Dパート
いつもなら深夜までしていた、とうにやり切っていたゲームや漫画の読書をせず、荷物をリュックに纏めるとすぐに寝付けた。
叔母が買ってきていた朝食を扉の前に置くよりも早く、朝日が昇りきる前に出かけた。
自らの足で外出したのは久しい。
こんなにも日は眩しいのか。思ったより、外は寒い。
浮浪者のような恰好で出かけて、始発のバスに乗り込んだ。
「………………」
彼にとっては、初めての瞬間。
妬みのような妄想を始める。とても自分が中心になってるもの。
叔母の息子達はこうして私学に通っていたんだ。
綺麗な制服を着こなして、勉強に励める場所で過ごしていたんだ。
そのためだと言って、自分から家賃と言ってお金を取り続け、今でもお金を取り立てている。
息子達の行動も、叔母達の行動も許せなくなる。
復讐してやる。
あいつ等が自分に激しく悔いるほどの復讐をしてやると、
目的地に近づくにつれて、武者震い。
目が血走っていく。
プシューーーー
7時11分。
叔母の息子達が通っていた私立学校に近いバス停に到着。そこで彼は降りた。
まだ、人はまばら。
本格的な通勤時刻にはまだ早いだろう。そんなことなど知らず、彼は左に見える大きな建物の、私立学校に足を運んだ。敷地をぐるりと一周回るように歩く姿は、自分がここにいたら、こんなところで過ごせたらと思うところがあった。
そんな中で目にしたのは、
「それじゃあ、俺はバスで」
「いってらっしゃい。ちゃんと帰りに食パンとマーガリン買ってきてよ!」
「はいはい。楽しく君の夕飯を待ってるから」
若い夫婦一緒に出勤する光景。
「でさー、西沢の奴がそん時、調子に乗って突っ込んでー」
「おい!恥ずかしいから止めろよー!」
「敵に撃沈させられてんの!」
生徒達が楽しく話しながら学校に通っていくこと。
最近のゲームの話や勉強や部活のあれこれ、友達の良いとこ悪いとこ。
毒もあるけれど、楽しく話していた。
ずっとずっと、長く1人で。決まった誰かとしか話さないから
「……………」
そういえば、17年近く。
年下と話したのは、叔母さんの息子達だけだったな。
あーいうことを話し合えるんだ。人間。
当たり前に思える事を不思議に思える。
同時にそれを、今日ぶち壊す。平穏なんていう世界の日常を背負ったリュックにある、刃が血に染める。
男は学校を一周し終えてから、再びバス停の近くに戻って来た。
少しずつ、通勤の関係で人が増えてきた。増えすぎても困るから、すでに男はリュックを地面に置いて、その中から封が切られていない新品の包丁を取り出した。
ドクンドクンっと、心臓の鼓動が高鳴る。
この時を、この復讐を、するために生きてきた。そうに違いないと言い聞かす。
絶頂に至る気持ちと、自分で初めて人を殺すという気持ち、まだ薄い罪悪感がこれから膨れ上がり、自分の心臓と体……人を殺した刃が自分を楽に死なせてくれると、
あとはその、タイミング……。
踏み出すという……じゃなくて、踏み外すというキッカケ。来い。来い。来い。来い。
殺しを許す。無関係を、殺せるだけの理由。
プシューーーー
「!」
7時52分。
バスが到着し、学校の生徒達の多くが降りてきた。その中で男が目にやってしまったのは、叔母さんの娘さんが学生当初にしていた頃の髪型、身長、体格、……とても似ている生徒がいたということ。
あの頃は可愛く思えたが、今となっては自分の事を悪く言う。息子以上に煙たがっている。
あの子に決めた。
ダッッ
部屋で封を切らずにこの包丁を振り回していたが、その時の気持ちなど忘れていた。この体で走ることだけを思って、心が強くなる。
「?」
女子はもちろん、降りて行った乗客達だって、何気ないいつもの日々。
そこに走ってくる人がいる。そんなくらいにしか思っていなかった。
男は右手に包丁を抜きつつも、背に隠していて、まだ誰も驚きやしない。男の視線はターゲットの女子、その首だ。首を刺せ!そして、振り回せ、襲え!
「うああああぁぁぁっ!」
雄叫びと共に狙った女子に、その刃を振り下ろす。
何が起こっている?何をしている?
