42. 来世の約束
「ユークレース様…。」
「紐が固く結ばれていて、ほどけませんね…」
「ユークレース様っ…」
「ああ、繋ぎ目を蝋で固めてあるのですか。」
「やめてください!刺せるわけがないです…」
「そうですね。今貴女に殺されなくとも、三日後に神の元へ行くでしょう。」
胸に押し付けていた短剣を離し、後ろの壁に寄りかかったユークレース様は、一つ短いため息をついて、目を閉じてしまった。
私の手からも、短剣が滑り落ちる。
何をどう言ったらいいのか、言葉にならない思いが浮かんでは消えていく。
死なないでとも、生きて欲しいとも言えずに、沈黙が続いた。
真っ暗な状態だから、今どのくらい時間がたったのかは解らないけど、ボーッとしている暇はない。
これで最後になるんだと思い、一番聞きたかったことを口に出した。
「どうしても、聞きたいことがあるんですけど…」
「まだ何かあるのですか。」
「なぜ、私を拉致の様に連れ去ったのに、閉じ込めた石牢の中が、あんなに快適にされてたんですか?あれじゃまるで、守られているみたいに感じました。」
「…何故私が貴女を守らねばなりません。」
「戦の前に、この国を出ていけと強く言っていましたよね。あの時は、陛下に近付く女が気に入らないだけだとばかり思っていましたけど…あれも、私が戦火に巻き込まれないよう、この国から逃がそうとしてくれたんですよね?」
「自惚れるのもいい加減に…」
「ユークレース様は、大切な陛下の想い人である私も、少なからず大事にしようとしてくれたんじゃないですか?」
「…貴女は、やはり頭が悪いですね。」
「悪いなりに、色々考えたんです。ユークレース様は、口調はキツいけれど…私を見る瞳は、少しだけ優しかった気がします。」
会えば怒ってるような、不機嫌なユークレース様ばっかりだったけど。
心底鬱陶しそうにしている癖に、気遣うように見つめられる事があった。
勘違いだろうって、すぐに気にもしていなかったけど…。
もっと、この人の心の内を、見ようとしていれば良かった。
「昔…へリオがまだ学院にいた頃、大規模な盗賊の討伐に出た事があったんですよ。聞いたことは?」
「あ…ラリマーさんに聞いたばかりです…。」
「尋問の為に残した頭領以外、全てを始末したへリオは、返り血一つ無く王都へ帰ってきました。当時の王であるへリオの父上は、大層喜ばれましてね。しかし、本人は表情を変えず、何事も無かったかのように学院へ戻って行きましたよ。しかし…その夜に数人の供を連れて、討伐をした村まで行ってきたそうなんです。何故だか解りますか?」
懐かしそうに目を細めて、床にあった短剣を持ち上げた。
ユークレース様の表情が、さっきよりもはっきりと見える。
「被害を受けた村で盗賊達の屍をまとめて焼き払ったんですが、残った骨を全て纏めて王都が見える森の側に埋め、弔って来たんだそうです。そんな事を、王太子だったへリオがする理由も、義務も無かった。明け方に戻ったあの子は、泣いていましたよ。」
「でも…罪を犯した人達だったんですよね?陛下は、罪人には容赦が無いって…」
「ええ。盗賊達は罪人です。へリオがやらなくとも、他の誰かが始末したでしょう。そうせねば、何の罪もない村人達が被害に合う。しかし…あの子は謝罪を繰り返し呟いて、ただひたすら声を殺して泣いていました。」
昼間見た陛下からは、想像がつかない。
氷のように冷たい瞳をして、目の前にいるユークレース様に、容赦ない殺気を向けていた。
「幼い頃から自分の意思や感情を殺し、ただひたすらに良き王になろうと必死でした。父上の体の事もあり、皆の期待に答えるために、そうしなければならなかったんです。そうなるよう私自身、兄としてへリオを支えてきたつもりです。」
「なら、どうして…」
「貴女ですよ。」
「わたし…?」
