Film.002 トランスマイグレーション
世の中いったいいつなんどき何が起きるかわからない。
ここ数日にめまぐるしく起こり変化した状況のせいでそう思うようになった。
彼は都内にある二流と三流のあいだくらいな大学の生徒で年は20丁度だった。専攻は理工学部。
彼女はいないし、そもそも出来たこともなかった。
ただ友達は多くはなくとも普通にいたしコミュ障というわけではなかった。
だから彼の印象を周囲に訊いても、特別変わった回答が返ってくることはなかっただろう。
みんなに優しいだとか、いい奴だとか。
悪い意見があまり出ない、というのが特筆すべき事柄かもしれないが……ようするに平凡な善人だということだ。
オタクな友人の影響を少し受けていたり、すこしばかり邪気眼的な思考をもっていたりすることを考慮すれば普通とはいえないかもしれないが。
とにかくそんな人物像であるところの彼だが、気付けば死んでいた。
死んだ原因がなんだったかは憶えていなかった。
死んだ時の記憶が混濁し、思い出そうとしても不鮮明な欠片を無理やりつなぎ合わせたような要領を得ないものしか残っていなかったからだ。
しかしそんな不明瞭な記憶から推測するに、彼は特別すばらしい死に方をした訳でもなさそうだった。
少なくともトラックに轢かれそうになった子供を助けて死んだとか、暴漢に襲われている可愛い女子高生をかばって殺されたとかでは絶対になかった。
彼もせっかく死ぬのならば、そんなふうに劇的で、救った人に感謝される死に方がしたかったのだが。
しかしそれも今更な話だなと、彼はそれ以上自身の死因についてはあまりあれこれ考えなかった。
そして話はここからが重要だった。
彼は生きかえった。
前世の記憶を引き継いでの輪廻転生だ。
普通なら妄言もいいところで、現実との区別がついてない可哀想な子という評価をくだされるだろう。
しかしそれはれっきとした事実だった。
夢だとしても、ここまでリアルに物体の感触を感じたり身体の感覚があれば、主体的に見ればそれは現実となんら変わらないと彼は思っていた。
そして転生という事象を受け入れた彼は、ここが異世界だと信じていた。
彼が転生して数日。
その間彼はずっと同じ部屋にいたが、そこに電子機器の類は一切なかったし、彼が包まれている麻布はお世辞にも肌触りがいいとは言えず、現代日本で慣れ親しんだ毛布の心地よさとはかけ離れていた。
発展途上国ならありえるのかもと思ったが、時折見かける大人達の顔立ちや服装や部屋の内装は彼の知る途上国とは似ても似つかない。
例えるなら中世ヨーロッパのようだと彼は思った。
ただしこればかりは彼の願望のようなものだった。
中世ヨーロッパの文明水準など、理系で世界史嫌いだった彼の知識の中にはなかった。
ただ彼には異世界ならば中世ヨーロッパレベルの文明水準だという先入観があった。
結論、彼の乏しい知識ではここの文明水準は日本より低く、西洋の文明体系に近いということくらいしか分からなかった。
しかし転生のような非科学的な現象をげんに体験しているわけで、ならば異世界という可能性もあると思った。
というより転生と言えば異世界だ、と彼は思っている。
だから彼は、魔法があるのかなとか、ファンタジー種族がいるのかなとか、まだみぬ世界に想像を膨らませ期待していた。
しかし彼の期待は無慈悲にも裏切られた。
転生してから数日後のある日。
彼は母親に抱えられ馬車にのっていた。
彼が転生した直後は笑顔のたえなかった彼の母親は、日ごとに元気をなくしているようで、今もまばゆいほどに輝いていたプラチナブロンドは光を失い、明るかった瞳はうつろで生気が感じられなくなっていた。
彼にはその変化の理由がわからなかった。
彼は周りがなにを言っているのか、それどころかどこの言語かも理解できなかったからだ。
だから彼は母親の様子に疑問はあったがどうするすべもなく、具体的な危機感があるわけでもなく、馬車に乗せられていても特にイヤな予感はわいてこなかった。
馬車はながらく揺れつづけた。
揺れはそれまで経験したことがないくらいにひどく、彼は辟易していた。
そしてようやく揺れが収まりホッと安堵する彼。
すると彼は母親に抱えられ大自然に連れ出された。
母親は巨大な樹木の根元に彼を置いた。
その時になって初めて、彼は不穏な雰囲気を感じとった。
母親は最後に1度、彼を強く抱きしめると、やがて彼を置いて馬車へと去っていった。
そして2度と誰も戻ってこなかった。
最初は意味がわからなかった。
時間が経ち、徐々に現実を受け入れざるを得ない状況になり、彼は渋々認めた。
自分は捨てられたのだと。
彼は最初、ブチ切れたていた。
捨てられた理不尽さや、この状況をどうしようもできない自身の体の不甲斐なさに、母親に、憤りを感じていた。
しかしそれらに対する怒りを覚えたのもほんの少しの間だけで、彼はすぐに最も切迫した問題について考えなければならなくなった。
このままでは、どうしようもなく確実に、死ぬ。
