えば当然だが。
「あら、いらっしゃいナオ――今はロボ、だったね」
「理解が早くて助かる」
目の前の女性、クレア(実名だ。彼女はオーストリア人とのハーフである)は、立ち上がると、優しげな笑顔を向けてきた。
「いつも連絡しないくせに、ちょっと困るとすぐ頼るとこ、変わらないね」
「お前は相変わらずマイペースだな」
そう言ってお互いに軽く笑い合った。
「ここでもなんだし、奥に行こう。子どもたちも待ってるよ」
教会で子どもたち、というのは過言ではない。ここはカトリックの教会だが、それと同時に孤児院も経営している。俺は何度かここを訪れ、孤児たちと触れ合っていた。
難受法が施行されてから、日本には大量の孤児が生まれた。それはもう指数的な勢いで。その結果国営の孤児院が設置される運びになったのだが、孤児の総数に、残念ながら施設の数は足りなかった。そこで、こうして宗教施設やボランティアが孤児の保護を行っているわけだ。クレアはこの教会が運営している孤児院の職員である。だからカトリック信者でもない。たまにこうして教会の掃除をしているだけ。
「子どもはもう勘弁だ」
セレネの件もあり、年下の人間と関わる機会が増えた。それを冗談めかして言ったわけだが、長い付き合いなので通じたらしい。
「孤児院の子はいい子が多いから、きっとまた好きになるよ」
「子どもが嫌いってわけじゃないさ。ただ最近毎日のように相手にしてるからな」
「子どもというより、妹みたいな感じじゃないの。年も十五くらいだって聞いたよ」
「まぁそうだが、細かいことは気にするな」
そうぶっきらぼうに返すと、またクレアは笑った。
教会の真反対に位置する、小さな施設。小学校を思わせる教室が整備されているが、部屋自体は一つしかない。他は孤児たちの食事スペースや居住スペースに割り当てられている。学校ほど大きくはないが、幼稚園ほどの大きさがあった。
柵で囲われた校庭(と言ってもやはり幼稚園ほどのサイズだ)を、孤児たちが駆け回っている。資金的な理由からか遊具の類は少なかったが、それでも多種多様な人種の孤児たちが遊び回っている。この孤児院では、人種的な敷居はない。みな平等に子どもとして扱われ、社会に独り立ちできるよう最低限の教育を施される。親のいない子どもたち。状況は少し異なるが、親に先立たれた俺も、共感めいたものを禁じ得ない。ここの子どもは無邪気で純粋で、まるで親がいないことに気づいていないようだった。
クレアに連れられて敷地に入ると、遊んでいた子どもたちが一斉に駆け寄ってきた。みな珍しい客に興味津々のようだ。クレアはそんな孤児たちに笑顔を向けると、遊びに戻るよう指示を出す。
「先生、前に来ていた人だよね」
男の子の一人がそうクレアに投げかける。
「そうよ、私のお客様。これからちょっとお話するの。だからみんなは遊んでいらっしゃい」
「先生のカレシなの」
女の子の一人が、そんな爆弾発言をした。しかしクレアは動揺するどころか、柔らかな笑みをたたえて、こう答えた。
「そうだと嬉しいんだけどね、残念ながら違うの。ほら、遊ぶ時間なくなっちゃうよ」
それを聞いて、子どもたちは早く遊ばないといけないと思ったのか、各々が散り散りに戻っていった。クレアはそれを慈愛に満ちたような視線で眺めている。
「余計なこと言うなよ」
別にクレアを女性として意識したことはないが、さっきみたいなことを言われると調子が狂う。
「あら、意外と本気よ」
「冗談きつい」
俺の呆れたような溜息を聞いて、クレアはクスクスと笑った。相変わらず小悪魔的なところも変わっていないようだ。同級生だった高校の頃から、クレアは恐ろしくモテた。まぁ優しげな垂れ目とほんわかした態度が男子を惹きつけたのだろう。だけど彼女は誰とも付き合おうとはしなかった。告白されるたびに断っていたのだが、断った後も優しく接するものだから、男としてはタチが悪い。魔性の女と言っても差し支えないだろう。
クレアに付いていくと、いつも俺が案内される外来用の応接室に通された。応接室の壁には、子どもたちの写真がたくさん飾られている。金銭的な問題から遠足などはあまり行けていないようだが、それでも行事毎に写真を撮っているらしく、笑顔の孤児たちがこちらに向かってピースをしていた。それを見て、なんだがささくれだった心が落ち着いていくのを感じる。
「お待たせ」
クレアが湯呑を二人分持って帰ってきた。それを受け取ると、目の前のテーブルの上に置く。旧知の仲なのだから、この辺りは気にしなくてもいいのに、変なところで律儀だった。
「悪いな、急な話で」
向かい合って座ったクレアは、湯呑に口をつけると、静かに小首を傾げた。
「気にしないでいいよ。ロボには、色々と迷惑かけてるし」
迷惑というのは、俺が孤児院に若干の支援を行っている件だろう。前に孤児院からの個人的な依頼を受けた際の名残で、少しだけ金銭的な支援を行っているのだ(マツリの医療費のこともあるから、大掛かりにはできないが)。
「迷惑だなんて。こちらとしてもあんまり手伝えなくて申し訳ない。本当は、もう少し援助してやりたいんだが」
