言いたいことは
「……」
霧生木さんの反応は鈍かった。
平手打ちされてから数瞬間があり、それからやっと顔を元の位置に戻す。
「柳先輩……?」
虚ろだった目に、少しだけ光が戻る。
目の前にいた柳先輩に焦点が定まったようで、不思議そうな表情になった。
「四葉ちゃん、もう一発、入れた方がいいかな?」
柳先輩の目には、涙が浮かんでいた。
睨み付けるような視線は、つい先ほど打った頬が映っている。
霧生木さんの頬は、ほんの少しだけ赤くなったかと思うと、すぐにそれが引いた。
一瞬で、体が直してしまったのだ。
思いのこもった一撃も、なにもかもを、霧生木さんの体は無にしてしまう。
「……大丈夫です」
霧生木さんもそれに気づいたらしく、打たれた頬をさすりながら返答した。
「先輩、と、祭君……。どうして……」
俺の姿があることにも気付いたようだ。
けど、いつものような覇気がまるでない。
喋るのも億劫なのか、かたことだった。
「霧生木さ――」
「四葉ちゃん」
俺が答えるより先に、先輩が言葉を紡いでいた。
「四葉ちゃんが、どうしてこんなことをしているのかは知らないよ」
声が、震えていた。
「それでも、こんなことだけはしちゃいけない。今、落ちる前の君を見て確信した。これは、自殺だよ。……死ぬつもりなんてないと言っていたけれど、本当にそうなのかい? わたしには、死んでも構わないという風にしか見えなかったよ」
胸に溜まっていた思いを、吐き出すように、先輩は言う。
霧生木さんの瞳を真っ直ぐ見つめて、強く、語りかける。
雨に濡れるのも構わず、涙声のまま続けた。
「この間、関係ないと言われて、へこんだよ。四葉ちゃんには家族と同じような感情を抱いていたからね。なにか悩み事があっても、わたしになら話してくれるかもしれないと、そう思っていた。それなのに突き放されて……。でもね、そのおかげで自分の身の程を思い知った。誰かのためと言いつつ、わたしはわたしのしたいようにしかしていない。四葉ちゃんの気持ちなんて、少しも考えていなかった。だから、もし、四葉ちゃんが本心から放って置いて欲しいと言うのなら、そうしたいと思う」
激情に任せて、声を絞る。
霧生木さんの心に少しでも触れるように、先輩は顔を寄せて叫ぶ。
「けど、これは、駄目だよ。絶対にだっ! 君は、自分の体がどうなってもいいと思っているのかもしれない。なにかあってもすぐ直ると思っているのかもしれない。いや、実際、そうだよ。君の体は凄い。どんな傷でも、すぐに直してしまう。……でもっ、死んでしまったら何も意味がない! わたしは、四葉ちゃんには死んで欲しくない。君が傷つくことで、悲しむ人間がいることを、少しは理解してくれ。……もう、一度だって、君が飛び降りるところなんか、見たくないんだ」
「……」
霧生木さんは、無言のまま、先輩の言葉を受け止めていた。
表情に、変化はない。
先輩を見返す目にも、疲れたような色が宿っているだけだった。
「……」
暫し、場が停滞した。
柳先輩は自分の言いたいことは言ったというように、霧生木さんの言葉を待っていた。
やがて、霧生木さんは、ため息とともに口を開く。
「言いたいことは、それだけですか」
ぞっとするような声音だった。
柳先輩を厳しく睨み付け、言い放つ。
「なにかと思えば、綺麗ごとばかりをごちゃごちゃと。先輩がどれだけ私のことを心配していても、それがなにになるって言うんですか? こんなことまでして、目的はなんですか。飛び降りを止めたいだけですか? 凄いですね綺麗ですね素晴らしい思いですね。嫌というほど伝わりましたよ? で、だからなんですか? そんな簡単にことが進むのなら、とっくの昔に解決してますよ」
「違う。そういう意味じゃ――」
「そういう意味でないなら、なんですか? 事情を知らない人間が、偉そうに人の家庭事情に介入しようとして、ふざけるのも大概にしてください。私の望んだことをするって言いましたよね? それがなんだか分かってるんですか!」
苛々しているのが、目に見えて分かった。
たぶん、これこそが、霧生木さんの抱えているモノだろう。どうにもならない現実を、たった一人で抱え込んで、やりたくもないことをしなければ精神が崩壊してしまいそうな……そんな、暗闇。
「……」
先輩は霧生木さんに圧倒されてしまったようで、すがりつくような視線を送っているだけだ。




