躍水少年編(一)
夏は暑い。
当たり前のことだが、それを素直に受け入れられない人種は、日本全国、少なからず居る。
無論、この灼熱の太陽、熱帯夜、開放感が大好き! な、人々も居る。絶対に存在する。
なぜならば。夏は暑い、それ故に休暇が長い。結果、夏休みが訪れる。
こんな図式を知っているから、人は夏を待ちわびたりもする。
特に、長期休暇を約束されている『学生』と呼ばれる人種は。
生まれ変わるチャンスを与えられた者のように、大きく豹変する。一学生ではない自分を探しに飛び出して行く。
真夏に生まれる、解放区へと。
明日カラ夏休ミ……。
騎道は、嬉しいながらも、あまり現実感のないまま、凄雀学園長宅へと早足で帰ってきた。
玄関先にスーパーの買い物袋を置いて、騎道は奥へと声を張り上げた。
「遅くなってスミマセン!
すぐに、お昼御飯を造りますから」
……返事はない。
おわーっ。きっと、怒ってる……。
靴を履き直し、そーっと、玄関を出て庭へ回ってみる。
こじんまりとした日本庭園を抜けて、母屋では一番奥の和室に向かっていた。
昼過ぎという時間なのに、ここだけはひんやりとした風が抜けていく。書斎にするには、一番適した一角だった。
ガラス戸をすべて開け放しにした縁側にすりよって、騎道は中をうかがった。
庭に向いているのは、白いワイシャツの広い背中。頬杖をついているので、左に寄り掛かり気味。うつむき加減。
乾ききらない前髪が、大きく目元に落ちている。
「……眠ってるんだ……」
騎道は、敷居を枕にして両手両足を投げ出すという、空中を踊るようなポーズで眠っている、子猫たちに目を止めた。
真っ白と、黒の多い白黒猫。まだまだ、眠ることが日課な年頃だった。
「よーく考えると。君達は毎日が夏休みだよね」
羨ましさ半分で、小声で話しかけてしまう騎道だった。
もう一度、凄雀の背中を振り返る。
膝を付いて廊下に上がり、覗き込む。
書類が、彼の部屋としては一番珍しく、山のように積まれていた。
この状態は、二日前から出現していた。
……プレッシャー、かかってるんだよな……。
実務作業は、凄雀が苦手な仕事の一つだ。自分で直接行動したり、人に命令するのは、誰よりも的確で素早いのに。じっと座っていることは苦痛なのだ。
それも、他の教師の代理なんて最悪だ。
2Bの担任である狭山が入院してしまい、学年主任も研究発表で不在。騎道たちは成績表を貰い損ね、学園長代行である凄雀の目の前に白紙の成績表が積まれていた。
逃げが打てない苛立ちが高じて、凄雀は今日の競泳会にエントリーしてしまった。メイン・イベントである着衣リレーのアンカーマン。
教師が一名出場することは、毎年のことだった。誰が出場するか、発表はレースが始まってから。これは、レースのギャンブル性を高めるための一手段だった。
教師が参加するのは、第三走者が最下位か一位のチームと決まっていた。
このレースで最下位のクラスは、プール掃除を一回、というペナルティが課せられる。その救済が一応の目的だが、逆に足を引っ張る例も、過去に何度かある。
それを免れる為に、全クラスが各走者のペース配分に頭を悩ませる。その上、服を着て泳ぐのだから、作戦通りに進まないのは明白だった。
かくして。凄雀は自ら進んで出場し、戦況を見計らうと、最下位であった3Dのアンカーを下がらせ、時計だけは外して、飛び込んでしまった。
彼の母親である学園長夫人が見立てた、高級サマースーツのまま。
上着もネクタイも外してはいけないルールではあったが、そうとは思えないほど鮮やかな泳ぎで、3位入賞してしまった。
そのおかげで入賞を逃した2B三橋は、わざとペースを落として3位を選んだ! と怒り。騎道も、その通りだと頷いた。
たぶん。子供相手にムキになる必要もないと考え直したものの、2Bにだけは負けてやるまいという当て付けだ。
……それだって、十分に大人げないのに。
「……あのスーツ、どうしたんだろ?」
お母さんに見付かったら、叱られるよな……。
否。学園長夫人が不在であるからこそ、できた暴挙であったのだ。
騎道にとっても母親代わりである彼女は、現在、病気療養中の学園長と、夫婦揃って箱根に投宿していた。気が向くまで帰らない、と言い残し。
そして、お手伝いのかつ江も今日から夏休み。夫人が戻るまでの予定だ。
男二人に子猫が二匹。凄雀家は、ある種の無法地帯と化していた。
「お昼御飯、どうしよう……?」
二時を回ろうとしていた。子猫の白い腹を撫でてやりながら、騎道は思案した。
十分、騎道一人で事足りると信頼されて、夫人たちの留守を彼は任されていた。
家事全般。一人暮らしに慣れた騎道には、難しいことではないし。凄雀との二人だけの生活というのも、今に始まったことではない。問題はないのだが。
前触れもなく、凄雀が頭をもたげだ。
「! 遅くなってすみません! すぐに、お昼にしますから」
騎道は慌てて、縁側を降りて玄関に引き返そうとした。
「時間無いから、素麺にしますね」
振動に飛び起きた子猫が、小さく欠伸をしてみせる。
背中を向ける凄雀が呟いた。
「……素麺より、冷やしうどんがイイ」
…………。
なーんでー? どーしてー?
