31. 帰れない、帰らない
「ッハァ、ハァ、あんたね…死ぬわ!」
「すまない。」
ベッドの上で上半身を起こしたまま、ぜぇぜぇと呼吸をしている私の目の前にいる自称神は、眉尻を下げて正座をしている。
私の育った国ではこれが謝るスタイルだと言ったら、素直に従ってくれた。
「ハァ、お久しぶり。本当に、誰にも気づかれずに部屋へ来られるんだね。」
「造作無い。」
「私ね、フローライトへ旅に出ることにしたんだ。」
「そうか。」
「ディアンは、フローライトは詳しい?」
「ああ。」
「そういえば、剣の腕はいいの?」
「使える。」
「じゃあディアンに護衛を頼もうかな。」
「よし。」
「……あのさぁ!話話って言うけど、話す気あんの!?」
「?…話している。」
そうなんだけど、何だろう、この一方通行。
ため息をつきながら、ディアンに椅子に座るよう促す。
テーブルについて、寝る前に貰った紅茶の残りを一口飲む。
そういえば、神もご飯を食べるのかな。
「冷めてるけど、紅茶飲む?」
「いや。」
「その姿は人間なんでしょ?飲食は可能なの?」
「ああ。だが今はいらない。」
「そっか。じゃあ、今日は何の話をする?何か用があって来てくれたんでしょ?」
「…フローライトへ行くのはいつだ。」
早ければあと一月でここを出ること、その為に陛下を説得しなければならないこと、昼間ラリマーさんに話したことをそのまま、ディアンにも話す。
護衛はラリマーさんが用意してくれるって言ってたけど、アイオライトを出てからディアンと合流すればいいかな。
「では早急に服を用意しよう。」
「ごめんね。もし私で良ければ一緒に選びに行こうか?もちろんお金は出すよ。」
「支払いはいいが、選んでくれ。」
良かった、知り合いが一緒の方が安心するよね。
神様を知り合いって言っていいのか微妙な所だけども。
私も旅に向けて、色々揃えたい物もあるし、ルチルにだけは神って事は伏せながら、一緒に買い物に付き合ってもらおう。
それよりも、まずは国を出る事から話さなきゃいけない。
陛下の反応も怖いけど、ルチルもどう返してくるのかが、やや怖い。
誰にも相談しないで、一人で勝手に決めちゃったんだから、平謝り決定かな…。
「何故行く?」
「うん、私のいた世界に帰る方法を探しに行こうと思ってさ。一年以上、この国にいたけど何も手掛かりがないままだから。それも、ディアンに聞こうと思っていたんだ。」
それまでじっと私を見ていたディアンが、ふと視線を横に流す。
心なしか、眉尻が下がっている様に見えた。
「無理だ。」
「え?」
「返すことは、無理だ。」
これは…私は、やっぱり地球には帰れないって事、だよね…。
さっきまで旅に出るんだって張り切っていた気持ちが、ぐんぐん萎んでいく。
同時に、足の先から体中が急速に冷めていくのを感じる。
それでもどこか信じられない自分もいて、必死で次の言葉を探す。
「そ、それは、ディアンが無理なの?他の人なら出来る?」
「人間を他神の世界へ送る事など、神でも出来ない。」
「じゃあ!何で私はここに居るの!?私自身には何も力が無いんだから、必ず他者の力が働いているよね?」
椅子に座っていたディアンが、長い足を組み替える。
カップを持っていた手が、震えた。
「稀に世界に裂目が出来る事がある。そこに落ちたとしか考えられない。」
「裂目?そんな事って…。」
「そこへ落ちた物がどうなるかは私にも分からないが、アリサは奇跡的にこの世界に落ちたようだ。」
「ちょ、ちょっと待ってよ。人が落ちる程の穴?が空いたんだったら、大騒ぎにならない?」
「裂目など一瞬だ。すぐに何も無かったようになる。」
時間や場所まで越える穴なんて…。
科学が当たり前だった私には、到底理解出来ない。
「じゃあ、その裂目がまた出来たら、私は地球に帰ることが出来るの?」
「アリサの通る大きさ、どこに出来るか、いつ出来るのか、全て分かるなら。そしてその裂目がアリサの世界に繋がっているならば。」
「…そんなの……。」
もし本当にその穴を通って来たんだとしたら、私がここにいるのは奇跡に近い。
ディアンが「稀に」裂目が出来るって言ったって事は、長い間見てきた中での稀だろうから、私が生きている間にその条件が重なる事はまず無いんだろう。
本当に、帰れない…。
いつか帰ることが出来るかもって思っていただけに、この事実はあんまりだ。
口の中がからからに乾いている。
息の仕方がわからない。
「…だが。生を全うした後なら可能かもしれない。」
