45.強がりとツンデレ
「何を、言ってるんだよ。」
「私の口の動き、よーく見ていて。多分、アイオラ語の発音の仕方ではあり得ない動きをする時があるでしょ?」
「…なんだ、これ。今まで気づかなかったけれど、あんたの口の動きと言葉が、微妙に違う…?」
「目立たない様に必要最低限の人としか関わらなかったし、なるべく俯いて口の動きを見られないように話していたから。きっと、同じような発音もあるんだろうね。」
「…確かに違う所もある。けれど、これに気づく人間なんて…」
「誰もいなかった。」
「じゃあ、あんたがこの世界の人間じゃないって…いや、そんな話は聞いたことが無いよ。けれどこれは…。」
必死で理解しようとしてくれるのが伝わる。
やはり、最初から嘘をつかずに本当の事を話していれば良かったな。
信じる信じないは、各々に任せるとしても。
あとはベリルさんやコランダムさんにも、本当の事を話せたらいいんだけど…。
「信じられなくても構わないよ。私がジャスパーの立場だったら、すぐに医療院へ連れていくと思う。」
「…ああ、まあね。でも、だからあんたは、どこか人と違う事を言っていたんだ。」
「私のこの世界での記憶は、去年の春からしかないんだよ。常識とか価値観とか、未だに慣れない所もあるんだよね。」
「待てよ。それが、婚姻にどう結び付くの。」
「婚約者…ディアンはね、私が元の世界に帰るのを応援してくれたんだ。これからフローライトへ行って、その手懸かりを探すつもり。」
「…。」
「陛下は、私を元の世界に帰すことは望んで無かった。でも、私は自分の世界に帰りたい。そんな気持ちで、陛下の側には居られなかった。もちろん、私が王妃になんてなれっこないけど。」
ふと、外を見れば雪が降っていた。
大粒の牡丹雪が、静かに落ちていく。
「ジャスパーには相手に全力で立ち向かえって豪語したくせに、私がこんなんで、ごめんね。」
「あんた、陛下の事…」
「さあ、どうだったのかな。もしもって想像したりもしたけど…自分自身に嘘をついてまで、一緒になろうとは思わなかった。結局はその程度だったんだよ。」
「あんたと陛下の譲れないものなんて、どうやったって交わらないだろ。」
「うん、それを陛下も気づいてたんじゃないかな。」
「後悔は無いの。」
「…毎日あんなに美味しいご飯が食べられるのは、惜しいかな?」
はぁ!?と大きな声で叫んだジャスパーが、今度は違った意味で注目を集める。
食事も済んだし、そろそろ出ようかと帰り支度を始めた。
ジャスパーの顔がうっすら赤くなっていたけど、笑うのを必死で堪え、出口でコートを受けとり、外に出た。
降り積もった雪が、地面を覆い隠している。
チェーンの様な滑り止めを着けた馬車も走っていたけれど、お互いそれに乗ろうとは言わず、王宮の方角へ足を進めた。
店から借りた一本の傘を二人でさして、滑らないように慎重に歩いていく。
深夜になるにはまだ時間があるけど、夜の冬の街を歩く人は少ない。
しばらく歩けば、外交部のある棟の裏門が遠くに見えた。
「ずっと黙っていてごめんね、ジャスパー。」
「まだ半分信じられないけれど。色々と、納得がいったよ。」
「そう?そんなに変だったかな。」
「あんたは、変なんてもんじゃないよ。平民にしては小綺麗だし、所作も荒くないし。けれど、この国での常識をまるで知らないし、知ってもそれに馴染む訳でも無い。あんたみたいな人間は、どこか違う世界から来たって言われた方が納得する。」
「私のいた世界とこの世界では、違う所もたくさんあるしね。でも、人間も動物も植物も、大して違いは無かった。だから初めは、違う世界に来たなんて思わなかった。まず、違う世界があるなんて事も、知らなかったんだよね。」
「…この世界が嫌だから、自分の世界へ帰りたいわけ?」
