揺らぎとセイレーン
32作目です。もう六月なんですね。
1
深夜、ふと眼が開いてしまう時がある。よく眠れていた筈なのに、悩みも何もない筈なのに。
タオルケットを顔まで被せて、外界と隔たりを作る。そうでもしないと眠れないからだ。一度目覚めたものを眠りにつかせるのは難しい。目覚めたものが目覚めさせた責任を負わなければならないからだ。
タオルケットの洞窟内は熱っぽくて、顔を出したくなる。けれど、出せない。出したら何か恐ろしいものがいるかもしれない。それに拐われたり食べられたりするかもしれない。
どうしてそんな危惧をするのか。
それは僕が満ち足りているからに他ならない。
鏡を見る。僕がいる。傷ひとつない僕の顔だ。毛先が意地悪く巻いているが、それは決してマイナスではない。
僕は自分の容姿に自信がある。こうして鏡を見ていると、ナルキッソスが自分に恋をしたのもわかる気がする。つまり、僕はナチュラルに呪われているのかもしれない。けれど、それでも幸せなら問題はないだろう。
鏡から僕を消して、僕はリビングに移動する。
朝の四時。母親はまだ眠っているらしい。
父親は数年前に消えた。どうでもいいことだ。
僕はキッチンで冷蔵庫を開けて、中から炭酸飲料や果物、チーズなどを取り出してリュックに詰める。最後に冷凍庫からアイスキャンディーを取り出した。
そのアイスキャンディーを舐めながら僕は家を出た。
アイスキャンディーはよくあるソーダ味。頭が痛くならないように調節しながら食べる。アイスキャンディーを舐めていると夏の訪れを感じる。もう五月も終わる。
仄かな風の吹く住宅街は誰もおらず、まだ静まり返っている。みんな悠長に夢を見ているのだ。夢を見ているということは満ち足りているということなのだ。
住宅街の外れで猫を見つけた。人懐っこい性格で街の人々に可愛がられている猫だ。名前は不定。何故なら、人それぞれ呼ぶ名前が違うからだ。僕は名前ではなく単に「猫」と呼んでいる。自分の所有物でない以上、それに固有の名前を与えるのは道理に反すると思うからだ。
僕が歩いていると、案の定、猫は寄ってきた。毛並みはマルーン。要するに栗色。野良猫だが不潔に見えないのは、誰かが世話をしてやっているからだろう。しかし、誰も飼おうとしないのは何故なのだろう。
猫は僕の足で顔を擦っている。愛らしい仕草だった。僕は猫を手で掴んで持ち上げた。猫は嫌がる素振りなど見せず、悠長に欠伸をした。
僕は猫を左腕で抱え、リュックを下ろし、中から藍色の小瓶を取り出した。まだ薄暗い初夏の四時、その微妙な白さの中でも小瓶は鮮やかに青く、嫋やかに揺らめいている。
僕は小瓶の蓋を開けて、猫の顔に近付ける。極力、僕の顔からは遠ざけながら。猫は興味津々といった様子で小瓶を覗く。すると、すぐに猫は僕の腕から飛び降りて、何処かへゆっくりと確かな歩調で向かっていく。
僕は少し微笑んだ。
猫は僕なんか気にしないように進む。
初夏の早朝、風が吹くと少し冷たい。
僕は熱っぽい身体を風で冷やしながら猫の後を歩いた。
住宅街を抜け、土手を登り、下り、砂利だらけの川原に出た。猫はまだ止まることなく、砂利の上を確信ありげに歩いている。ここへ来るまでに猫は躊躇うことはなかった。僕はリュックからスケッチブックを取り出した。そして、鉛筆で荒い線で猫の後ろ姿を描く。
「いいね」
僕は思わずそう呟いた。満ち足りているのだ。
猫は水際で止まり、少しの間を置いてから飛び込んだ。僕は眼を見開き、意図せず立ち上がった。水際に近寄り、僅かな光を反射する水面を眺めた。そこにはただ何も知らない流れのみがあった。
僕のクロッキーはその後すぐに完成した。いずれはこれが素晴らしい大作の礎になる予定だ。
そう。僕の人生における最初で最後の最大級の作品になる。
猫の姿は記憶している。足掛かりは充分だ。