まだ周りは、男の狂気な行動に理解が追いついていない。バス亭で降りたら、刃物を振り回す男と出くわすなんて、人生で考えもしないだろう出来事。
反射的に女子は身を守ろうと体を退いた。しかし、刃物を持つ男の刃は、女子の胸に突き刺さる。
「きゃあああぁぁぁっ」
女子の悲鳴と、現場がそれを理解した時の混乱的な行動。
飛び散る血。冷たい刃物から伝わってくる、命が持っている熱。
人には心があって、罪悪感が生まれる。それ故、殺人などという行為に大抵は至れないものだが、男はそれをやった。人を刺した。そして、続けて、もう一度。女子の左腕を切り付ける。
「ふはぁっ!」
自分の中で成し遂げたという、この歪んだ達成感が、男に絶頂の気分をもたらした。
頭の中が喜び過ぎて真っ白になっていく。
17年の引き籠りから蓄積していたものが、……いや、この人生こそ。この時のため。そうだったんだと、確信してしまうほどの絶頂に。刃は止まらない。切り付けた女子の近くにおり、理解が追いついていない会社員を見つけ、包丁を振るった。
この絶頂のままなら、なんでもできそうな気がした万能感。
周りは人を殺しもできない。だが、俺にはできた。
周りの人と同じことをして、何か意味があるのか?その価値観は間違いではないが、彼のような外道に落ちた者が使うべきことではないだろう。
何人でも、いや、地球上の全ての人間を殺せる。
そんな無敵時間、無敵状態に
パァンッ パァンッ
「あぇ?」
日本がいつから銃社会になったのか?
男の右手に銃弾が2発貫通し、手に持っていた包丁は地面に落ちていった。
わずか1秒ほどの間。男には3時間、いや、1日くらいの時間が流れたかのような時間を体感した。狂気と達成感、悲鳴、……もろもろの、自分が求めていた復讐の結果が、ふっ飛ぶまでに
「いだあああぁぁぁぁっっ」
脳内が爆発するかのように、伝達が起こる。知らない死の恐怖や大合唱しているような痛みの信号。
男もまた地面にのたうち周る。しかし、斬られた女子とは違って、わめき散らすほどのこと。
斬られた女子以外は皆、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。警察や救急車とか、言っている場合ではない。命が大事だとばかりに逃げる。逃げる。そんな時だと言うのに、男に近づいてきたのは
「………………(”虚無”の偽物め)」
レイワーズのムキョだった。彼女が男の狂気を銃撃して止めた。
「死ぬぅぅ、痛いぃっ、右手っ、いったいいぃぃっ!!」
絶頂の後に喪失感、……現実直視へ。いずれ優るだろう罪悪感で自殺できるという、男の目論見を……根本から崩してしまう行為。
最も、彼をこの行為に至らせた遠因を作ったのはムキョである。
そのムキョは馬鹿で偽物の邪念を発する男の方を一瞥してから、男に斬られた女性を抱きかかえた。
「……ひゅーっ………」
「………………(可哀想)」
胸を刺され、呼吸するだけでも苦しくて、藻掻きたいのに体が動かない。
口から、傷から、流れてくる血に恐怖して、瞳に力がなくなっていく。このままでは死んでしまう。ホントに死んでしまう。
ムキョの本当に求めていた、悲しい邪念は。
こんな風に、死を境にしてしまった人間の心。
夢を持ち、意志を持ち、友人を持ち、……それからこれから、色々と得ていくような若い人達が。
どうしようもない理不尽に巻き込まれ、絶望してしまう感情を糧にすること。
”虚無”
は一時にしか現れないから、とても珍しい。
人間は、生きているせいでさ。
「…………………(助ける)」
地面を照らしていた太陽が、雲に隠れていった。
その間、ムキョは生死を彷徨うだろう女子に、助けられる処置を施し、自分の”宿主”とする。
自分が機械仕掛けの姿をしているようにこの女子が失われた部分を、人間だと証明してくる細胞を1つも使わずに、機械で救済する。”宿主”になると同時に、女子の体はその内部で爆発するかのように跳ね上がって、赤く光り輝く。
光が消えた時、女子はゆっくりと起き上がった。
「………………え」
その姿は人間と機械の融合。
そうさせてくれたムキョとも似ているような姿であり、ムキョの体が一部感じられることなのかもしれない。
刺された胸は何も音も気持ちも感じさせない。刺された右腕は人間の腕になっておらず、機械化された腕。血も、熱も、感じ方も、何もない。胸と右腕が自分のものじゃない。