「……死んだらって事?私が?」
「この世界では魂は皆、世界に還る。そしてまた人間になり植物になり動物になり、大地に還る。その魂だけになれば、アリサは帰ることが出来る。」
この世界にも、輪廻転生みたいなものがあるんだ。
でも魂だけって…。
椅子に座っている事ですら辛くなってきて、フラフラとベッドの上に倒れこむ。
ディアンも立ち上がって、私が横向きに寝ているベッドの頭の方に腰掛けた。
そして、そっと髪を撫でてくれる。
またお呪いなのか、ゆっくりと髪をすきながら、言葉を続けた。
「魂は、必ず元の世界に戻ろうとする。私はそれを見届ける。」
「…でも、私の体はもう無いんだよね?記憶は?」
「魂に、記憶は宿らない。余程強い想いなら少しは残るかもしれないが、詳細までは無理だろう。」
それって。
結局は、私は帰ることが出来ない。
魂だけで戻ったとしても、それはもう今の私じゃない。
有紗としては、ここで生きていくしかないんだ。
父さん、母さん、友達、職場の皆にも二度と会えない。
いつも満員だった電車、夏のジリジリと焼けるようなアスファルト、一人暮らしのアパート、当たり前だった生活には、もう二度と戻れない。
「うっ…ふっう…っ……。」
どうにもならない現実に、胸の奥底から悲しみが溢れてくる。
込み上げて来る涙が、嗚咽と共にこぼれた。
いつか帰ろう、それまではここにいる、海外旅行に来たようなものだって。
入口があるんだから、出口だってきっとあるって。
そう思っていないと保つことが出来なかった心が、壊れそうになる。
痛い、辛い、なんで、どうして、私は私のままで、地球に帰りたい…!
「っうっ、なんで…こんな事って無いよっ!真面目に仕事だってしてた!両親にだって記念日にはプレゼントだって欠かしたことない…まだ、孫だって見せてないのにっ…!ねぇ、ディアンは神様なんでしょう!?不思議な力も使えるんだから、私を帰すくらいっ!!」
顔だけ上げて睨んでいた私を、ディアンが体を起こして抱き締めてくる。
優しく撫でてくれていたのとは違って、痛いくらいに。
ディアンは最初から、無理だとハッキリ言ってくれた。
これは、ただの八つ当たりだ。
分かっているけど、当たる場所も、当たる人もいない。
一年半アデュレリアに居て、まるでこの世界の人間かのように振る舞っていても、心は地球を、日本をいつでも求めていた。
私はいつか帰る人間だから、違う世界から来たなんて誰も信じてもらえないだろうから、そうやって一歩線を引いて、私から拒絶していたくせに。
一人じゃ生きていけなくて、一人じゃ寂しくて、都合良く言い訳を見つけては、まわりに甘えて。
今だってそうだ。
人間ではないディアンに甘えている。
これからどうしたら良いかなんて、分かっている癖に。
いっそのこと、心が壊れちゃえばいいのに、そこまで純粋でも無い。
どうして私が…。
様々な思いが交ざって、頭の中がぐちゃぐちゃだ。
それでも、ディアンの温もりと呼吸が伝わってきて、パニックになっていた心が段々と落ち着いてくる。
黒い騎士服を掴んで、涙が止まるまで体を預けた。
「…落ち着いたか。」
「…ぐすっ、ふう、ん…。」
「すまない。」
「…?」
何に謝られているのかが分からなくて、鼻をすすりながらディアンを見上げる。
黒目がちな瞳が、申し訳なさそうにじっとこちらを見つめていた。
「帰す事が出来ない。」
「…謝らないでよ。無理だって、ハッキリ言ってくれてありがとう。怒鳴って、ごめんね。」
そう言った私を、もう一度きつく抱き締めてくれた。
それが、やっぱりお母さんみたいで落ち着く。
「帰れないかもって、何となく思ってたんだよね。古文書まで調べたけど、私みたいな事例なんか無いし。神様からハッキリ言われたら、もう諦めるしかないよ。」
「……。」
「でもまだ、どこかで帰る方法が見つかるんじゃないかって、期待しちゃう自分もいる。旅になんか出ても意味が無いって思ったけど…やっぱり、自分の足で探してみたい。」
「ああ。」
ディアンの背中に腕を回して、顔を上げる。
失恋した時以上に泣いた顔は、きっとぐちゃぐちゃだろうな。
「私はアデュレリアの人間じゃないけど、ある程度納得するまで、一緒に居てくれないかな?神様を、独り占めしたらまずい?」
「アリサは私の子では無い。」
駄目か…。
ディアンが一緒に探してくれたら、見つかるのも早いかなって思ったんだけど。
つくづく、打算で動くんだな、私は…。
けど、神様という強力なバックアップを逃すわけにはいかないでしょう!