クレアの背後に飾られた写真を眺めながら呟く。多少の支援しかできていないので、子どもたちに多大な貢献ができているとは言いがたい。本来ならもっといい教材を買ってあげたり、給食を一品増やせるようにしてあげたいのだが。流石にマツリの医療費を削るのは本末転倒なので、仕方ないと言えば仕方ないが。
「十分だよ。ロボのお陰で、孤児院の運営が何とかできているし。感謝してもしきれないよ。子どもたちも喜んでる」
俺は湯呑を持ち上げて、口に寄せる。ほうじ茶を注いでくれたらしく、香ばしい匂いが口いっぱいに広がった。
「それで、電話した件なんだが」
そう言うと、クレアは頷いて、湯呑と共に持ってきていた名簿らしきものを開いた。
「うん。ロボには世話になってるし、こちらとしても歓迎するよ。喋れない女の子なんだっけ。十代半ばくらいなんだよね」
クレアの言葉に、無言で頷く。
俺が孤児院を訪れたのは、他でもない。今、寝床にいるセレネを正式に預かってもらうためだ。流石に十五歳前後の見知らぬ女の子をいつまでも自宅に置いておくわけにはいかない。言葉を喋らないという特性がある以上、電話でセレネの件を伝えて終わらせるわけにはいかず、こうして遥々訪れたわけだ。
「喋らないのは、能動的に喋らない子なのか、それとも何か事情があるの」
「それなんだが、なんだか訳ありみたいでな。言葉は理解できるようだから、お前の指示がわからないってことはないと思う。障害があるようには見えないし、多分自分の意思で喋らないだけだ」
そう言うと、クレアはうーんと唸るように手を顎に当てた。
「確かに訳ありみたいだね。言葉を理解できるようなら良いんだけど、話せないのは――他の子と会話できないってことだからね。筆談とかは」
「できるらしいが、あまりしたがらない。しかも日本語の理解はできるが文字は書けないみたいだ」
「そっか――」
クレアは考え込むように視線を落とした。まぁ、孤児の受け入れをしているとはいえ、セレネは多少問題を抱えている。こちらとしても強要はできない。
クレアはゆっくりと顔を上げると、少し困ったような表情になった。
「ダメか」
「ううん、受け入れ自体は問題ないんだけど、少し別の懸案事項があって」
「別の懸案事項……」
クレアは頷いて、悲しそうな表情になった。
「あのね、最近の話なんだけど、他の孤児院から連絡があって。なんでも、ゲルマン系の女の子、それも十代半ばくらいの子が、いなくなることが多いんだって。実はうちでも、一人帰って来なくって」
心臓が跳ねた。まるで何か死神が迫っているような。ゲルマン系の女の子が、相次いで孤児院から失踪する。それが、セレネと無関係とは思えなかった。
「それはいつ頃からだ」
「二週間前くらいから。うちの子どもたちも怖がってて、話だと誘拐らしいの」
二週間前、セレネの連行依頼を受けた時期だ。ますます、関連性が感じられる。
俺はクレアから目を離すと、思索に沈んだ。
失踪するゲルマン系の少女。狙いすましたような二週間前から。こんな偶然はありえない。恐らく、セレネを探している何者かが、彼女を求めて誘拐を行っているのだろう。でも、何故そこまでセレネにこだわる。彼女は喋らないだけの普通の少女だ。特高からも、人類進化研究所からも狙われる理由がわからない。引っかかるのは、人類進化研究所から盗み出した、A27ファイル。全く理解できなかったあの内容も、どうやらセレネは知っているようだったし、無関係ではないのだろう。なんだ、今、何が起こっている。何故セレネは追われている。彼女に一体、何があると言うんだ。
「ロボ――」
ハッと、俺は我に返った。顔を上げると、そこには心配そうにこちらを覗き込むクレアの姿があった。自分の世界に入り込み過ぎていたようだ。
「いや、なんでもない。そうか、そんなことが」
俺は誤魔化すと、もう一度思考する。
このままセレネを預けることも可能だが、ゲルマン系少女の誘拐が頻発している今、彼女を孤児院に預けることは良策とは言えないだろう。もし預けるにしても、誘拐を行っている連中を何とかしなければ、リスクは高いままだ。
「クレア」
俺はそこで、ある決断をした。
「俺に依頼をしてくれ。内容はゲルマン系少女誘拐犯の確保。これは警察権の発する外注依頼じゃない。俺が個人的に遂行する任務だ」
セレネの秘密を知ることができるチャンスだ。誘拐を行っている輩を尋問すれば、何かしらの情報を吐くかもしれない。そう考えれば、セレネを預ける前に誘拐犯を一掃しておくメリットもある。
クレアはそれを聞いて、ポカンとした表情のまま固まっていた。
「え、でも、報酬は――」
「いらない。こっちとしても少し事情があってな。報酬金はなしで良い」
「で、でも、誘拐は東京都中の孤児院で起こってるのよ。捕まえるのは難しいんじゃ」
「何とかする。だから受けさせてくれ」
クレアは困ったような表情になったが、諦めたように何度も頷いた。
「――私としても、誘拐の恐怖がなくなるなら、異論はないよ」
「ああ、誘拐は俺が止める。だから、データが欲しい。いつ、どこで誘拐が起きたのか。できる限りで良い。情報を集めてくれ」
「うん。他の孤児院に問い合わせてみるね」
クレアは頷くと、立ち上がって部屋から出ていった。おそらく今から電話をかけるのだろう。俺は彼女の背中を見つめながら、今度こそシグナルに辿り着くぞと、内心意気込んでいた。