リュックから小瓶を取り出す。藍色が揺れている。吸い込まれそうになる鮮やかさで、思わず蓋を開けそうになる。
けれど、その手を止めた。
「僕は矛盾している」
そう呟いた。
矛盾している。何もかもが。満ち足りているのに、あらゆるものが矛盾している。そして、その矛盾の根幹にあるのは僕の満ち足りているという傲慢なのかもしれない。
僕は小瓶とスケッチブックをリュックに戻して、顔を覗かせ始めた朝陽を眺めた。眼が潰れないように、神が罰を与えないように控えめに。
僕はひとつだけ決めている。
これだけは揺るがせないと。
今日、今日が僕の最後の日だ。
2
六時になったのでバス停に向かうことにした。
もう完全に朝だ。透明な光が街を侵食している。
会社や学校へ急ぐ人、ランニングをしている人、犬を散歩させている人、まだ命を続けようとしている人々は微生物のようだ。
僕はバス停前のベンチに腰掛けてコンビニで買ったパンを食べることにした。ケチャップやマスタードのかかっているパンだったが、何も味は感じなかった。もしかしたら、人間というものは死を感じた瞬間から感覚を失っていくのかもしれない。
僕の横に貧相な姿のスーツの男が座り、彼はすぐに煙草を吸い始めた。その煙は当然ながら僕を巻き込むのだが、彼は遠慮もなく吸い続けている。まるで、僕を認識していないかのようだった。
僕は何も言わなかった。
煙を吸ったって、僕は今日までの命だ。未来に託すものは何もない。
「おい」
貧相な男が声を出す。
僕は何も言わない。
「そこのガキ。いくつだ?」
男は外見に似合わない威圧的な口調をしていた。
「おい、ガキ。答えろよ」
僕は溜め息を吐いた。人生最後の記憶に残したい存在ではない。
「十四」
僕はそれだけ言った。
「中坊じゃねぇか。通学にしちゃ早いな」
男は禿かけた頭を震わせながら言った。どんな感情をしているのかがさっぱりわからない。
「サボりか? 家出か? どっちだ?」
「あんたには関係ないだろう」
「あぁ? 関係あるね。おれは教師だ。何処の中学か知らねぇが、サボりならまだしも、家出なら通報なり何なりをしなきゃならねぇ」
僕はリュックに手を伸ばした。通報なんてされたら僕の最後の日は台無しになってしまう。
「何も言わねぇなら、まぁ、取り敢えず連絡させてもらう。疑わしきは何とやらってやつさ」
彼はポケットから携帯電話を取り出してボタンを押し始めた。
「少し待って下さい」
「あ?」
男はボタンを押す手を止めた。
「これをどうぞ」
「何だこれは」
僕は小瓶を男に渡した。男は訝しげに小瓶を眺めてから蓋を開けた。鮮やかな藍色が朝の透明を無視して揺れている。
「何だこの香り……」
男は手で扇ぐようにして匂いを嗅いだ。理科系の担当なのだろう。
嗅いだ瞬間、男は眼を見開いて立ち上がった。そして、何かを呻いたと思ったらゾンビのように歩いていった。僕はその姿が滑稽だと思った。小瓶はベンチに残されていた。
「さようなら」
賢明な者は愚か者だ。あの木鐸も何も言わなければ命を続けることが可能だったのに。人は人と関わることで寿命を早めることになる。
バスがやって来た。
僕はバスに乗り込み、目立たない席に落ち着いた。
僕の前には制服の女が座っていた。彼女はイヤホンで音楽を聞いていたが、その音は漏れて周囲にも聞こえていた。僕はその聞き慣れない音楽に耳を傾けながら、大して座り心地の良くないシートに沈んでいった。
それは不安や憂鬱などではなく、深い安心感を伴うものだった。
3
自殺志願者募集サイトは半ば退廃の兆しがあるように思えるが、実際は精力的に活動している。死ぬのに精力的というのも変な話だが間違ってはいない。だが、募集こそしているが実行するグループがどれだけあるのかはわからない。大半はどれだけ自分が不幸なのかという自慢をして満足しているように思える。僕は様々なスレッドを見て回ったが、まともに死にたがっている人は見つからなかった。