転生からたった数日、つまり生後数日の赤子である彼が、1人で森の中にいる状態は死以外のなにものでもなかった。
2度も立て続けに死ぬなど堪ったものではない。
断片的な記憶だが死に伴う苦痛ど恐怖を知っているのだから尚更だ。
しかも異世界の可能性を秘めた世界で、その真偽を確かめるまもなくお陀仏などシャレにならない。
頼むから誰か来てくれと、彼は心からそう願い必死に泣き声をあげた。
もし人がいたならば泣き声に気付き助けてくれるだろうとそう思ったからだ。
彼はそれこそ死にものぐるいに泣きつづけ、必死に泣き過ぎて疲れて眠った。
命の危険がある状況でも、赤子の身体におそいかかる睡魔には勝てなかった。
◆
軽い振動が身体に伝わり眠りから引き起こされた。
その揺れは馬車なんかとは違う、心地良いものだった。
どれほど眠っていたのかはわからなかった。
だがそう短くない時間が経ったことをのどの渇きと空腹が教えてくれた。
ボヤけて明瞭さに欠ける視界が捕らえたのは1人の女性だった。
女性は赤茶色のショートヘアと燃えるような茜色の瞳。飄々とした雰囲気があり明るく元気なお転婆っぽいキツネ耳の獣人種だった。
彼は歓喜した。
なにせ現実に獣人と相見えたのだ。
それはつまりここが異世界であることの証明でもあり、また彼の妄想の具現化でもあった。
それにこのシチュエーション。
彼にはこのキツネっ娘が、捨てられた可哀想な自分を拾ってくれた聖母のように感じられた。
彼は嬉しさのあまりきゃっきゃと笑い声をあげていた。
そしてその笑い声で彼が起きたと気付いたのか、聖母ことリネラ リーバスタビオが彼の顔を覗き込む。
「この子起きたよシグレ! 笑ってて超かっわいい〜!」
リネラが嬉々としてシグレナリア フォー、通称シグレに彼が起きたことを伝え、リネラの身長の半分くらいしかないシグレナリアにもよく見えるよう、彼の包まれた麻布を下げる。
彼にはなにを言っているかまったく理解不能な言語だったが、彼はその英語の発音に似た謎言語をある程度聞きなれていた。
彼の母親達が使っていたのと同じ言語だったからだ。
とにかくシグレナリアは内心興奮しまくりで、しかし表情にはその態度を出そうとせず興味なさげにしながら彼を覗き込んだ。
麻布に包まれまわりの様子が覗けない彼の視界にシグレナリアが入りこむ。
その瞬間、彼はまたも歓喜した。
一瞬で森艶種の特徴であるとがった耳を目ざとくみつけたからだ。
彼の興奮は最高潮に達していた。
なにせファンタジー2大種族、それも少女と幼女同時に出逢えたのだ。
夢にまで見たツーショット。ケモミミのお姉さんとエルフ幼女のコンビは彼にとってこれ以上ない完璧なモノだった。
彼の心はどうすれば2人と仲良くなれるかという考えで一杯になった。
そんな考えに彼が執着しているとなにやら洞窟らしき場所に到着した。
洞窟というにはあまりにも人工的な装飾が施されていたが、切り立った崖に掘られた洞穴であることは間違いなかった。
まるで古代遺跡のような神秘的な装いの入り口だった。
彼は不安になった。
一体ここがなんなのか見当もつかなかったからだ。
しかし彼に選択肢などない。
2人に連れられ、というよりリネラに抱きかかえられながら洞窟の中に入るとそこには予想外な光景が広がっていた。
そこは廊下だった。
ランプに照らされたアーチ状の天井に大理石の柱。
まるで欧州の宮殿のような内装に、岩と闇が支配する洞窟を想像していた彼は固まった。
しかしそんな衝撃も次に起こった出来事に比べれば些細なことだった。
一瞬で景色が変わったのだ。
リネラに抱えられていた彼は天井とその周囲を少し見渡せる程度の視界しか確保できていなかったが、それでも明らかな変化があった。
瞬間移動だ。ここが異世界だと信じていた彼はその現象を、当然魔法によるものだと考えた。
彼が魔法の存在を確信し、静かな興奮を味わっていると再び視界が動き、次に扉が開かれたことがわかった。
扉の奥には大きすぎるドーム型の天井とシャンデリアがみえた。
あまりの巨大さに開いた口が塞がらなかった。
彼が我に返って慌てて口を閉じた時、話し声がきこえた。
その時リネラは【鳳龍】オリンクルシャに事情を話していたのだが、もちろん彼に話の内容はわからなかった。
彼をオリンクルシャに手渡すリネラ。
リネラの手を離れた彼は少し不安になったが、次の瞬間、彼を覗きこんできた人物を見てそんな不安も消し飛んだ。
彼の目にはこの世のモノとは思えない絶世の美女が目に入った。
こんな人形みたいなヒトが現実にいるんだなと彼は思った。
オリンクルシャに見惚れる彼の頭を、オリンクルシャは優しく撫でた。
いつくしみ、最大限の愛情を持って。
それが彼にも伝わったのだろう。
彼はオリンクルシャを警戒するどころか、警戒しようという考えさえ抱かなかった。
幸福と優しさを一心に受けた彼はオリンクルシャの腕に包まれ目を閉じ、そして眠りについた。
眠りの奥に落ちながら、彼は思った。
世の中いったいいつなんどき何が起きるか分からない、と。
そしてこれからは、いったい何が起きるのだろうかと。