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つりいとのさき

作者: 衣良 弛雨

 鮮やかなエメラルドグリーン。

 それを見下ろしながら、男はさざ波の音に耳を傾けていた。

 押しては引いていく小さな波。穏やかでどこか落ち着く静かな音。白い砂浜からは子供の笑い声が上がり、太陽が燦然と輝く青空ではカモメが鳴いている。

 どこまでも平和で美しい情景だ。青とも緑ともつかぬ透き通った海の色、抜けるような空色に、まぶしいまでの白。見事なコントラストは見事で典型的な絵を作り出す。

 見る者の心を奪うであろうその風景に、しかし男はただ眉をひそめただけだった。彼は輝く水面から目をそらし、胸ポケットから取り出したたばこに火をつける。

 ゆっくりと、晴れやかな空に煙が立ち上る。爽やかな空気にはおよそ似合わないものだった。

 しばらく何をすることもなく、男はぼんやりと紫煙を燻らせていたが、不意にポケットを探りだした。

 彼の手に握られていたのは小さな箱だった。男はそれをよく見ようとするように目の前にかざす。随分と古びているが、ジュエリーボックスであることが分かる。表面にはられたビロードが、陽光にあたり、かつての艶の名残を見せる。

 男は表情を変えず、その宝石箱を黙って睨み付けている。手中の無機物を責め立てるような目付きだ。

 突如として、穏やかに凪いでいた潮風が吹き荒れる。

 その強風を受け、男はジュエリーボックスを握る手に力を込めた。軽いものなら簡単に飛ばされそうだった。

 派手な飛沫が上がる。風音が激しい。太陽に翳りがさし、海鳥がけたたましい声を発する。高くなった波に打たれてボードが軋む。海が騒いでいた。

 男は顔をしかめ、手に持った箱を再びポケットの中へとしまい込んだ。

 徐々に風と波がおさまっていく。青空を覆いつつあった灰色の雲はどこかへ流されていき、そう間を明けず、景色は明るさと美しさをと穏やかさを取り戻していった。

 カモメたちが悠々と頭上を飛んでいく。何事もなかったように。

 先程の荒れ様が嘘みたいだ。波にさらわれたらしい人に浮き輪が投げられているのが、唯一あれが幻ではなかったということの証拠だ。浜辺で友人らしき人たちが、難なく戻ってくる人物へ安堵の笑みを向けていた。

 男は唇からたばこを離して息をつく。深い息だ。溜息を隠すように吐き出された煙は、緩やかな風に溶けていった。

 指に挟んだたばこを見て、彼は眉間にしわを刻む。すっかり短くなっていたからだ。

 彼の手が胸ポケットに伸びかけ、しかし彼は首を振って動きを止めた。

 男は目前の海原を睥睨し、まだ火のついたままのたばこを手放した。地面に投げ捨てられたそれは場の麗しさにそぐわない。

 自らが打ち捨てたそれを、景色ごと蹂躙するかのように乱暴に踏みにじり、最後に鼻を鳴らして、男は平穏な海に背を向けた。





 パスタをフォークに巻きつけながら、男はどこか釈然としない表情を浮かべている。

 美しい海に面した、これまた建物とその並びの美しさや時の流れを忘れさせるような穏やかさで謳われる小さな町の一画だ。周りと同じような白亜の壁に、暖かな色合いの瓦をふかれた小さなカフェに男はいた。

 彼の前には食欲をそそるパスタが置かれていた。昼食の真っただ中である。

 柔らかなそよ風が吹き抜けるテラス。男の他に客の姿がないというのに、そこからの景色の一望を独占できることに喜ぶでもなく、互いに引き立て合う浜辺と町並みの絶妙な美しさに酔いしれるでもなく、彼は黙々と食事を口に運んでいた。時折手すりの向こうに視線を投げているが、そのたびに目を細めているので、風景を楽しんでいるのではなく降り注ぐ陽光を鬱陶しく思っているだけだろう。

 男のすくい上げたフォークには、パスタと共に海老が絡まっていた。彼が注文したのは魚介類のパスタだった。新鮮な魚が入っているだろうと期待したのだが、出てきたのは大量の海老と貝とスパゲッティが盛られたものだった。店側は何一つ偽っていないのだが、予想を裏切られた男は微妙な心境にいる。

