15. 酒と女と涙と三十路
嫌なやつに会っちまったな…。
ここは空気と化してやり過ごそう。
壁の方へ避けて、頭を下げた。
このまま気づかず去って行ってくれることを祈る。
「おや、酒は抜けましたか」
ダメだったか…。
そしていきなりそれか。
この人にまで噂が広まっているということは、自ずと陛下まで話がいっているということだよね。
もう二度と来んな!とは言ったが、そろそろ突撃して来そうで怖い。
「こんにちは、宰相様。では私はこれで」
頭を下げたままそそくさと通りすぎようとしたのだが、腕を捕まれてそのままユークレース様の方に体を向けられる。
うわぁ、触られている所から鳥肌が…。
「あの、仕事がありますので離していただけませんか」
「カナリーと一夜を共にしたというのは本当ですか?」
おいおい…それはラリマーさんにすらさすがに言えなくて、ジャスパーにも堅く口止めをしている事だ。
何故それを知っている。
サッと青くなった私の顔を見つめながら、ユークレース様が腕を離してより一層険しい顔をして睨んでくる。
やめてよ~何も無かったけれど、物凄く悪いことをしたような気分になる。
うん、悪いことをしちゃったんだけどさ。
けれどもあんたに睨まれる筋合いはない。
「カナリー本人からの書状にそう書いてありましてね。私個人に届いた物ですから、他の誰も知りませんよ」
あー良かった、ってカナリーさん!
ユークレース様と繋がっているなんて聞いてないよ。
「お知り合いだったんですね」
「カナリーは学生の頃、この国に留学をしていた時期がありまして。その時からの付き合いなんですよ。まぁ級友みたいなものですかね。それよりどうなんです、答えなさい」
カチン。
出たよ出たよ上から目線!
確かに偉いだろうけれど、こんなプライベートな事まで答えなきゃならない義務はない。
そもそも何故この外交部の棟にいる。
「そんなことを答えなきゃならないんですか?宰相様に関係あります?」
「関係あるないではありません。私は事実かどうかを聞いているのです」
あーそうだった。
この人とは会話が成り立たないんだったな。
「一夜を共にした、という言葉通りですけど。それ以上でも以下でもありません」
「…なるほど。所詮、貴女も女だったということですね。こんな節操のない女はますます陛下に相応しくない。関わるなと言った言葉を違えないように」
「…ちょっと待ってください。何でそこまで言われなきゃならないんですか?私がどこで誰と寝ようと、あなたには関係ないですよね。そもそもカナリーさんがどう書いたのか知りませんが、同じ寝台で寝てしまっただけであって、男女の関係になったわけではありません」
「では彼と同じ部屋で一晩を過ごしておいて何も無かったと?子供じゃあるまいし、そんな言い訳が通じるとでも思っているのですか」
「だから!私は事実だけを言っているんです!信じてもらえなくても結構ですけど、本当に何も無く朝を迎えたんですから、それしか私には言えません」
いい加減にしてよ…確かに子供の言い訳みたいに聞こえるかもしれないけれど、あんだけ酔っぱらってたんだから、出来るものも出来ないだろう。
カナリーさんも一番厄介な人に余計な事を伝えやがって!
だいたい下心を持って私に近づいたのはカナリーさんの方なんだから、そこだけ考えたら被害者は私だ!
うん、でも私が全面的に悪いのは変わらないけどね。
警戒心や用心するという事が足りなすぎた結果だ。
それだけは心から反省してお酒もやめたんだから。
なのに久しぶりに会って早々、なんなんだこいつ。
私の家族でも友達でも直接の上司でもない癖に!