あるスレッドで死にたい理由を書き込んだら、誰かが個人チャットへの招待をして来た。僕は誠実な自殺志願者である可能を期待してチャットをすることにした。
「こんばんは、UNKNOWNさん。私はマリーと申します」
「こんばんは。あなたは自殺志願者ですか?」
「いいえ」
僕は首を傾げた。今までの傾向から、冷やかしの連中も「はい」と答えていたが、このマリーという人物は個人チャットまで開いておいて「いいえ」と答えたのだ。
「死ぬ気はないんですね?」
「はい」
僕は溜め息を吐いてチャットを出ようとした。
「提案があります」
マリーはそう言った。
「提案?」
「はい。私は『行商人』です。物質世界から電子世界まで、ありとあらゆる品を用意しています」
「それでその行商人が何の提案を?」
「ある商品を購入していただけないかと」
「どんな?」
「『セイレーン』という薬です。我々は『水母の薬』とか『海へ落ちる薬』と呼んでいますが」
「それで?」
「効果はシンプルです。その薬の芳しい匂いを嗅いだ生物は、迷わず海や川などの自身が完全に水没するのに充分な深さの水がある場所を目指します。そして、消えます」
「ユニークだね」
僕は素直にそう思った。
「でも、それと僕の死にたいという願望を繋げることは不可能だと思うんだけれど。別に僕は薬で死にたいとは思ってないよ」
「存じ上げております」
僕はまた首を傾げた。このマリーが僕の何を知っているのだろう。
「けれど、UNKNOWNこと黛明日衣さん、あなたが所望している死に方は『溺死』ですよね」
「そうだけど、それで、つまり、その薬で死ねと?」
「そうですね。是非、この薬で死んでいただけると、私たちも宣伝として使えるわけです」
「僕の死を利用するってわけか」
「率直に言えばそうですね」
なかなか素直な商売人だ。僕は嫌いじゃない。それに、どうせ死ぬのだから、利用も何もどうでもいい。死後のことは僕の領分ではない。
「構わないけれど、高いんだろう?」
「はい。黛さんの年齢だと手が出し難い金額ですね」
「それじゃ無理だよ」
「いえ、今回はお試し版という形で送付します。効果はそのままですが、量が少なくなっています」
「オーケー、いいよ」
「では、ちょうど二日後に届くようにします」
僕が「住所は?」と訊ねようとした瞬間にマリーはチャットから消えた。僕は半信半疑、いや、寧ろ大部分を疑いながらチャットを閉じた。
その二日後。しっかりと薬は届いた。綿を詰めた小さな箱の中に鮮やかな青い小瓶。僕は手に取って、蓋を開けようとして躊躇った。
もし、本当に効果があって、ここで匂いを嗅いでしまったら、僕は不本意な死を迎えてしまうことになる。死ぬ時までは僕でありたい。
小瓶をデスクに置いて、箱を漁ると、底に説明書が入っていた。
「『セイレーン』をご購入頂き誠にありがとうございます。『セイレーン』は第4類医薬品と分類しています。『セイレーン』は中身の匂いを嗅いだ生物を入水させる効果があります。効果は匂いを知覚した時点で発揮されます。『セイレーン』は蒸留した深海水に粉末状にしたラピスラズリやアイオライトを合成しています。保管方法はなるべく直射日光の当たらない涼しい場所で保管して下さい。もし誤嚥した場合や自分のミスで嗅いだ場合、我々は一切の責任を負いません。自業自得です」
自業自得か。
僕は思わず笑ってしまった。
自殺なんて自業自得だ。エゴの成れの果てだ。
そんなことはしっかりとわかっている。それを理解した上で死のうとしているのだ。理解していない輩に自らを殺すことなんてできない。
「……」
僕は青い液体を手に取り眺める。
不思議な液体だ。揺らめいてはいるが、逆さまにしても液体は下に落ちない。鮮やかさに呑み込まれてしまいそうだ。そんな魔力がこの液体にはある。思わず蓋を開けたくなる、或いは叩き割りたくなるような魔力。