 どうもこの町には、魚を用いた料理が少ないようだ。あれだけ綺麗な海がすぐそこにあるのだ、魚くらいいくらでも獲れそうなのに。不思議なこともあるものである。代わりに海老や貝類はたくさんあるようで、町中を歩いていてもよく見かける。現に男の昼食にも惜しげもなく使われている。あの値段で大丈夫なのかと心配するくらいだ。

 食事に一区切りついたところで、男は顔を上げた。彼の目に、憮然とした表情の通行人が映る。

 先日男がもえさしを放棄した岬の方から歩いてくる彼らの手には、折れた釣竿が握られていた。頑丈そうな、しかも新品に見受けられるものが、無惨に壊れている。

 都会の雰囲気を漂わせて何事かを愚痴りあう彼らからそっと目線をずらす。道の脇に掲示板が設置されていた。

 この町の地図、近日の行事の告知、それらの横に注意書きが貼られている。その中でもひと際目立つように書かれた文章を見て、男は顎に指を添える。ここを観光するにあたっての注意点にはこうあった、近辺の海での魚釣りを禁じる、と。

 男はもう一度、折れた竿を片手に嘆く旅行者を一瞥する。その視線の意味するところを悟ってか、別の通行人が声をかけてきた。

「気になるかね」

 苦笑を交えるその人は、色の残っていない髪をした老人だった。

 男は頷き、海が荒れている訳でもないのに竿が容易く折れたことと、釣りが禁止されていることの理由が気にかかると答えた。

 すると老人は、先程強い風が吹かなかったかと尋ねてきた。質問の意図が分からなかったが、料理を待っている間、普段の穏やかさとはかけ離れた風が駆け抜けていったのは確かだったので、男は素直に答えた。

 彼の返答に老人は頷き、そうだろうなと低く呟いた。

「まず、釣竿が折れたことについてだが――、あやつらは、人魚を怒らせたのだ」

 老人の言葉に、男は目を丸くする。おとぎばなしの中でしか出てこないような名称を、まさかこんなところで耳にするとは思わなかった。

 瞬時に立ち直って非科学的な話だとあしらうと、しかし老人は気を悪くするでもなく男に同意した。

「もし良かったら、同席しても?」

 男は構わないと返す。

「確かに非科学的な話に聞こえるだろう。だが事実だ。本当のことなのだからしょうがない。あやつらは、人魚の怒りを買い、それで釣竿を折られたのだ」

 最近の若者は注意されたことも守れんのかと、先程の旅行者を詰りながら席についた老人は、運ばれてきた水に口を付けると、真面目な顔をしてそう吐き出した。

 人魚の存在を一蹴する男だが、老人は憂いを帯びた微笑を浮かべるだけだった。

「君が人魚はいないと思っていようがいまいが、この際それはおいといてくれないか。世の中の大勢は君と同じように、科学的根拠がないだとか夢物語だとかと言うだろう。でも今だけはそういった理屈にとらわれないで、儂の話を聞いてくれんかのう」

 男は眉をひそめたが、すぐに黙って先を促した。

 老人は満足そうに頷き、続ける。

「これは昔の話なんだが――」

 そう切り出されたのは、この町に語り継がれるとある話だった。





 もう何十年も前の話だ。

 さっきの不躾な連中が来た方にあるのは『人魚の岬』と言ってな。昔は『釣り人の岬』とも呼ばれるくらい、漁師の集まるところだった。あの岬は魚が集まりやすくて釣りに向いていたからの。

 あるとき、一人の若者が岬の近くにボートを回して釣りをしていた。やがて手応えを感じ、これは大物に違いないと意気込んだ。

 だが実際に釣り上がったのは魚ではなかった。人間だったのだ。それも女性の。

 若者はひどく驚き、そして女性のこの世のものとは思えぬ美貌に見惚れたが、しばらくすると自分の垂らした針が女性の肌に深く食い込んでいるのに気が付いた。

 若者は何度も詫び、治療するために一緒に陸に戻ろうと提案したが、女性はそれを断った。ではせめて応急処置をと、船にあがってきてくれないかと尋ねたが、女性はこれも頑なに拒んだ。しかしこのままではいけないと、考えあぐねた若者は、腕を伸ばして水中の女性の手当てをしたという。

 二人はそれからしばし語り合った。若者は自分の見てきたものについて語り、女性はこの辺りについて海に慣れていない若者に様々なことを話した。

 女性の容貌と聡明さに惹かれた若者は女性の名前や住所などを聞いたが、相手はどの質問にも首を振るばかりで答えてはくれなかった。見舞うこともできないのかと残念がる若者に何を思ったか、女性は、いつも岬の周辺で泳いでいると教えた。傷の様子を見たいから明日もここで会えないかという若者の問いに、女性ははじめて頷いた。そのことに喜び、若者は必ず来ると告げて帰っていった。