「だから大丈夫だ。」
…ん?何がだからなのか、意味が分からない。
この神様も、つくづく言葉が足りないな。
「…私はアデュレリアの人間じゃないから、大丈夫なの?」
「私の子が独り占めしている訳では無い。だから、構わない。」
「どういう理屈でそうなるのかが良く分からないけど…。」
と、ディアンが私をそっと引き離して、黒の騎士服を見つめる。
胸元の金ボタンをそっと撫でながら、私の手を取り、そこへ近付けた。
「子が私の力を欲すれば、争いになる。だが、アリサは違うだろう?」
「分かんないよ?今から陛下に戦いを挑んで、アイオライト王国を乗っ取ろうと思ってるかも。」
思わずニヤリ、と意地の悪い顔をして、ディアンの胸をグーで突く。
まさか、という顔をして私を見てくるが、次第に表情が険しくなる。
「いや、ディアン、そんな訳ないからね?私の心は全く分からないみたいだけど、どうやら私は思っていることが顔に出やすいらしいんだ。だから、そんな事考えてないってすぐに分かるよ。」
「…。」
でも、ディアンの表情は晴れない。
私そんなにまずいこと言っちゃったのかな。
「ディアン?ごめんね?嘘だからね?」
「ああ。」
「じゃあ、何でそんなに怖い顔してるの。」
「…アリサ、この国を出るのなら早い方がいい。」
「何で?まだ私、旅の準備とか何もしてないよ。」
「今日はその話をする為に、来た。」
「どういう事?」
「この国には、強烈な負の感情が渦巻いている。それも、たった一人から。同時に愛情も感じるが、何かおかしい。」
負の感情と愛情…?
それが一緒に強く感じるって、一体どういう事だろう。
「それは、アイオライト王国で何かがあるかもしれないって事?」
「一人の負の感情に感化され、多数になりつつある。しかし、アイオライトだけでは無い。アンダルサイト、ジンカイトにも同じ感情が強くある。それらは大勢の人間達だが、こちらは、やや規模が大きい。」
「ちょ、ちょっと待ってよ…。頭が追い付かない。」
「マラカイトには負の感情は見当たらないが、大陸三つの国がその様なら、安全ではないだろう。フローライトなら争いは避けられる。旅に出るのなら、すぐにでも船の手配を。」
「待ってって。その感情は、誰かまでは分かる?」
「…聞いてどうする。」
「私だってこの国の皆にお世話になってる。アンダルサイトにだっている。争いになるかもしれないって聞いて、一人で逃げるなんて…。」
「戦を知っているのか?」
「経験した事は無いけど…どんなものかは分かるよ。」
日本でも、六十年以上前には戦争があった。
学生の頃に戦時中のビデオを見たり、授業だってあった。
祖父母が生きていた頃には、当時の話も聞いたことがある。
実際に体験した事は無くても、知識としては刷り込まれていると思う。
「人が死ぬのを見た事は?」
「…祖父母のお葬式には出たけど、死に目には会えなかった。」
「夜が明ける。」
いつの間にか、蝋燭の火が無くてもディアンの顔がわかるようになっていた。
朝日がカーテン越しに漏れている。
今日は約束した通り、時間をいじってないんだ。
ぼんやりと眺めていたら、私の頭をポンと叩いてディアンが立ち上がり、扉へ向かう。
「また来る。」
「えっ?待って、まだ話が終わってない!」
「今夜、同じ時間に。」
そう言って、木目の扉にスーっと消えていった。
音も無く、まるで最初から誰もいなかったみたいだ。
「戦って…嘘でしょ…?」
今日はこれから、手荷物を持って外交部の部屋へ向かう予定だ。
そして、午後からはまた仕事がある。
あと一時間くらいなら眠る時間もあるだろうけど、こんな話をした後に寝られる神経はしていない。
ああ、どうしたらいいんだろう。
ベッドの上に体育座りをしたまま、頭を膝につけて考え込んでしまう。
シトリンさんが部屋に来るまで、ただただ、じっとディアンの言葉を思い返していた。
とにかく、ルチルにそれとなく聞いてみよう。
仕事が終わったら、ラリマーさんにも話さなきゃ。
このまま何もしないまま、旅になんて行けないよ。
この世界にだって、大切な人がたくさんいる。
よし!帰る事がほぼ不可能だって分かったし、だったらこの世界でやれる事はやろう。
腫れぼったい顔を両手でひっ叩いて、腹の底に気合いを入れ直した。
間延びしてきたので、一気に完結まで向かいたいと思いますが…リアルが多忙です…。




