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 小さいころを思い出そうとすると、大きな背中がいつも思い浮かぶ。その背中に追いつけるように、私はいつも走っていた。辛いなら止めればいいのに、自分の中の兄の影に追われていたので私は走り続けるしか無かった。


 兄は酷く優秀な人であったから。


 彼と比較されて、出来ないことが露呈されていく度に、私の不出来が証明されていく度に、何も言わないけれど彼らは大きなため息を吐いた。

 彼らが悪人なわけではなく、普通の人であった。これくらいの軋轢は誰もが抱えているだろうし、それ以外は穏やかな家族であった。

 ただ悪かったのは、私が良い家族を期待し過ぎたことだ。

 それに気がついたのは随分後で、私はだいぶ遠回りをしたように思う。


 仲が悪いわけではなかったが、彼らとの沈黙に耐えられない程の仲で、あそこは私には息苦しかった。寮のある遠い高校に通い家族と離れることになり、初めて心が安らいだのを今でも覚えている。


 嫌いなわけではなく、大事な人達である。

 けれども彼らに対して心を騒がせるのは、もう疲れてしまった。


 年末年始、夏休み、冬休み、ゴールデンウィーク。

 最初はそのどれも帰省はしていた。

 けれども忙しさを理由にその回数と日数が減っていくと、それに連れて電話やメールの数も少なくなり、今では殆ど家には寄り付かなくなっていた。






「夕橋町ー夕橋町ー」


 


 眠っていたわけではないけれど、それでも深い所に潜っていた意識が車内アナウンスで浮かび上がる。いけない、と膝の上で抱えていた鞄を背負い、席を立つ。車内は僅かに人が居るだけで、がらんとしている。眠っている学生が、首をかくんとさせた。

 席を立ったのは私だけだから、この駅で降りるのは私だけなのだろう。



 

 将来を有望視されていた兄が、高校三年生の時に反抗期を起こした。そう聞いた。


 それまでただただ大人しく両親が敷いたレールを穏やかに走っていた兄は、大学に行かずによその町で働くと家を出た。それから家に帰ってきてはいない。なんでも当時付き合っていた彼女と、何かがあったらしい、という曖昧な事を人伝に聞いた。

 母は嘆いた。父は怒った。けれども兄は誰の言葉も聞かずに、ひょうひょうとしていた。

 両親の気持は良くわかる。

 あんなに兄を可愛がっていたのにその結果がこれとは、両親がとても可哀想だ。両親と違って、私は兄ともう会わないことを覚悟していた。

 

 __けれど、三日前に兄から連絡が来た。


 レポートをしていて、ちょうど夜の三時まで起きていた。もう少しで終わりそうだと、コーヒーの為のお湯を沸かそうと席を立った所で携帯が鳴った。こんな深夜に誰だろうと、すこし恐ろしく思いながら私は携帯を見た。着信画面に表示されていたのは兄という文字だった。何度も見なおして、恐る恐る電話を取る。


「もしもし」


 暫くして、酷く掠れた声で「カイリ?」と尋ねられる。家族というのは不思議なもので、数年ぶりだというのに電話の相手が兄だということは疑うようがない。


「カイリ……」

「え、あ、うん」


 そうだよ、こんな夜にどうしたの。

 そう聞こうと思って止めた。兄の声はあまりにも湿っぽい。なんと電話の向こうで、泣いているようだったのだ。兄が泣いているのを私は今まで見たことがなかった。兄はなんでもできるし、人当たりも良かったし、性格も穏やかで、どこかひょうひょうとしていた。けれど電話の向こうの兄は、酷くボロボロだった。何かがあったことは明白だった。

 暫く、兄は電話の向こうで嗚咽を上げながら泣いていた。そうして、囁やくように言った。



「たすけてくれ」


 どうしよう。私は困ってしまう。


 こんな弱音を聞くのも初めてだった。

 怖い想像が頭を駆け巡る。

 殺人、恐喝、詐欺……。被害者になったのか加害者になったのか。


 彼は兄ではあったけれど、薄情な私にとってはもはや他人のようだった。だから、本当は関わりたくない。


 けれども、私は人を見捨てる方法を知らなかった。


 どうすればいいのか分からず、沈黙が私と兄との間に訪れる。携帯越しに、兄のすすり泣きが聞こえていた。


 少しの間考えても答えが出なかったので、「どうすればいいの」と尋ねる。


 聞いた後で、私は何を言われてもいいように体を硬くした。出来る限りの最悪な状況を想定し、警察、家族、救急車の電話番号を思い返す。けれども、最悪の想像よりも兄の言葉は悪くなかった。