 そして、その日から若者と女性の逢瀬が始まった。傷が癒えるまで様子を見るという名目だったが、女性の怪我が完治しても、それは一日たりとも欠かさず続けられた。

 若者がいつ来ても、女性は海の中にいた。肩より下を決して水面から上に出すことはなかった。それに対して若者が疑念を抱いたかどうかは分からない。しかし若者は無理強いすることなく、女性に合わせ、水中にいても分かるようにと、釣糸を垂らすことで己の来訪を知らせたと聞く。海の女性はそれを見て水面に顔を出し、若者との仲を深めていった。

 二人の間の愛は大層深かったのではないかと考えられるが、毎日飽くことなく数ヶ月に渡って重ねられた逢瀬は、しかしあるときぱたりと途絶えてしまう。若者が故郷に帰っていったのだ。若者は元々この町の住人ではなく、ただ長期の休暇を楽しむために訪れていただけに過ぎんからな。

 それからだ、この辺りで釣りをすると海が荒れるようになったのは。

 釣糸を垂らせば穏やかだった波は突如として荒れ、風は一変して凶暴になり、天気は悪くなる。空では海鳥が騒ぎ、水中の魚たちは狂ったように逃げ惑う。海が怒るのだ。

 ここの住人は、それが人魚のせいだと考えている。人魚が怒ると海が荒れるのだと。あの海の女性は人魚で、あの時以来ずっと若者のことを待ち続けているのだと。だから他の人が逢瀬の合図である釣糸を垂らすと、若者でないことに絶望し、怒り狂うのだと、そう伝えられている。

 女性の怒りは恐ろしいものだ。それが海を操る人魚のものであるならなおさらだろう。荒れる海に立ち向かって、それでも尚釣りをしようとした者は例外なく怪我を負った。中には死にかけた者もいる。海水に足を掴まれて引き込まれたと証言する者もおれば、乗っていた船が前触れなく発生した渦に呑まれたという人もいる。

 だから、それ以降、この町では釣りが禁止されているのだ。この町で最も危険なことだからな。





「――以上が、人魚がどうのという話の説明と、釣りが禁止されていることへの説明だ。ご満足頂けたかね」

 老人は乾いた唇を水で湿らせている。

 まず説明してくれたことへの謝辞を述べ、男は老人に疑問を投げかけた。その女性は本当に人魚なのかと。ただの泳ぎが得意な人間ではなかったのか、と。聞く限りでは、多少怪しいところもあるが海の中というのに固執しているだけの人間にもとれるのではないか、と。

「どうだろうな。儂も人魚、人魚と言っているが本当のことは誰にも分らんよ」

 老人は遠い目をする。

「ただ、当時、毎朝早くに船に乗って出ていく若者が、夕方になると竿と空のバケツを持って、それでも頬を染めて恍惚とした表情で戻って来るのを住民が訝しがってな。一匹も釣れていないのに何でそんなに嬉しそうなのかと尋ねると、若者はこう答えたそうだ。海の中に、女神と見紛うばかりに美しい女性がいるのだと。自分は一匹の魚を釣り上げるより彼女と話せることの方が幸せなのだ、と」

 この町にそんな女はいなかったのか、と重ねて問う男に、老人は手を振った。

「いなかったと聞く。美人はおっても、そんなこの世のものではないような美貌の持ち主なんていなかったし、若者の話から髪色や目の色の特徴を調べても合致する人はいなかったらしいぞ。この辺りには他に町らしい町もないし、島もない。人間が住んでいるところといえば当時はここくらいしかなかったから、ここの住民でなかったら本当に人魚であると考えるしかないだろう」

 それに、と老人は続ける。

「その若者と海の女性の話以前にも、この町には人魚が出るという噂がまことしやかに囁かれておってな。曰く、魚のものとは思えない綺麗な色をした大きな尾びれを見かけたとか、酷く顔立ちの整った女性が泳いでいるのを見たとか、その女性の腕はところどころ鱗に覆われていたとか、そういう話だ。美しい女性が水を思うままに操っているのを見た、という話もあったかの。難破したところを人魚に助けられたという奴もおったそうだよ」