「カナリーと共闘していたのは数年前からですが、その時はまだ、へリオを王からおろすなどとは考えて無かった。王妃が攻めて来た所を、退ける程度で充分だったんですよ。しかし、貴女と出会ってから、へリオは変わりました。本来の、熱く優しい心を顕にするようになった。まるで今までの時間を取り戻すかのように、笑い、怒り、悲しみ…。それを見て私は、間違えていたんだと気づいたのです。」
「…私の知っている陛下は…暑苦しくて、平民の女なんかに熱をあげて、でも肝心な所でどこか頼りなくって。自分の心に正直な、可愛い年下の男の人です。それが、陛下だと思っていました。」
「へリオをそんな風に言えるのは、アリー、貴女だけです。へリオの心を溶かしてくれた事、感謝していますよ。」
ユークレース様が、私に感謝なんて…。
まだ何か裏があるのかと、反射的に身構えてしまう。
それを見たユークレース様が、ふふ、と笑った。
今度は、心から笑っているように見える。
「でも、私は陛下と一緒にはなれないですよ…?」
「それでも構いません。貴女が生きてここにいる、それだけでへリオの力となるでしょう。」
「とことん、陛下至上主義なんですね。」
「不器用な子ほど、可愛いものでしょう。」
「王になれたのに、不器用ですか?」
「ええ、とても。貴女はへリオに似ています。自分にも他人にも優しすぎる。そして不器用で、どこか放っておけない。」
急に私の話になり、どう答えたらいいのかわからなくなる。
と、その時、ユークレース様の手に腕を引かれて、胸元に顔を押し付けるような格好になってしまった。
ゆっくりと上下する胸と、微かに聞こえる鼓動が、ユークレース様の命が、まだここにあると教えてくれる。
鎖の繋がった両手で、肩を越えた髪を優しくすかれた。
「汗臭いのと埃っぽいのは我慢して下さい。」
頭の上で、ユークレース様の吐息を感じる。
我慢してと言われたけれど、むしろ花のような匂いが長い髪からする。
この香り、すごくいい匂いだな。
どんな香油を使っているんだろう。
視界に入る腕の傷は、痛くないのかな…。
掠り傷って、ついた時にはそんなに痛くないのに、お風呂に入った時や、かさぶたになった後に引っ掻けたりすると、すごく痛いんだよね。
そこでふと気づく。
ユークレース様はもう、かさぶたになった傷が治ることは無いんだ。
いつか聞けばいいと無意識に思った香油も、もうその、いつかは来ない。
堪えていた涙が、ユークレース様の足元にある短剣の上に落ちていく。
「アリー、一つだけ、私の願いを聞いてもらえませんか。」
両手を口元に持っていき、必死で嗚咽を堪える。
声が出せない代わりに、コクンと首を縦に振った。
「貴女を閉じ込めた牢の衣装箱の中に、黒い服があったでしょう。あそこまでは、馬ならばすぐです。三日後、私が神の元へ帰る時…あれを身に付けて欲しいのです。」
「…っそれは…」
「黒い服は死者の物。ですが…夜の闇に溶ける髪、全ての色を吸い込む瞳を持つ貴女には、黒がよく似合います。皆の前で着る必要はありません。私が神の元へ還るとき。その時だけ、どうかお願いします。」
ユークレース様を見上げれば、幼い子供を見つめるように、穏やかに微笑んでいる。
陛下の事もこんな風に、大切に、大切にしてきたんだろう。
「ユークレース様がいなくなってしまったら、陛下はまた泣いてしまいますよ…。」
「泣くでしょうね。しかし、私に罰を下す役目を、他の誰にも譲らないでしょう。」
「コランダムさんも、ラリマーさんも、ユークレース様のお父さんも、私だって…皆が悲しくなります!」
「…ラリマー殿には、私の心の内が暴かれていましたね。彼の娘である事に、誇りをもって生きなさい。さあ、陽が差さない此処では、いつ朝になるのかが分かりません。朝になれば私の尋問が再開されます。もう此処から出た方が良い。帰る方法はあるのですか?」
感覚だけでも、随分長い時間話していた事がわかる。
これで、もう二度と会うことは叶わない。
三日後まではまだ時間があるけれど、もう一度ここに来ることを、ユークレース様は許さないだろう。
ディアンにも、止められそうだ。