「あのカナリーが女と一晩一緒にいて何も無かったとは…にわかには信じられませんね」
「だから、信じてもらえなくても結構です。話はそれだけですか?もう行きますので失礼します」
今度こそ早足でその場を離れようとしたのだが、またしても肩を捕まれて壁際に囲まれた。
身長差もあって、ユークレース様の胸元に顔を押し付ける形になってしまっている。
「っ!離してください。大声を出しますよ」
「出来るものなら」
そう言い終わらないうちに、片手で口を塞がれる。
嫌なことは重なるものでこの時間は仕事が始まっていて、廊下を通る者も少ない。
どうしよう両手も拘束されてしまったし、あとは急所を狙うしかないけれど…。
踝まで重いスカートで覆われているし、それは最終手段だな。
「アリー、今すぐにこの国から出ていくと約束をしてくれるなら、この手を解放しましょう。ここを出てフローライトへ戻るといい。カナリーがいいのなら、彼の所へ行けるよう手配してもいいですよ」
何言ってんだ、この人は。
そんなに嫌われてたなんて、私はこの人に何をした?
翻訳だって古文書の解読だって、言われた通りにやっていたはずだ。
仕事も真面目に勤めていたし、陛下にだって自ら近づいたことなんか無い。
派手な装飾品を買い漁ったこともないし誰かと揉めたこともない。
考えても考えても訳がわからなくなるばかりだ。
この世界で拾ってもらったラリマーさんに恩返しが出来ればと、私なりに頑張っていたと思う。
一年経って、ようやく打ち解け始めた周りの皆と共に、帰る日を夢見ながらも、この国で生きていこうと決意をしたばっかりなのに。
何故、いきなり国を出ていけなんて言われなくちゃならないの。
そう思ったら、堪えきれなくなった涙が溢れてきた。
泣くなと思えば思うほど、どんどん流れていく。
こんな奴の前で涙なんか見せたくないのに…。
「泣いてどうにかなるなどとは思っていませんね?貴女はそういう事だけは賢いと認めてるんですから」
悔しい。
悔しい悔しい悔しい!!
この涙は、決して怖くて流れているんじゃない。
女の武器として、泣いているわけでもない。
ただただ、理不尽な要求に対しての抵抗が出来ない悔しさからだ。
所詮男の力に女の私が勝てるわけがない。
事実、もがこうとする度に更に強い力で動きを封じられる。
カナリーさんを捕まえてしまった時だって、私を引き剥がして押さえ込むことぐらい、容易に出来ただろう。
でもそれをしなかったのは、カナリーさんの優しさか、ポリシーがあっただけだ。
こんなかたちでそれを知るなんて、なんて情けないんだ私は。
「ここまでしても首を縦に振らないと言うのなら、どこか誰にもわからない所へ閉じ込めてしまいましょうか」
私の家は古くて人も近付かないような石牢が、いくつもあるんですよ。
そう耳元に囁かれて、いよいよ恐怖で全身がカタカタと震えてくる。
なんで、どうして、そんな思いが言葉に出せないまま、涙となっていくつもいくつも落ちていく。
誰か助けて…そう声にならない悲鳴を上げた時、いきなり体が解放された。
「私の可愛い娘を離しなさい」
ラリマーさんが見たこともないような怖い顔をしてユークレース様の体を引き剥がしてくれた。
ようやく解放された体が床に崩れていく。
「仕事の時間になっても来ないから、何かあったのかと迎えに来てみれば…。宰相殿、一体これはどういうおつもりで?娘が何かしましたか」
口調はいつものラリマーさんなのに、声に凄味がかかっていて怒りで支配されているのがわかる。
肩をそっと抱えられて立ち上がったあとも、足に力が入らなくて、そのままラリマーさんに支えられる。
「いえ、少しお話があっただけですよ。途中、気分が優れないようでしたので介抱をと思いまして」
「私には貴方が無理矢理押さえ込んでいるようにしか見えなかったんですがねぇ。アリー、大丈夫かい」
こくこくと首を前に振るのが精一杯で、ついには嗚咽まで出てきてしまう。
ユークレース様から解放された安心感と、ラリマーさんの温もりで、更に涙が溢れて来た。
「ラリマー殿、娘というのは間違っているでしょう。その娘は遠縁の者なのでは?」
「いいえ、本日付けでこの子は正式に私の娘となりましたよ。今日からアリーは、私とベリルの一人娘です。もちろん、陛下から直々に申請書を受理して頂きましてね」
ちょ、ちょっと待ってラリマーさん、私を娘にしたって…嘘でしょ?