 

「会いたい」

 


 



 

 そうして、私は家族の誰もが知らない兄の住所を手に入れた。

 誰にも言わないで、と兄は言った。私は兄の全ては分からないが、それでも酷く寂しがっていることには気がついた。それでも、誰にも言わないでというのだから、酷く矛盾している。








 夕橋町は、なんというか古い空気のままの町だった。

 山と海に囲まれ、ここだけ時代に取り残されたのかのように、あらゆる建物が古ぼけている。兄の住んでいるアパートは、駅から徒歩で三十分程の所にあるらしい。

 けれど兄と私の歩幅の差か、早足で四十五分ほど掛かった。



 兄の住んでいるアパートは、海がすぐ傍の小高い場所にある。酷くぼろぼろの、さびたアパート。白い壁には茶色いサビと黒いシミのような汚れが至る所にこびりついている。ここにあの兄が住んでいるなんて、全く信じられない。記憶の中の兄は、いつだって人々の中心にいて、美しい微笑みを浮かべていた。

 


 私は兄に電話をした。この眼の前のアパートが、本当に兄のアパートか確認を取るためだ。よくわからないが、兄には駅まで迎えに行けない理由があるのだと言っていた。それでも、さすがにアパートの前までは出てくるだろう。


 けれど、兄に電話は繋がらない。そういえば、今朝も出発する時に電話をかけたが繋がらなかった。……本当に居るのか? もしかして、騙されたのか?


 私は急に不安になる。

 けれど、ここまで来たのだから、ここで帰るのはなんだか勿体無い気もした。それに、もう日がだいぶ沈んできて肌寒かった。

 私は、兄が住んでいるという部屋……104号室の前に立つ。インターホンを鳴らそうと思ったが、インターホンがそもそも無かったので諦める。とりあえずドアをノックする。……返事どころか、物音一つしない。


 私は途方に暮れてしまう。


 もうすぐ太陽が沈む。

 今から家には、終電の時間的にも帰れないだろう。

 この町に、泊まる場所なんてあるのだろうか。

 

 

 とりあえず、今日は引き返そうと扉に背中を向ける。

 そうすると後ろから風が吹いたのか、首筋に冷たい風が吹き付けた。


「たすけて」



 驚いて振り返る。誰か、いや兄の声が、耳元でしたのだ。背筋がぞっとするほど冷たい。見ると腕に鳥肌が立っていた。

 耳をすませるが、聞こえるのは波が寄せては打ち返す音だけだ。


 空耳か?


「お、兄ちゃん。……そこに、居るの?」


 口の中がカラカラだったが、恐る恐る尋ねる。声はしない。けれども、なんとなく此処に兄が居るのではないかという予感があった。嫌な予感しかしない。私はまた扉をノックする。そして、ドアノブを回す。鍵が掛かっていたら、もう帰ろうと思った。というより、もう帰りたかった。



 けれども、鍵はかかっていなかった。軋みながらドアが開く。むっとした生臭さがして、私は少し顔を顰めた。


「はいる、よ」


 隙間から、恐る恐る中を覗く。

 最初に見えたのは、畳の上に置かれた水色のビニールプール。

 そして中に身を浸している、兄__いや、おそらく兄だったモノ、だ。




 





 死にたいと思った。

 そう思って、やはり死ぬのは怖いし、寂しいと思い直す。

 そもそも死ねるのかさえ分からない。


 どうしようと思った。もう自分の力では立ち上がれない。足は痺れたように動かないし、鱗のようなものがびっしりと生えている。誰にも見せられない。自分の体ながら気持ち悪くて、目をそらす。

 

 自分でも受け入れられないのに、誰が受け入れてくれるのだろう。

 息苦しい。

 最初は生えてくる鱗を、痛みを堪えながら抜いていたが、何度やってもすぐに新しい鱗が生えてくる。それに、もう鱗を抜く力すら残っていなかった。

 ビニールプールの中には、ぷかぷかと鱗が浮いている。鉄臭さが充満しているが、窓をあける気力も残っていなかった。


 気持ち悪い。

 俺は人間では無くなってしまったのか?