「どうしようかな」
僕は小瓶を宙に投げた。小瓶がくるくると回りながら頂点に達し、落ちてくる。それをノールックでキャッチした。もう少しステージをセットしなければならないという暗示だろうか。
4
バスはのろのろと進んでいる。時刻は七時。朝の渋滞に捕まっているようだ。窓の外の景色は既に見慣れないものとなっている。もう少し乗っていれば海が見えてくるだろう。
前の制服の女は降りたようで、バスの中には虫の羽音のような人の話し声が蔓延している。時々、聞こえてくるアナウンスの声が隠し味だ。
僕はまたシートに沈む。どうしてこんなに眠いのだろう。少し気が逸っているからかもしれない。今からいくらでも眠れるというのに。
もう少ししたらバスを乗り換えよう。
このバスは少し騒がし過ぎる。
「坊や、何処へ行くの?」
僕の横に立っていた中年の太った女が言った。
「何処かへ行きます」
僕はそう言った。
「何処かって……迷子なの?」
この女は僕の年齢をいくつだと思っているのだろうか。
「迷子じゃない」
「あぁ、そうなの」
案外、簡単に引き下がってくれた。さっきの男よりは賢明だろうか。
アナウンスが雑音を縫って聞こえてきた。どうやら、次のバス停が近いようだ。僕はそこで降りようと思った。女が完全に引き下がったかどうか不安だったからだ。現代社会において他人を気遣う輩の方が珍しいだろうが、いないわけではない。用心しておくに越したことはない。
完成間近の料理に蠅の混入は萎えるだろう。
バスが停車し、僕は人を縫うようにして出口へ。予め準備しておいた硬貨を消費した後、バスから降りた。バス停の名前の表示を見たが知らない名前だった。
少し潮の匂いがする。海はかなり近いようだ。
バス停から少し歩くと橋があった。かなり幅の広い橋だ。どうやらもう汽水域であるようで、道理で川幅も広い。
僕は橋を渡って風の吹く方へ歩き始めた。その方に海があると思ったからだ。その考えは合っていたようで、水産関係の建物が増えてきた。僕はそこで働く人や運ばれる魚たちを眺めながら歩いた。
道は行き止まりになった。港の端、船がいくつも並ぶ場所だ。
僕は足が疲れたのでボラードに足を乗せた。こうしていると気障なやつに思われるかもしれない。けれど、問題はない。死ぬ前くらい気障になっていたいと思うからだ。
強がっているのかもしれない。
本当は生きていたいのかもしれない。
そんなふたつが生まれて、死にたいという想いを脅かす。
死ぬ覚悟はあった。いや、今もある。
でも、心臓が浮くような感覚になるのだ。
「ねぇ」
誰かの声がした。僕はすぐに振り返る。
見ると、そこには弱々しい風貌の青年が立っていた。かなり細身で、顔立ちは中性的だ。手には銀色の歪んだ棒のようなものを持っている。
「何ですか?」
僕は少し威圧的な口調で訊ねた。
「それ僕もやってみたいな」
彼はボラードを指差して言った。
「え? えっと、いいですけど」
僕は足を退かす。すぐに青年が足を乗せる。
「あぁ、いいねこれ。こうしてみると、海の向こうまで見渡せるような気がするよ。不思議だね」
彼はそう言った後、足を下ろし、「返すよ」と言った。
「いや、僕のじゃないです」
「うん、知ってるよ」
青年は微笑んだ。眼だけは真顔のままだ。
「君は何をしてるの?」
「何も」
「あ、家出とか?」
「……」
「図星?」
僕はリュックに手を伸ばす。
薬を嗅がせようと思った。この得体の知れない青年が何をするかわからない。何かをされる前に摘み取っておくべきだ。
僕は青年に小瓶を渡した。
「何これ?」
「嗅いでみて下さい」
「嗅ぐ?」彼はそう言いながら蓋を開けて匂いを嗅ぐと「表現が難しいけど、いい香りだ。少し潮の香りに似てるのかな?」と言った。
薬を嗅がせたのに、青年は何も起こらなかったかのように海とは真逆へ歩き出した。
薬の効果が切れたのか?