「ユークレース様、あの黒い服…私にぴったりでした。」
「もう着たのですか。」
「いつ、体の形を調べたんですか?」
「何度か、外交部の中庭の椅子で昼寝をしていたでしょう。その時に採寸を…」
「え!?そんな事していたんですか!?」
「さあ、どうでしょうね?」
目の前のユークレース様は、クスクスと笑って私の体を引き離し、短剣を両手に握らせてくれる。
その手がとても暖かく、剣を握る陛下とは違い柔らかかった。
「もう行きなさい、アリー。」
「アリサです。私の本当の名前は、アリサって言います。」
「…そうでしたか。ではアリサ…」
「ユークレース様が来世で幸せな人生を送り、穏やかに老衰で旅立てるよう、オブシディアンに頼みます。」
「現世も充分に幸せでしたよ。けれど…私はもう人間が疲れました。来世は鳥にでもなりましょうか。」
ニヤリと、ターコイズの瞳が私を射ぬく。
一瞬何を言われたのかがわからなくて、ポカンとしてしまったが。
「…嫌味ですか。ユークレース様はやっぱりいい性格をしてますね!鳥になりたいんですね、三歩歩いたら忘れちゃうんですよ!神様にそう頼みますからね!」
「ええ、宜しくお願いします。」
こんなに狭く薄暗い牢屋の中でも、綺麗な顔を崩さずに凛としている。
その時、手にしていた短剣が一際明るく光り始めた。
「アリサ、時間だ。」
暗闇の中から、闇の化身の様なディアンが現れ、私に手をかざす。
わかった、と一言答えて立ち上がり、ユークレース様を見つめる。
「鳥になりたいって言ったこと、取り消すなら今ですよ?」
無理矢理笑顔を作ったのに、涙は止まらない。
ディアンを見て目を丸くしたユークレース様だったけれど、すぐに首を横に振って、それでお願いしますと頷いた。
「ユーク…レース様っ…」
「さようなら、アリサ。どうか幸せに。」
「ユークレース様っっ!!」
こんな時でなければ、見惚れてしまう程の綺麗な笑みを浮かべ、私に手を振る。
嫌、嫌、と暴れるが、後ろからディアンに押さえ込まれ、その大きな手で両目を塞がれる。
「貴女が生まれ育った国へ帰ることが出来ますように。空から、祈っています……」
最後の言葉が、目眩と共にかき消えた。
靴越しでも感じる足元が柔らかくて、ここがもう牢ではないことを教えてくれる。
薄く目を開けると、毛の長いの絨毯が視界に入った。
茶色いブーツの先が、少しだけすれて土がついている。
「ユークレース様…あっあああああっっっ…」
立っていられなくて、両手からその場に泣き崩れる。
もう会えない、話も出来ない、温もりも感じることはない。
その全てが、命あってのものだ。
ディアンが後ろから、そっと私を抱き締める。
「我が子の願い、聞き入れた。彼には、どこまでも飛べる大きな翼を。食べる物に困らないよう、鋭い嘴を。羽根を休める事が出来るよう、太い足を。来世で約束しよう。」
「…ふぅっ…う、うんっうん……!」
ディアンの言葉に、何度も頷く。
きっと立派な鳥になって、広い空を自由に飛び回れるよね。
それから三日目の朝、あの黒いドレスを身に纏った私は、誰もいない外交部の中庭で王宮の方を向き、手を合わせていた。
遠くの方から、わあっと言う大勢の人の声がして、刑が執行された事を知った。
不思議と涙は出てこなくて、どこかすっきりした様な気持ちになっていた。
人が亡くなってすっきりするのも、おかしな話だけど…。
人間である事に疲れたと言っていたユークレース様が、これで楽になれたんだと思ったら、笑みまで溢れてきた。
会いに行った癖に何も出来なかった自分に悔しかったけれど、最後に話が出来た事を、後悔はしていない。
それが例え、自己満足だったとしても。
合わせた掌を開いて、ゆっくりと深呼吸をする。
それから間もなく、アンダルサイトの王と王妃が、王弟の率いる反乱軍に拘束されて、大陸四つの国を巻き込んだ戦が、終わりを告げた。
北の国、アイオライト王国に雪が降り積もる少し前だった。