この後に及んで、そーゆーワガママ言いますかー?
それも、いい年の大人が……?
「で、でも。時間、かかりますよ?」
「…………」
……黙って、しまった。
眠りなおしたわけではない。作業に戻ったわけでもない。硬直した時間だけが、騎道に押し迫ってきた。
「僕、うどん、買ってきます……」
凄雀遼然三十二歳。冷徹な容貌の持ち主も、一皮剥けばただの我が儘男でしかない。
同時に、そのクールさを自我を通す為にも応用できる、したたかさも持ち合わせていた。
小一時間後。騎道は、新たな試練に直面した。一枚の折込チラシが、空になったガラス鉢の脇に差し出されたのだ。
『どぜう』と大きく印刷されている。
「……捕ってこい」
と、一言。何を食べても変わらない表情で、凄雀は言った。子猫に、小さくしたうどんを食べさせてやりながら。
その一瞬だけ、凄雀の瞳が優しくなる。
「……。あの、釣るんですか?」
「そこに書いてある通りだ」
チラシには手書きのイラストがひしめいている。釣竿や手網、ぴちぴち跳ねる、どぜう、らしきもの。『夏のスタミナ』という、これも手書きのコピーまで。
場所は、考えるとさほど遠い場所ではない。竜頭川近くの釣堀だった。
「……行ってみます」
なんだろ? どぜう、って?
はてなマークで頭は一杯だった。
チラシをジーンズのポケットに挟み、すたすたと玄関に向かった騎道は、思いついて凄雀を振り返った。
「どうするんですか? 飼うの?」
「……。お前は、捕ってくるだけでいい。
あまり詮索するな」
釘を刺されてしまった。
こくんとうなずいて、騎道はかつ江が使う自転車で家を出た。
きらりと、小さな光りのさざ波に打たれて、騎道は凄雀家を見直した。
凄雀の書斎の軒先に、透明なガラスらしきモールがいくつもぶら下がった、風鈴が揺れていた。
不思議なのは、音がしないこと。風を受けて、光りは反射するのに。
帰ったら、凄雀に訳を聞こうと決めて騎道は自転車を漕ぎ出した。
刑事に、秋だ、春だ、冬だ夏だ、夏休みだは、ナイ。年中無休、二十四時間働いてマス! がモットーである。
その中でも、彩子の父親のように、仕事熱心な中年刑事は中毒と言っていい。
たった一人の片親が不在がちであることには、彩子は慣れきっている。逆にこの夏は、ラッキーなくらい。
世間に後ろめたい行動をとるつもりはないが、父親が知ったら激怒ものだろう。
妹には口うるさい兄も、ご同様の反応を示すはず。たかがアルバイト一つに。
「ほんとに。兄さんが去年、司法試験に落ちてくれて助かった」
兄勝司は、受験準備で帰郷できなかった。この好機を逃す彩子ではない。
明日からのバイトに備えて、彩子は服を選び始めた。地味すぎず派手でなく。ごく普通の子に見えて、でも高校生には見えないように。
「帽子と、サングラスも要るかな? あと、日焼け止めもって言われてたんだ……」
一通り揃えると、彩子は制服にアイロンをかけておくことを思いついた。
アイロン台にスカートを広げてみると。
「あ……。届けるの、忘れてた」
ポケットには、水飲み場で見つけた石が入れっぱなしだった。
「あれ? 一つしかない……」
もう一つあったのだ。二つとも、すこし水色がかった長方体の石。それは、完全に透明な水晶よりも魅惑的な、潤んだ輝きを内に持っていた。
どこかで、落としたんだ。
ポケットから滑り出るくらいだから、普通に歩いていて無くしたはずがない。
「……テニスコートね。たぶん」
日射病で倒れた騎道や三橋の為に、コートの中で彩子は何度か座り込んだ。その時だ。
明日、探しに……。
「無理だ。バイトに遅刻しちゃう……」
初日から遅刻って、印象悪い。それに、向こうから誘ってもらった仕事だから、失礼なことはできない。
テニスコートは、明日から工事だって騎道は話してくれた。だから二人とも、テニス部員に混ざって、あの炎天下の中で打ち合いをして、結局、他人に迷惑をかけた。三橋なんて、あの後プールで溺れたらしい。……常識無いんだから。
「懐中電灯、どこにあったかな?」
彩子は、この石は一つだけでは意味がないような気がしていた。二つでなければダメ。放っておいたら、工事に紛れて本当に無くなってしまう。