躍水少年編 (二)
去年の夏は、しつこいくらいに学校での怪談話しがマスコミを賑わした。
トイレの花子さんを筆頭に、あかずの教室があるとか、学園七不思議とか。
口コミで広がる噂に、小学生たちは本気で怯えていた。
子供の頃って、そういうものなのよね、と彩子は静観していた方だった。
この街は、秋になると御鷹姫の幽霊騒ぎが起きるので、そういった噂には慣れていると思っていたのだが。それとこれとは、全然別ものらしい。
稜学でも、もっともらしい噂や、体験談が騒がれては消えていった。
作り話だと、そんなことあるわけないと、笑い飛ばしていた彩子でも。
夜の、完全に人の気配のない校舎は、言いようの無い圧迫感がある。
街灯に弱々しく照らされて、真昼とはまったく別の顔立ちが、そこにあった。
くっきりとした陰影。窓に浮かぶ数え切れない深い影の中から、闇の住人が伺っているのではないか。彼等が独占する夜を乱す者へと、憎悪の視線を滑らせ、昂らせているのではないか。
一番低い金網を乗り越えてきた彩子は、それだけでも後ろめたい気分だった。
「……す、すぐに帰るもん……」
どうしても、校舎へと探る視線を送ってしまう。何か、噂を肯定するような存在がありそうで。廊下に規則的に配置された、非常ベルの赤色灯を何かが遮ったなら……。……変わりは、ないけど。
懐中電灯を握り締めて、彩子は校舎に背を向けた。じっと、足元に目だけ向ける。背後からの弱い光が、彼女の影だけを長く作っていた。
後ろから誰か近付いたら、必ずわかる。
……ただし、影を持つ存在のみ。
影が無いって……、何のことよ……?
「すぐに帰るからっ……」
彩子は、頼むように言い捨てて、テニスコートへと走り出した。
……見当たらない……。
三橋と騎道が打ち合いしていたコート。ネットもポールも撤去されているけれど、間違えるはずがなかった。
たくさんの足跡で踏み躙られた白線。
乾ききって、磨り減ってしまっている土の上を、彩子は懐中電灯の灯りを何度も往復させてみた。
最初に、洗面器の中で見つけたように、石は光を反射するはず。この暗さなら、見落とすはずは絶対にない。
「誰か、拾ってくれたのかな……?」
ここにはないことは、これではっきりとした。休み中に何度かある、全校召集日に聞いて回ればいいだけだ。
彩子は、ハーフ・パンツのポケットから片割れの石を取り出してみた。
やっぱり、きらきらと光を反射する。
「よし。帰ろっ……と……。 !」
思わず、彩子は肩をすくめてしまった。
大きな音がした。
それも、ごく近く。
本当は、過敏になっていた神経のせいで、ひどく大きく聞こえたに過ぎない。
彩子は半ばしゃがみかけながら、あたりを見回した。
水の音のようだった。ならば、木立の向こうのあるプール?
しばらく、彩子は耳を澄ませた。
パシャンと、いい加減、錯覚だったのかと思い始めた頃、二度目の水音がした。
……水? プール? 水中?
「あ、暑いから、誰か泳いでいるのよ……」
夜になってから、気温はぐんと下がっていた。ほてった地表の暖かさが、丁度いいくらいだった。
河童……かな?
…………。近くに竜頭川があるのに、プールに来る?