ひっくひっく言いながらも、一気に涙が止まった。
「何て事を…幼い子供を養子にすることはあっても、妙齢の女性を養子として迎えるなどとは、聞いた事もありません。ましてやあなたの家柄からして、周りの者が黙ってはいないでしょうに」
「当主である私の判断にケチをつけるような者は、うちにはいないんでねぇ。アリーの人望や能力を知っている者からは是非にとも。宰相殿に心配をされるような事ではない」
ラリマーさんの家は旧家で、歴史のある貴族だと聞いたことがある。
分家も含めて巨大な一族の当主だったとしても、得体のしれない三十を越えた女なんかを養子にするなんて、反対が無いわけがないよ!
「なるほど…ラリマー殿、それが貴方の答えですか」
「ええ。そういう訳ですのでアリーのことは私にお任せくださっていいんでね。…二度と、この子に近づくんじゃない。」
最後にドスをきかせて、ラリマーさんが私の手をぎゅっと握ってくれる。
この手を握り返していいのかがわからなくて、そのまま事の成り行きを見守った。
「分かりました。では私はこれで失礼します。陛下に確認したい事も出来ましたしね…」
そう言ってもう一度私の方を見て眉間に皺を寄せたユークレース様は、踵を返して去っていった。
はぁ、助かった…。
「アリー、迎えに来るのが遅くなってすまなかったね。奴に何をされたんだい、話せるかい?」
「ラリマーさん…ありがとうございました…」
「いいや、今朝は私もバタバタしていてね。アリーが来ていないことを、先程知ったんだ」
「バタバタとは私を娘に迎えたことですか?」
「うん、それだけでは無いけれどね。…アリーの意思も聞かずに勝手に事を進めてしまったこと、すまなかったね。怒っているかい?」
「いいえ!まさか!私の意思なんかよりも、ラリマーさんこそ大丈夫だったんですか?反対がなかったはずが無いでしょう?」
大丈夫、問題ないよと、いつものラリマーさんらしく笑って答えてくれる。
けれど、どこか疲れたような表情なのを見過ごすことは出来ない。
「一年前とは少しこの国の事情が変わってね。これまでのように、何の立場もない女性をただ能力があるだけで保護することが出来なくなってしまったんだ。ベリルは最後まで上の息子と婚姻を結んで欲しかったみたいなんだけれど、さすがにそれはアリーに申し訳なさ過ぎてねぇ」
うん、もしさっきそんな事を告げられていたら、養子よりもびっくりしてひっくり返っていただろう。
ていうか私よりも留学中の息子さんが気の毒だ。
自分の知らないところで、会ったこともない十も歳上の女と婚姻を結ばれていたりなんかしたら…。
私が息子さんだったら、確実に家出をする。
そのままグレて盗んだバイクで行き先もわからずにかっ飛ばすに違いない。
ああ、ようやく思考が回復してきたかな。
「事情ですか…。それは教えてもらうことは出来ないんですよね」
「知らないという事が、アリーを守る一番の強味になるんだよ。わかるね?」
はい、と力なく返事をしてふうと一息つく。
前にラリマーさんが言っていた、ユークレース様だけには近づくなと言われた事と関係しているんだろう。
「まぁ、これでしばらくは安心していいと思うよ」
「しばらくは、ですか」
「…アリー、君は本当に聡い子だねぇ。そんな君だから、どうにか守ってやりたくなるんだよ。けれど、その事がアリー自身を追い込むことになるのも事実なんだ。私が生きている限り、守ると誓うけれどね」
ちょっと待てラリマーさん。
そのセリフはフラグといってだね…。
生きている限り、とか死亡フラグにしか聞こえないよ!
せっかく私を守るために養子にしてくれたけれど、やはり私はこの国にいるべきではないのかもしれない。
さあ、仕事が待ってるよと言われてヨロヨロと歩き出した。
涙の痕をぬぐって、外交部へ向かう。
私はこれからどうしたらいいんだろう。
答えが出ない思いを残して、ただ歩いていった。