 頭がぼんやりとしている。

 俺は、俺ではない何かになろうとしている。



 どうしようか。

 一人きりで、俺が終わってしまうのはとても悲しい。

 

 水はまだ出るが、電気もガスも止まっている。水も、もう少しで止まると思う。


 一体、どうしてこんな事になってしまったのか。

 あの時までは上手くいっていた。




 高校三年生の時、クラスに一人の女が転校してきた。


「八尾邦子です」


 夕橋町から来たという彼女が、俺の全てを壊した。




 あの気味の悪いほど真っ白な体と、ぎらぎらとした瞳。首を絞めた時の、あの柔らかい肉の感触を、未だに俺の指先が覚えている。


 幻想を振りほどくように目を開ける。

 影にあの化け物が潜んでいるような錯覚を覚えて、くらくらする。


 もうだめだと思って、遺言を残そうと思った。

 父と母に、謝って……。ああ、でも電話やメールをするとなると、とても騒がれそうだと思った。いや、もう勘当されているのかいないのか、そんな微妙な間柄なので、冷たくされるかもしれない。


 相談すれば良かったのだろうか。

 八尾邦子の首を締めたあの時に。どう説明すればよかったのか。


 ふしだらな関係を?

 口の中を噛み付かれたことを?

 殺されそうになったから、殺したことを?

 そして目の前で、彼女の体が塵となって消えてしまったことを?

  

 馬鹿げている。


 携帯を手繰り寄せる。開かなくてもわかる。もう充電は殆ど無い。これが、今では家族と俺を繋いでいる一本の線だ。


 こんなものを持っていて何になる。捨ててしまえば良かったのだ。

 家族に迷惑を掛けられないからと家を出たのなら。


 今までプールの中に、沈めてしまおうと何度思った。けれども、今の今までそれを出来ないでいるのは俺が弱いから。



 ふと、どうして今まで思い当たらなかったのか、自分に妹が居ることに気がついた。

 いつもどこかぼんやりとしている妹。妹は俺の心配をしているだろうか。

 自分で投げかけた問にすぐに首を振る。


 俺が家を出ると話した時、泣き崩れた母を慰めて、激怒した父を宥めていたのが妹だった。年末年始に帰ってきた妹は、両親から聞いていただろうに、俺に対して態度が全く変わらなかった。俺の進路が原因で両親が夫婦喧嘩をした後は、それぞれの所にいって宥めていた。


 両親と俺の問題だった。間に挟まれていた妹は、肩身の狭い思いをしていただろう。けれど全く顔色は変わらない。

 ああきっと彼女は、ずっと家族に気を使いながら生きてきたのだろうな。よく出来た妹を持ったと、その時俺は漸く気がついた。


 妹なら、俺が遺言の電話をしても悲しまないだろう。きっと遺言を両親にうまく伝えて、あの時のように父と母を宥めるだけだ。

 

 俺が遺言の電話をするなら、妹だ。

 すぐ電話をしようとして、今が夜中の三時過ぎだと気がつく。

 

 寝ているに違いない。けれどここで後回しにしたら、一生電話が出来ない気がした。もう、電話をする勇気も気力も搾り出せそうにない。少し悩んで、祈るように電話をかけた。コール音がする。妹は出ない……。あと、三回コール音がしたら諦めよう。けれど三回ではやっぱり諦められず、四回目のコール音をぼんやりと聞いていると、突如として音がやんだ。

 携帯の電話が切れたのかとひやりとした俺の耳に、「もしもし」と妹の静かな声が聞こえてきた。


「……カイリ?」


 名前を呼ぶ。全く信じられない。けれど電話に出てくれたことは幸運だ。


 俺はもう死ぬと思う。

 だから両親に謝っておいて欲しい。


 そう続けようとしたが、胸が詰まって言葉が出てこない。

 口から再び出てきたのは、妹の名前だった。うん、と妹が少し戸惑ったように頷いた。悲しくて、苦しくて、懐かしい。気がつけば俺は泣いていた。

 電話の充電もないのに、こんな事をしている時間なんて無いのに、さあ、速く別れを言わなければ。そう思っても、口から出たのは「助けて」という言葉だった。


 そうだ、俺はずっと誰かに助けて欲しかったのだ。

 




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