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じろうさん

作者: 橋本利一

個人的には近所に引っ越したいと思うくらい愛しております。

 骨休めをしているというのに、シャッターの前には列が伸びている。みんなじろうさんに首ったけ。じろうさんは寸胴鍋を大きな麺棒で掻きまわしている。


 鍋から立ち昇るもうもうな湯気に当てられて、額には大粒の汗を浮かんでいた。鍋には白濁としたスープがなみなみ、トンカチで叩き割った豚の拳骨と、雪のように真っ白な背脂をたっぷりと使って、葱、人参、キャベツの芯、大蒜、生姜をまるごと落とし込む。


 じろうさんの足元には長方形の箱が幾重にも重なっており、粉を被った野太い麺たちが絡み合って眠っている。もう少しで彼らを起こさなければならない。キャベツとモヤシを沸騰したお湯に放つ。シャキッとした歯応えを保つために、じろうさんが決めた時間をキッチンタイマーにセットする。


「シャッター開けてこい」


 じろうさんの指示に従って、錆びついたシャッターの隙間に指先を引っかけて、ぐっと持ち上げた。列は電信柱の向こうまで伸びていた。列が道路にはみ出て、通行の支障にならないように整理をする。口煩く言っても、列を離れる人はいない。人数を数えて店に戻ると、キッチンタイマーが鳴った。平ざるですくいあげて、ボウルに移す。


「よぉーっし、客をいれていいぞ」


 開店時間は十時三十分と決められているが、店をぴったりに開けることは少ない。スープは生き物だから、人間が決めた時間には支配されていないのだという。先頭に並んでいた客から店内のカウンター席に腰かけていく。一時間以上は並んでいた猛者。彼らは口を開くことなく、じろうさんの仕事ぶりに目を光らせている。じろうさんはスープの鍋から離れると、麺が入った箱に被せられているタオルを捲った。


「大きさは?」


「小四つ、大一つ、麺少な目一つです」


 両手でわしわしと掴むと、秤に載せる。手分量という曖昧な感覚には頼らない。自分の腕を過信しないじろうさんは実直なのだ。ポイポイと茹で釜に麺を放り込むと、まな板の前に立つ。


 傍らの衣装ケースに積み込まれているのは豚の群れだ。じろうさんは国産の腕肉とばら肉を混ぜて使っている。タコ糸で縛られたまま納品された豚さんをじろうさん謹製醤油に漬け込む。じろうさんの味に惚れ込んだ人は謹製醤油を求めるが、レシピはマル秘のマル秘、製造元に尋ねても教えてくれない。豚を衣装ケースから引き上げると、タコ糸を解いて、包丁で切り分けていく。


 チャーシューなんて薄っぺらいものではない、ちょっとしたステーキだ。豚を切り終えると、丼を六つ並べる。計量スプーンで魔法の粉(グルタミン酸ナトリウム)を振りかけて、小さなお玉で衣装ケースの底に溜まったタレをすくって、丼にスープのタネを仕込み、ぐつぐつと煮立たせたスープを大きなお玉ですくって、丼に移していく。使うのは背脂の塊を避けて、豚のエキスがたっぷりと染み出した上澄みだけ。


 目が回る忙しさだから、手伝ってあげたくて、両手に指先がうずうずするのに、じろうさんは野菜を茹でて、接客をすること以外はさせてくれない。総帥との約束だからな。それがじろうさんの口癖。


 沸騰して暴れまわる麺にじろうさんは真剣な眼差しを注ぐ。じろうさんは麺を自分で打つ。早朝から厨房に立ち、国産の小麦粉と水を混ぜ合わせて、麺を捏ねる。ぐるぐるとハンドルを回して製麺機で太さと長さを整えて、くっ付かないように小麦粉を塗して、寝かせる。じろうさんに妥協はない、全部自分で拵えるからじろうさんなのだ。


 菜箸で麺を湯の中から摘み上げ、指で潰して茹で具合を確かめる。菜箸をトンと調理台に突いて、左手が平ざるに伸びる。麺上げの合図だ。茹でた野菜を盛ったボウル、粗く刻んだ大蒜、柿色の壺に入った醤油をじろうさんが取りやすい場所にスタンバイ。じろうさんの麺上げは職人技だ。つるりと滑りやすい菜箸を器用に操って、平ざるに載せていく。さっと湯を切って、丼に盛り付けていく。艶やかな黄金色に輝く麺が丼の中でふんわりと湯気を立てると、初めてじろうさんの視線が客に向く。


「ニンニクいれますか?」


 じろうさんがじろうさんたる所以。それはニンニクをいれるかどうか、人類に問いかけることだ。字面だけを追っていては、じろうさんの言葉を理解できない。言葉に秘められた本質を理解しなければ、じろうさんを口にすることはできないのだ。


「ヤサイニンニクアブラカラメ」


「ヤサイマシマシニンニクチョイマシアブラ」


「ニンニクマシマシアブラチョイカラメ」


 魔法の呪文ではない。これは客がじろうさんを自分のじろうさんにする儀式。じろうさんはトングを開閉させて、野菜を盛り付け、刻み大蒜を散らし、醤油を振りかけ、背脂を纏わせる。


