だから私は
「……っ」
ぽたり。
どこに行くわけでもなく、歩いている内に、どうしてか涙が出てきた。
あえて、拭こうとも思わない。
ぼんやりと星空を見上げる。
兄が、おかしくなったのは、お父さんが死んでから数週間経った頃だった。
お父さんが放っていた、穏やかで楽しい空気が家から完全に消え失せた時、それは起こった。
今まで一度もなかった、親と子供の、大喧嘩。
いや、喧嘩と呼べるのか実のところ怪しいものがある。
兄は、明らかに性格が歪んでいた。
他者を嘲笑い、自分の方が優れていると確信しているような、そんな感じだった。
実際、兄の言い回し、口調、仕草等はおかしな方向に異様に発達していた気がする。
他者を挑発し、自分の土俵に持ち込む、という面において。
兄はお母さんを怒らせ、屁理屈をこね回し、いつでも自分は悪くないと、お母さんに認めさせた。お金を盗んだり、物を壊したり、自分勝手なことをしているのに、だ。
私はいつでも、一度は割って入ると決めている。どうにもならなくても、どうにかできるのは自分しかいないと感じているから。お父さんがいた時は、穏やかに過ごせていたのだから、なにか一つでもまとまるきっかけがあれば、元通りになると信じているから。
当然、二人が喧嘩になる前の会話にも、気を払っている。兄は喧嘩の時以外は基本的に喋らない。だけど、私とお母さんの会話は確実に聞いている。そこに付け入る隙や、不満があるとすぐに入ってくる。そうならないよう、私は細心の注意を払って、会話を誘導している。
ずっと、この一年間、そんな風に過ごしてきた。
でも――もう、疲れた。
「……」
また、涙が溢れた。
自分だけでどうにかならないかもしれないと肌で感じた時、友達や先生に相談した。
けれど、誰一人として、解決策はくれなかったし、最後は「四葉の言う通り、どうにかできるとしたらあなただけだよね」と締められた。一番尊敬していた柳先輩でさえ、難しい顔をするばかりで、自分には話を聞くことしかできないと言われてしまった。
相談した友達や先生、先輩に悪気がないのは理解している。
それでも、なにか一つでも、アドバイスが欲しかった。
親身になって、そうだよねって、言って欲しかった。
他人事みたいに、言わないで欲しかった。
誰も彼もが、私の体のことや、家族問題だからという理由で、壁を作っていた。
だから私は、その後、誰かに相談することをやめた。
信じている人、尊敬している人、大好きな友達、皆に無理だって言われたから。どうしようもないって言われたから。相談しても、意味がないって分かったから。自分一人で頑張るしかないんだって、理解できてしまったから。
「……」
きっと、世の中にはもっと酷い家庭があるんだと思う。
私の家は、喧嘩が起こっているだけで、虐待があるわけでもなく、食べていくものがないわけでもない。恵まれた環境にいることをもう少し、自覚した方が良いのかもしれない。
「……でも……嫌だ」
ぽたりぽたりと、雫が頬を伝い、地面へ落ちる。
目の前で、お金が盗まれたの、物を壊したの壊さないの、そんな話を家族同士がしているのだ。そんな状況で、まとも生活しろという方が無理だ。
誰か、どこかへ連れ出して欲しい。
何度、そう願ったか分からない。
いっそ死んでしまいたい。
何度、そう思ったか分からない。
だけど、それすらも許されない。
あの兄が家にいるのを承知で、お母さんだけを残して、どこかへ行くなど、とてもじゃないができるわけがない。なにもできないかもしれないけれど、せめて一緒にいるくらいはしたいと思う。
「……」
ふと気が付くと、御櫻学園まで来ていた。
「大丈夫だよね」
図書館が閉まるギリギリの時間だったけど、まだ校門は開いていた。
屋上までためらいなく歩を進める。
屋上に到着し、フェンスを乗り越える。
こんなことをしたってなんの意味もないのは分かっているけれど、じゃあどうしろというのか。お父さんがなくなって以来、なにをしても気が晴れなかった。
この瞬間だけが、私にとっての、救いなのだ。
ためらいなく、飛び降りた。
落ちる。
意識ははっきりしていた。
今日も、死ななかった。
ただただ、痛いだけの傷を、負った。