「まさか!この世界の人達は、右も左も分からない私を、暖かく迎え入れてくれた。優しくて、居心地が良くて…」
仕事を与えてくれて、一緒に笑って、時には厳しく叱ってくれて、本当の家族みたいに私を包んでくれた。
毎日毎日、大事な物が増えていった。
明日の準備をして、明後日の予定を考えて、未来の約束をした。
二十九年間過ごした場所は諦めきれないけれど、今すぐに、何の戸惑いもなく元の世界に戻れるかっていったら、きっと無理だ。
「もう…ほとんどは意地なんだよね。」
「だったら…」
「でも!この意地を無くしてしまったら、私が私じゃなくなる気がして怖くてっ…。皆の事は大好きだし、離れたくない。でも、このまま甘え続けて、馴染んでいくのが怖い…。アリサって、本当の名前を呼ばれないまま、私はこの世界で生きていかなきゃならない。それが…」
私の言葉を遮って、傘を落としたジャスパーに体をきつく抱き締められる。
それがまるで、消えていく私を繋ぎ止めるかのようで、胸が痛んだ。
雪が津々と降る街道は、馬車の跡だけを残して、辺りを真っ白に染め上げていた。
色も音も無くしたこの世界は、どちらの世界だっただろうか。
そんな錯覚を起こした私に、ジャスパーの熱が伝わる。
暖かくて、大きな手が、私の頭の後ろで微かに震えていた。
「あんた、どれだけ重いもの背負ってたんだよ。こんなあんたを、僕は知らないんだけど。」
「だって毎日楽しかった。皆が与えてくれる優しさに、どれ程助けられたか分かんない。本当に、感謝しかないよ。そんな人達に、こんな狡くて、恩を仇で返すような気持ち、言える訳ない…」
「言えよ!僕はあんたにとって友達なんだろう!?それとも、僕はその程度の人間だって思ってたわけ!?」
違う、と抱えられていた体を押して、頭一つ分高い所にある顔を見上げる。
朝露に濡れた葉の様な綺麗な瞳を細めて、私を睨み付けるジャスパーは、今にも泣き出しそうに見えた。
「ジャスパー、違う、私っ…」
「…分かってるよ。皆、分かってる。」
「え?」
「あんたはいつも笑っていたし、腹が立てば怒っていたよね。でも、人前で泣くことは無かった。そんな強がりばっかりしていたあんたに、気づかない訳がないよ。まあ、それは記憶を無くしているからだと思っていたけれど…。」
最後の一言だけ小さく呟いたジャスパーが、私の頭にある雪をそっと落としてくれる。
そしてゆっくりと屈んで傘を拾い、私の頭上にさした。
「仕方がないから、あんたが自分の世界に帰ることが出来るよう、僕も何か探してあげるよ。」
「ジャスパー?」
「別にあんたがどこへ行こうと関係無いけれど。譲れないものがあるっていうのは、僕にも分かるから。」
さっきまでの表情を消して、いつもの膨れっ面に戻っている。
それでも私が雪に濡れないようにと、傘をさし続けてくれる事に、ジャスパーの分かりづらい優しさを感じる。
そしてもう一度、今度はそっと腕の中に囲われる。
その肩と背に積もった雪をはらって、冷たくなったジャスパーを暖めるように、手を回した。
「あんたはこんなに小さくて、細かったんだ。」
「…この世界の人達はみんな背が高くて、体型もしっかりしてるもんね。」
「フローライトは海からの嵐が多いって聞いた事があるけれど、こんな体で生きていけるわけ?」
「そうなんだ…筋トレを頑張ります。」
「…きんとれ、が何かは知らないけれど、スフェーンを頼んだよ。あの子の家族は、これからはあんたなんだから。」
「うん。大事にします、ジャスパー母さん。」
「…誰が母さんだよ。」
はぁ、と疲れたように私の頭の上で溜め息を吐いたジャスパーは、そっと体を離してくれた。
そして再び、裏門へとゆっくり歩き出す。
「スフェーンは、マラカイト産の干し草がお気に入りだから。」
「おおぅ…なんとかして手に入れる。」