厭々、そういう問題じゃなくて。
彩子は、歩き出していた。
引き返すのではなく、プールに向かって。
勿論、怖い。怖いけど。
内心では。
……これだから刑事の娘って……。
旺盛すぎる自分の好奇心を、少しだけ呪っていた。
彩子は体を低くして、プールの周囲を迂回し、入り口の方に向かった。
思った通り、入り口は柵があって鍵がかかっている。柵は目の高さ。
「この程度の高さだと、乗り越えられちゃうのよね」
足音を忍ばせて、鉄棒の要領で柵の上部に手をかけて伸び上がる。そのまま上半身を傾けて身を乗り出し、両足を引き上げて逆の要領で降りる。
着地と同時に、彩子は柵を握り締め、体を低くした。
また水音。手前の五十メートル・プールの水面は静かなものだった。
飛び込み専用のプールだ。水面はここからでは見えない。彩子は移動した。
ザラッとしたコンクリートに、スニーカーのソールが吸い付くように取られる。
その感触に、最初ギクリとさせられた。
あたりは静かだった。風も無い。
彩子は素早く足を運んだ。
水音の間隔が、聞き落としたのかと思うほど長かった。潜水しているのなら、とても人間技とは思えない。ただ、浮いているだけなら、納得はできる。
プールサイドは完全に闇だった。数本の光の矢が、何ヶ所かをぼんやり照らすのみ。彩子は影の中を選んで足を止めた。気配に、素早く座り込む。
ざばっという、水音とともに、人影が手摺りを伝って上がってきた。
確かに、人間。足もある。
頭を軽く一振りして、前髪を跳ね上げる。……同じ年くらいの、少年だ。
ひたひたと進んで、飛び込み台へと向かった。彼はジーンズ姿。上は体に張り付いたノースリーブのTシャツだった。
軽い足取りで階段を駆け上がっていく。
飛び込み台の頂上は、向こう側の街灯に照らされ逆光になっていた。均整のとれた体がくっきりと浮かび上がる。
彩子は、呆気に取られてしまった。
あの高さは、たしか十五メートルはある。
水泳部の飛び込み専門の部員でも、そう何度も練習はしていない。
それを、何のためらいもなく、少年は踏み切り台の一番先端まで進んだ。
小さく、その場で跳躍。
空中で屈伸して、頭から落下。
一度大きく広げた腕を、落下の途中で前方へきれいに揃える。
しなやかな魚のしぐさのように、体をひねる。
指先から着水。
以前、大会の応援に借り出された時、聞かされたことがある。飛び込みでは、飛沫が少なければ少ないほど、美しいフォームで飛んだということになるのだと。
プールが、彼を飲み込んだかのように、水飛沫はほんのわずかしか見えなかった。
ただ、飛び込んだだけなのに。
彩子は、とても眩しいものを見せつけられたような気がしていた。
あの、時間を空けたかすかな水音は、これだったのだろうか?
彩子は、ドキリとした。
少年が浮き上がってこない。
競技で見ていた選手たちは、すぐに水から上がってきたのに。消耗して、震えてもいた。
彩子は勢い良く立ち上がって、プールの縁に駆け寄り、膝を付いた。目をこらしても見えるはずがない。光の射さない水中は、黒々とした闇の液体だった。
ゾクっとして、彩子は体を引いた。
こんな中に飛び込むなんて……。
怖くないの? 暗くてプールの底も見えないのに……。
「……飛び込み専用だから、十分深いってわかってるけど……」
彩子にはできない。今のプールに、足を浸すことさえ願い下げだ。
人の気配に、彩子は吸い込まれそうな水面から顔を上げた。さっき、少年が登ってきた手摺りとは、逆の方向に、居る。
プールの縁、暗がりの水中から、腕が伸びて何かを握り締め引っ込んだ。
チャプン。と、水音。水をかく、ひそやかなさざ波が、彩子へと向かっていた。
彩子は立ち上がった。後ずさりしたくても、靴底がうまく滑らない。体も硬直していて……。
……来ないで……。
「やっぱり、彩子さんだった」
「……え?」
聞きなれた声のような気もするが。
ニュっと、彩子の足元へ、闇のプールの縁から両手が伸びる。
「どうしたんですか? こんなところで」
明るい声。でも声だけで、顔は見えない。水の中から、上がってこない。
……こんな所で、騎道が泳いでいるはずないよ。騎道は、今日の昼間、日射病で倒れて体が弱ってるのよ。ここに居るはずない。
ありえない。
「……彩子さん? 何かあったの?」
「ち、近寄らないでよ……!」
戸惑うように、両手が引っ込んだ。
「あの……、僕ですよ? 騎道です」
人影がはずみをつけて、浮上してきた。
彩子は精一杯身を引く。
てらりと濡れた手が、追いすがる。
「! きゃ………!」
冷え切った指先。するりと、触れた。
にゅっと顔を突き出すのは。
黒縁の眼鏡をかけた。騎道若伴だ……。
かくんと、彩子の膝の力が抜けてゆく。
「あぶない! 彩子さん!」
騎道は支えようとしたのだけれど。いまさら、緊張がとけて軽くなった足元が滑り出した。
彩子は目を閉じようとした。
すぐに諦めた。閉じても閉じなくても、目前は全てが闇であった。