生死の境から助けられたが、その代償を無理矢理、払われたようなもの。どーいう感情でいればいいか、……。
そんな時。ムキョは、彼女の両手を手に取った。
人間の手が一つしかないが、お互いに顔を見つめ合って
「…………………(戦おう)」
「た、戦う……?」
ムキョは言葉を発しなかったが、頭に電波が届いたかのように、ムキョの心情が彼女に伝わった。
そして、そのやり取りがさっさと終わって欲しいと待っていたのと、こんなドラマチックなところだってのに、地面で転がり回って喚めている通り魔に
「いだあああぁぁっ!死ぬぅ、死ぬぅぅっ!」
銃撃で吹っ飛ばされた右手を、
「黙ってなっ!用済みクズ男!!」
バギイィィッ
両手で持ったスノーボードのフルスイングが捉えて、男にさらなる悶絶を与える。
網本粉雪が通り魔に手間取った風に、ここへやってきた。
先ほどから隠せていない殺意のオーラはムキョには分かっていたが、自分の”宿主”を作らせるまで待たせるとは思わなかった。これほどの戦闘狂は、ただの殺しが好きな人間には持てない。強者としての風格がある。
そんなムキョの心情を、粉雪も読み取ってか。
「大丈夫?あなた、生きているんでしょうね?」
粉雪は通り魔に襲われた女子を心配していた事。ムキョの”宿主”になっても、その命が助かるなら、それくらいは譲歩できたこと。
当然であるが、刺された女子からは伊塚院長のような邪悪さが感じられない。もちろん、ここに転がっている、通り魔さんもだ。人とジャネモン、外道、クズと……粉雪はその区別を付けている。
ムキョはそんな粉雪を見ても、機械のように表情が乏しく、戦意を見せてはいない。
そして、喋らず。
「………………(殺すの?)」
「……ちょっと、喋ってくれない?私には、あんたの心が分からないんだけど?」
ムキョの平常にイラついてしまう、粉雪。
とはいえ、女子の姿がムキョと似た感じになったが、動いている事から生きていると分かっていて。
「歩けるなら離れて頂戴。私は、あなたを助けた、そのロボット無口っ子に用があんの」
「え」
「失せろ」
ビリビリと空気が裂けるような粉雪の殺意。
凍えるような身震いがして、女子はムキョを見てから、後ずさる……。そんな反応にムキョは
「………………(大丈夫だよ)」
喋らないからこそ、表情が声を発していた。女子は不安に成りながらもこの場から逃げる。
その光景を見て、粉雪はムキョに
「表情ってさ。声や言葉じゃなく、何かを伝えるものらしいわね」
それは知ってる事でも、こーいう無口を目の前にしてしみじみ思う。喋らなくても、なんとなくムキョの感情が読めてくる粉雪。
意外と顔に出やすいタイプ。
戦闘は避けられない。それはムキョが”宿主”にした女子と同じく、あまりに理不尽なもの。全てに絶望する表情に……なるはずだが、ムキョはなっていない。
少しばかり、喜んでいるような表情。微笑むような顔。
”宿主”を見逃してくれた粉雪の配慮からか。
それとも……。その正体を、粉雪は自ら体現してくれるのだろうか。
「…………………(同類)」
「類友のようで違ってるわよ?」
ムキョが対峙した相手は間違いなく、自分の”虚無”を超えてきた者。
◇ ◇
コンコン
【……網本さーん、いますかねー。お金の用意ができてますか?】
コンコン
【おい!!網本!!出てこい!!借りた金を返してもらおうか!!】
借金取りがドアを蹴とばし、このボロ家の主である網本の名を叫ぶ。
しかし、当の網本は夜逃げを成功させていた。借金取りは逃してしまう。
家族構成は、父親、母親、そして、1人の娘がいた。まだ生まれて2歳という幼さだ。
遊びで付き合い、子供を作った家庭。
貯金などないどころか、父親も母親も職を持たず、金を借りては踏み倒す生活であり、とても子供を育てられる環境ではなかった。
生まれた瞬間に食事を要求し、遊びを要求し、排便をする。幼き子供は制御の効かない怪物と揶揄されてもおかしくない。
そんな怪物を躾と称して、
ジュウウゥゥッ
タバコの火を体に押し付ける。
ビンタや蹴りなどの暴力で、膨れ上がるほどの顔になってしまった。
そんな暴力だけでなく、栄養が取れない事で衰弱している体は両親以外が見れば、保護するほどのもの。
この子供の世界は、2畳とお布団だけ。
【あぅぅ……】
網本粉雪、当時、2歳。
彼女の生まれは、不運と言われるほどの生死の境から始まった。
なんのために生まれたのか、それすら分からないと言える出生。
でも、世界はそれが横行しているものだった。