「あの子と気が合う馬がいれば、仔を産ませてやって。春になれば、出産も出来る筈だから。」
「うん!スフェーンの赤ちゃんが産まれたら、すぐ報せを送るね!」
「…はぁ。本当に連れていくの。」
「まだスフェーンに聞いてないけど…多分、一緒に行ってくれると思う。」
「ああ、娘を嫁に出すのはこんな気分かもね…。」
そう言って片手で頭を抱えたジャスパーは、心底落ち込んでいるように見える。
数多くいる馬達の中でも、スフェーンは可愛がっていたもんな。
「じゃあ、また厩舎へ顔を出すね。今日はご飯をありがとう。」
裏門へ着き、そこでジャスパーと向かい合う。
この国では、食事の際に女性が支払いをするということは有り得ないらしく、申し訳なかったが奢ってもらった。
飲み屋ならば私が支払いをしてもおかしくはないけど、ああいう場所を選んでくれのは、ジャスパーなりの餞別だったのかな。
ずっと黙っていた事も話せたし、友達だって言ってくれた。
お腹も心も満たされて、本当に大満足な一日だったな。
今度は、お昼のサンドイッチ持参で厩舎へ行こう。
「別に。」
「情けない事言ってごめんね。帰りたいって言ったけど…フローライトで頑張るから。この世界で、まだやりたい事もあるし。」
「そう。」
「…ありがとう、ジャスパー。手紙書くね。」
「暇があったら返事してもいいけど。」
「うん!いい人出来たら知らせてね?」
「……そのお節介な所は直した方がいいんじゃない。」
「ジャスパーにも幸せになって欲しいんだよ。体に気を付けて、元気でね。」
「あんたに言われるまでもないよ。じゃあね!」
ふんっと一つ鼻息を吐いて、さっさと騎士団の方へ行ってしまう。
その背が見えなくなるまで見送った後、私も部屋へと足を進めた。
部屋へ戻れば、まだ温かい紅茶が用意されていて、暖炉の薪もたっぷりと補充されている。
ルチルの完璧な気遣いに、また心が暖かくなった。
私の強がりは、みんな気づいてる、のかぁ…。
隠していた訳では無いけど、人前で泣くのは苦手なんだよね。
どんなに優しくされても、本音はどうなのかなって疑心暗鬼になってた気がする。
多分、無意識にこの世界の人達を警戒していたんだろう。
すべて自分の心を守るために。
でも、この一年半、まわりの皆は心から私を受け入れてくれた。
初めは同情だったのかもしれないけど、次第に愛情や、友情を持って接してくれた。
それに気づかないふりをしていた私は、とても失礼な奴だったと思う。
本当に、この世界の人達は優しすぎる。
地球へ帰る事が出来ないんだとしても、仕方がないかもしれないと思える程に。
心地の良い疲労感に襲われ、さっさと湯浴みを済ませて、寝台に潜り込む。
足首までのマキシワンピースの様な寝間着が、パチパチと音のする暖炉が、石造りの壁が、まだアイオライト王国にいるんだって思わせてくれる。
あれほど毎日帰りたいと願い続けていたのが嘘のように、この世界に居られる事が、今は安心出来た。
住めば都とは言うが、それだけではない。
人、馬、街、家、山、草原、この世界の全てが、私にとって大切なものになった。
自らの不幸に嘆いてばかりな毎日よりも、前に進むしかない事を受け入れた方が、ずっと幸せだ。
それを、この世界の皆が気づかせてくれた。
色んな事があったこのアイオライト王国を、私は一生忘れない。
皆の顔を一人一人思い浮かべている内に、いつの間にか眠っていた。
ジャスパーの顔を思う前に寝てしまったのは、ご愛敬と言うことで…。
そして、アイオライト王国に来てから二度目の春。
雪がまだ残る朝、ディアンが馬に乗ってやってきた。
長距離の移動にも耐えられる様に準備を万全にし、ラリマーさんの本邸の前に立つ。
私の横には、どこか誇らしげなスフェーンが寄り添っている。
私は今日、群島諸国フローライトへと旅立つ。