 男性はなるほど、と頷き、それで、と口を開いた。ポケットの中に忍び込ませた手で、あのジュエリーボックスを握りしめながら。

「なんじゃと? その後若者と女性はどうなったのか? どうもなっておらんよ。若者は突如として姿を消して、それから一度も姿を見せたことはない。旅先の一時の恋などすぐに忘れ去ったのかもしれんな」

 老人は深い溜息を零した。

「儂らは、人魚は若者を待っているのだと聞いた。だが、本当は違うのかもしれない。若者と海の女性との間でどのような話がなされたかは分からない。若者がいずれこの地を離れなければならない身であるということを相手に話したかもしれないし、そうでないかもしれん。あるいは何か約束事をしたのか。今となっては本当のことは誰にも分らんよ。昔の話だからな、その若者も儂より歳をくった老人になっているかもしれないし、もう死んで灰になっているのかもしれん。はっきりとしているのは、女性はずっと独りで待たされていて、怒っているということだけだ」

 若者が生きていれば荒れる海を鎮められたかもしれないのにな、という呟きが老人の口から漏れる。網漁以外が禁止されて収入は減るし、自ら警告を無視しておいて招いた結果なのに馬鹿な観光者がここの海は危ないなどと言いふらすから景気が悪くなるという愚痴が続いた。竿が折れる程度で済んだだけ幸運だと思え、と。

「ああ……、いや、すまんな。こんな話今さらしたところで何も変わらないのだがな。何も解決しない」

 ところで、と声をかけられ、男は眉を動かした。

「お前さん、この町には何をしに? 見たところ観光客でもなさそうだ。儂らの自慢の海や町並みを堪能しているようには見えないし、釣りが好きな風貌にも見えんな」

 男は否定しない。ただ黙って聞いているだけだ。

「それとも、もしかして、プロポーズするために来たのかね? 一生一大の告白の場にここを選んでくれるのは嬉しいのだが、残念ながらこの町ではそれも禁止されている。いや、町、というより浜辺で、かな」

 何故かと視線で問われた老人は、掲示板を指さす。

「あの注意書きが見えるか? 砂浜でのプロポーズはおすすめできないと書いてあるだろう。外面的には、指輪を砂の中に落として失くす人が続出したから、となっているが。本当のところな、海の前で男女が仲睦まじく契りを交わすと、海が荒れるのだよ。釣糸を垂らしたときよりかは酷くないが。目の前でそんなことされたら、若者を待ち続ける人魚は我慢ならないのだろうよ。嫉妬とは恐ろしいものだのう」

 ポケットの中に隠された男の手に力が入った。だが表情を一切変えない彼に、老人は笑みを漏らした。

「まあ、お前さんにはそんな心配いらんだろうがね。で、この町には何をしに? 話の駄賃にくらい聞かせてくれないかな」

 老人に請われ、男は目線を動かした。彼は鋭い眼光で、どこか呆れたように海を見やり、顔をしかめてふうと溜息を吐き出す。

 知人に頼まれたのだと。自分ではもうできないことだから、代わりにお前がやってくれと、頼まれたのだ、という旨の言葉を、男は実に苦々しい顔で答えた。

 そんな彼に対し、老人は楽しげな声を上げた。

「ここまで嫌そうな顔をして頼まれごとを引き受ける奴もそうおらんだろうな!」

 そうだろうな、という肯定が老人に返ってくる。

「まあ、喜べ。嫌々来たのだろうが、いい話が聞けただろう? 今やあの若者と人魚の話を知る奴はこの町にもほとんど残っていない。儂が往生したらお前さんが最後の一人になるかもしれんな。精々頑張って語り継いでくれ」

 老人は男の肩を叩き、席を立った。楽しい時間をありがとうと、そのしわがれた声は言う。男も軽く手を上げて感謝を口に出した。

 そして小さなカフェのテラスには、再び静寂が戻ってくる。男以外の客はいない。通りを歩く人もまばらだ。聞こえるのは遠くで波が砕ける音と、カモメの鳴き声くらいか。

 男は周囲に誰もいないのを確認して、ポケットの中身を取り出す。風が若干増すが、気にするほどではなかった。

 先日は責め立てる目を向けていたそれに、彼は複雑な感情を浮かべた視線を向ける。顎に指が添えられ、眉がひそめられる。空いた手で箱をトントンと叩き、彼はさらに眉根の皺を深くした。