 やっと完成したじろうさん。丼はとても熱いけれど、じろうさんの魂が込められたじろうさんを落とすわけにはいかない。責任重大な最後の仕事をじろうさんは任せてくれる。じろうさんを客の手元に届けると、じろうさんは次のお客のための丼を並べる。

 

 じろうさんに初めて出会ったのは大学二年生の冬。付き合っていた彼氏に誘われてじろうさんの黄色い看板をくぐった。どうして寒い冬に長い行列に並ばなきゃいけないのか、デートなのに大量のニンニクを食べなきゃいけないのか、油でベタベタしているし、客は男ばかり。彼氏に対する不信感ばかりがむくむくと膨れ上がっていったのだが、ぱちんと弾け飛ぶ衝撃がじろうさんにはあった。


 丼にそびえるのはモヤシとキャベツの山脈、人を阻むように器一杯に広がった山を掻き分けると、黄金色の太麺が顔を覗かせる。気分はミスタープロスペクター。探掘者のよう。揺らめく湯気には薫香なる小麦と野性味ある大蒜の香りが混ざり合い、食の想像力を掻き立てる。山頂に棚引く雲のような背脂は甘じょっぱくて、口に入れると雪解けを迎え、旨味となる。分厚く切り分けられた豚はぶうぶうと鳴き声が聞こえてきそうなほどジューシーで柔らかく、舌がぺたんと貼り付きたいと懇願する。


「じろうさんは生鮮食品だからな。素早く食べないと不味くなるぞ」


 彼氏の忠告に従って、じろうさんにしゃぶりつく。胃の中にどさどさじろうさんが落ちていく感触が心地よい。けれども、食べている途中から、じろうさんが冷めていくのを感じた。脳汁ぶちまける悦びを与えてくれていた脂たちが急に重たくなっていく。


 豹変。箸がぴたりと止まり、胃はじろうさんを拒否しようとし始める。あの手この手でじろうさんを美味しく食べようとするのだが、もうむりだーと白旗を揚げる。


「残していいよ」


 燦然と輝く黄金色だった麺はスープを吸い込んでぶよぶよになり、生気を失った枯葉のように丼の底に沈んでいる。絶望たる眼がスープの中に落っこちそうになったとき、空からじろうさんの声が聞こえた。


「残してすみません」


「いいよ、また来てな」


 また来ていいのか。じろうさんを残し、じろうさんの職人としてのプライドを傷つけたのに。懐が広すぎるよ、じろうさん。旨かったなという彼氏の言葉なんて耳に入らなかった。


 人間の質が違いすぎる。もう恋人ごっこは終わりにしましょう。ポイ。


 じろうさんは助手を求めていた。野菜の下拵え、食器洗い、接客。時給なんてどうでもよかった。じろうさんがじろうさんを作るのは間近で見られる。憧れの漫画家の仕事場に足を踏み入れた読者のように舞い上がるのを必死に抑えて、助手を務めることになった。

 

 大学を卒業しても、就職活動をせずに、じろうさんの助手を続けている。親にはそんな中途半端でいいのと眉を顰められているが、じろうさんは会社にはいない。今、この時間、この場所にしかいないのだ。見届けるしかない。

 

 閉店時間を過ぎても、列はまだ長く伸びていた。「おしまいにしよっか」とじろうさんが呟いたので、営業中の札を骨休めにひっくり返し、最後尾まで駆けていって、閉店宣告が書かれた看板を渡す。金属の看板を最後尾の人が引き擦っていくのだ。十字架を運んだイエスのようだといつも思う。じろうさんを食べる人は罪深い。じろうさんは罪なき豚さんたちによって支えられているから。

 

 客が全部捌けるのは、閉店時間を二時間も過ぎてからだ。鍋の火を落とし、洗いものを済ませると、じろうさんが丼を二つカウンターに並べた。


「メンスクナメニンニク」


「ありがとうございます」


 カウンターの端で肩を並べて、じろうさんとじろうさんを啜る。まかないでもじろうさんの腕は抜かりなし。やっぱ、美味いなあ。


「麺上げやってみっか?」


 半分ほどじろうさんを食べたときにぽつりとじろうさんが訊ねてきた。麺上げはじろうさんだけに許された儀式。総帥との約束のはずだ。


「営業時間外だったらいいよ」


 言葉は少ない。でも、じろうさんの言葉にはお前もじろうさんにならないか? という問いが含まれている。じろうさんになれば、この場所を離れて、ひとりでじろうさんを作ることになる。手元のじろうさんから、カウンターに座ったじろうさんに視線を移す。


「じろうさん、私はじろうさんが好き」

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― 新着の感想 ―
[良い点]  ラーメン店という卑近な対象を書いたにしては、あまり退屈感を感じさせませんでした。 [気になる点]  じろうさんを食べるということに関して、女性はともかく男性は、職人の化身のようなものとし…
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