僕は不思議に思いながら青年を追った。
「あれ? 君、僕と一緒に行くの?」
「行く宛もないですから」
「やっぱ迷子だね。いいよ、行こう。僕も迷子みたいなものだから。先に名乗っとくけど、僕は早会漉射鳥っていうんだ」
「僕は黛、黛明日衣」
「そう。黛くんだね。じゃあ、行こうか黛くん」
僕は早会漉の狭い背中を追い掛けた。
この不思議な青年が僕の人生のラストを飾ってくれると信じて。
5
「どうして迷子になってるの?」
「え?」
僕は早会漉の方を見た。彼は銀色の歪んだ棒、知恵の輪を弄っている。なかなかのスピードで解いているようだ。
「どうしてって言われても……」
ここで本当のことを言ったらどうなるだろう。この変わり者の青年は通報をしたりするのだろうか。
「逆に、早会漉さんは?」
「僕? 僕は自分探しだよ」
彼は微笑んだ。やはり、眼だけはにこりともしない。優しい口調に優しい口元、しかし、眼だけは悪魔のようだ。
「僕は……」言い掛けて僕は口籠る。
「ん?」
「いえ、何でもないです」
「そう」
僕らは今、バスを待っている。
午前八時半を過ぎて漁港は活気のピークを過ぎたようだ。ただひたすら、コンクリートの壁を叩く波の音が聞こえてくるだけだ。
バスは波の音が百二十五回繰り返し、早会漉が二個目の知恵の輪を解いたタイミングでやって来た。乗り込んだが、中に人は疎らで、僕らは最後列に座った。ざっと数えて八人程度だろうか。赤ん坊を連れた女、よれよれのTシャツの若い男、つなぎを着た初老の男、紫色の髪の老婆など、多種多様な人間がいて、様々なタイプの人間を取り揃えた温室のようにも思えた。その中でも僕や早会漉は浮いているように見えた。
バスはゆっくりと動き出し、閑散とした漁港を後にした。僕は小さく欠伸をしてシートに沈み込む。やはり、何故か眠い。せっかちだ。
隣では早会漉がさっきとは違う知恵の輪を解いている。しかし、スピードはかなり遅い。
「……解かないんですか?」
「すぐに終わっちゃうからね」
彼はそう言った。そして、欠伸をした。まるで僕のした欠伸が伝染したかのようだった。
「このバスは何処へ行くんですか?」
「さぁね? 僕も知らない」
「……」
「何処か行きたいところがあるの?」
「え、いや、ないです」
あるにはある。しかし、バスでは行けない。
「そう。あ、ひとつ知ってるとするなら、あと三十分も乗ってれば千尋灘ってところに着く筈だよ」
「千尋灘?」
「うん。流れが速い上に水深があるらしくてね、所謂、自殺の名所ってやつかな。僕も興味はあるよ」
「自殺にですか?」
「いやいや、千尋灘の方だよ」と彼は笑う。
「そ、そうですよね」
「僕は死んでもいいけど、まだ早い気もする」
「え?」
「死ぬのは悪くないよ」
彼はこちらを見て微笑んだ。
僕は敢えて眼は見ないようにした。
何だか見透かされているような気がした。
バスが停車し、スーツの男が乗り込んで、僕らの前に座った。神経質そうな顔をした男で、僕らの方を軽く睨んだようだった。
「海って綺麗だけど、怖いよね」
「そうですね」
「海に入って死ぬってのはどうしてかな」
「え?」
「苦しいだけでしょ? やっぱり、セイレーンみたいな誘惑者がいるのかな。そうでもしないと溺死なんて選択肢は取りたくないよ」
「そうなんですかね」
「……黛くんは、溺死しようとしてた?」
「え?」
僕は動揺した。やはり、見透かされていたのだ。
「君は死に場所探しをしてるんでしょ?」
「えっと……」
「別に恥じることじゃない。僕は否定はしないよ」
ふたりの間に生温い空気が漂った。
「次は……」
アナウンスが次のバス停を伝える。
スーツの男が立ち上がった。
6
スーツの男は前の方に行くと、徐に懐からナイフを取り出して、運転手に突き付けた。良からぬことをしようとしている。
「あー、あー、乗客諸君……」
男がマイクで話し始める。案の定、バスジャックだ。
「大変なことになってる?」
早会漉が悠長な口調で僕に訊ねた。
「だと思います」
僕も人のことを言えないくらいに悠長な返答をした。
「要求は……」
男が何かを言っているが、僕の耳には入らない。
バスはまだ動いている。男は何処かへ行こうとしているようだ。
少し舞台に狂いが現れ始めている。
僕はそう思った。
「目的は何ですか?」
早会漉が手を挙げて訊ねた。
「あ? 今、話したよな?」