 ――最後のお願いだ、聞いてくれないか。

 震える腕を持ち上げ、切れ切れの息の中でそう語る。

 ――この箱の中身をある女性に渡してほしい。

 ――次に糸を垂らすときには、釣糸の先に指輪をつけて、君にプレゼントしよう。

 ――そう約束したのだ。彼女はとても楽しみにしていた。だが長い間私はあの町に出向くことができず、こうして先延ばしにしてきた。

 ――これはその指輪だ。これをあの女性に届けてくれないか。とても大事な約束なのだ。だが私にはもう果たせそうにないから、だから、お前に頼みたい。

 ――昔のことだと言って随分前に話したあの女性に。海で泳ぐのが得意な、とても美しい不思議なあの女性のことだ。すぐに分かるだろう。今でもあそこで私を待っているかもしれない……。

 ――頼んだぞ……、必ず、彼女に届けてくれ……。





 男は再び、エメラルドグリーンの海を見下ろしていた。

 先日もえさしを捨てた、『釣り人の岬』にまた足を向けたのだ。その名前にそぐわず、釣りが禁止された今となっては釣り人の姿は一つも確認できないが。

 男を胸ポケットからたばこを取り出し、火をつける。ゆっくりと煙を吸い込みながら、彼は光を反射する水面をただ黙って眺める。相変わらず景色に心を動かすことはないようだが、前回のように顔を背けることはなく、だが眼差しに呆れと憐憫のような感情を滲ませて。

 やがて男は、ポケットに入れてあったものを取り出した。あのジュエリーボックスだ。

 風が表情を変える。波の動きは激しくなり、陽射しは弱くなる。カモメが鋭い鳴き声を上げ始める。

 もう慣れたもので、男は動じることなく、ジュエリーボックスの蓋を開けた。

 その中に大切に保管されてあったのは、銀色の指輪だった。曲線美の流麗で繊細なデザイン。中央に嵌め込まれていたのは、目前の海のような鮮やかなエメラルドグリーンの宝石と、なだらかに続く砂浜と同じ色をした綺麗な白の宝石だった。よく見ると、指輪の裏側には拙い文字が刻まれてあった。男はたばこをふかす。

 その指輪と、持ってきた釣竿を使い、男は準備を進めた。竿から垂れた釣糸の先には、針金を付けず、代わりに指輪を結び付ける。

 そうして出来上がった竿を構え、男は躊躇うことなく糸の先を水中へ放り込んだ。弧を描いて飛んで行った指輪は一瞬きらりと輝き、小さな音を立てて海に吸い込まれていった。

 荒れ始めていた海が騒ぎだす。気が付けばカモメの姿は曇り空にはなく、風は暴風となりつつあった。高くなった波は男に襲い掛かろうと岬へと押し寄せる。

 だがその変化も、突如として止まる。男の腕に伝わった微かな振動の後、怒りをあらわにした海の凶暴性は消えていった。

 彼は眉根を寄せ、水の底へ沈んでいた糸を手繰り寄せた。その先を見て、彼の表情は変わる。釣糸の先に指輪はついていなかった。途中で糸が千切れた形跡はない。

 指輪を投げ入れた辺りを見つめながら、男は呆れを隠すことなく何事かを呟く。ゆるやかな弧を描いた彼の唇の隙間から大きく煙が吐き出された。

 男はしばらくその場に佇んでいたが、やがてもう一度深く息を吐く。すっかり短くなったたばこをこの前と同じように捨てようとし――、直前で思いとどまり、彼は携帯用の灰皿にもえさしをしまい込んだ。

 最後に美しい海へ一瞥を投げかけ、男は踵を返した。

 釣り人の岬で、ある若者が恋をした話を。釣り上げた愛しい愛しいという気持ちの先に何があったのかを。若者が女性と何を約束して、それからどうなったのか。

その話の顛末を全て知るただ一人の男は、こうして去っていった。





 後に残ったのは、いつもと変わらない穏やかな光景。

 泡を残して静かな音を立て、押しては引いていく小さな波。透き通った色の水は輝いている。まぶしいまでの白い砂浜を子供たちが走っていく。晴れやかな空では、暖かな光を浴びながらカモメたちがのんびりと旋回していた。その間を穏やかな潮風が駆け抜けていく。

 どこまでも平和で美しい情景だ。

 その中にある、人気のない岬。その水際に、一握りの灰が落ちていた。

 それは何度も波に洗われ、やがて綺麗な海の中へ溶けていった。





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