「聞いてませんでした」
早会漉がにっこりと微笑んで言った。無意識下で随分と煽ってしまっているが大丈夫だろうか。
「お前、状況わかってないのか?」
「状況? バスがジャックされているという現状ですか?」
「そうだ。今、おれはこのバスをジャックした。それだけで状況が異常であることくらいはわかるよな」
「わかりますよ」
早会漉は言った。
「わからないのは目的です」
「だから、言ったって……あぁ、めんどくせぇな。いいか? よく聞け。おれは……」
僕は眼を閉じた。男の話が途切れ途切れに耳を訪れる。
「あぁ、そうなんですね。わかりました」
早会漉がそう言って座った。
バスの中の緊張が少し解けたようだ。
「早会漉さん……」
「大丈夫だよ」
「……」
「大丈夫。君の終わりの邪魔なんてさせないから」
早会漉は微笑んだ。珍しく眼に光があった。
男は運転手の横に佇んでいる。
乗客は誰も騒いだりしない。当然だろうか。早会漉は欠伸を繰り返している。危機感のない人だ。
バスは無言のまま走り続ける。電光掲示板を見ると、ふたつ先の停車駅が千尋灘だ。何となく、僕はそこをゴールに決めていた。
「何で溺死なの?」
不意に早会漉が訊いてきた。
「えっと、苦しそうだから」
「ふぅん。なるほどね」
バスが本来停車する筈のバス停を通り過ぎた。
僕は欠伸を噛み殺した。
間違ってもバスジャックには殺されたくない。
「ねぇ、質問」
早会漉がまた手を挙げた。途端に乗客が青ざめた顔でこちらを見た。煽って逆上させることを恐れているのだろう。
「……何だ?」
「名前は?」
「名前ぇ?」
「はい。僕は早会漉射鳥です」
「……間宮だ」
「ありがとうございます」
早会漉はそう言って座った。
「何で名前訊いたんですか?」
「え? 気になるじゃん?」
間宮は訝しげにこちらを見詰めていたがすぐにフロントガラスの方を見た。何故なら、パトカーがいたからだ。バス停で止まらない不審なバスがいたら通報もされるだろう。
「クソ! 誰か通報しやがったな?」
乗客が一斉に下を向く。早会漉は下を向かなかった。間宮がこちらへゆっくりと近付いてくる。
「おい、運転手、バスは止めるな。無理にでも走らせろ」
間宮は早会漉の前に立ち、「お前か?」と訊ねた。
「いや?」と早会漉。
「証拠は?」
「僕は通信機器を持っていない」
「じゃあ、お前か?」間宮は僕を睨んだ。
「僕も持ってないです」
僕がそう答えると間宮は舌打ちをして背を向けた。そして、間宮が進んで、ちょうどバスの真ん中辺りに到達した時、早会漉が立ち上がった。彼は素早く静かに移動し、ベルトを間宮の首に掛けた。
「ぐっ、うぇっ」
間宮が変な音を発する。
そして、間宮は苦し紛れの抵抗でナイフを強く握ると、早会漉の左眼を突き刺した。けれど、早会漉は絞めるのを止めない。次第に間宮の力がみるみる内に失われて崩れ落ちた。
「ふぅ」
早会漉はそう言って、ベルトを離した。
「早会漉さん! 大丈夫ですか」
「まぁ、平気だよ」
彼はナイフを抜いて間宮から離れたところに投げた。
「これで安心だろ?」と早会漉。しかし、その背後で間宮が起き上がる。間宮は隠していたナイフを取り出して、早会漉に飛び掛かった。
「早会漉さん!」
僕は知らずの内に投げていた。あの小瓶を。
小瓶はバスの中央で見事に割れ、バス中に優雅な香りが広がった。
途端に間宮もその他の乗客も何かに取り憑かれたかのように海に近い窓の方へ歩き出した。バスも海へとハンドルを切る。
「何これ?」と早会漉が呟く。
「早会漉さん、ありがとうございました」
「ん? いえいえ。あぁ、なるほど、こういう結末か」
アナウンスが「まもなく千尋灘」と伝える。
バスがガードレールを破り、海へ飛び出した。流れが速く深い千尋灘の海へ。ゆっくりとガラスが割れるように。
バスが完全に海中に沈む。乗客が開けた窓から水が流れ込む。
「終着点だね」
「はい。すいません」
「いいよ。楽しかったから」
「そうですか」
「最後にひとつ」
「何ですか?」
「どうして死にたかったの?」
「……満ち足りていたから、ですかね」
「そう。良い理由だね」
彼はそう言うと、開いた窓から出て行った。
残された僕は沈んだシートに座った。
「これでもまだ満ち足りているんだな」
意識が続く限り、僕は泣いていた。
泣いても涙が涸れることはなかった。