第九話:EQUALITY
9月5日(MON)
城山奈々華は自分の無力さを再認識した。昨夜帰って来た兄から話を聞かされた。最初こそ喜びもした。何せ職が決まり、基本給で100万は下らない仕事だという話だったのだ。プラス出来高払いもあり、二人が暮らしていく分には十分で、来年度以降の学費についても光明が差した。
しかし仕事の内容を聞くに、顔が青褪めていくようだった。奈々華は兄の強さというものを十分に理解しているつもりだ。だが、それでも万が一ということがあるのも世の常だとも知っている。加えて勤務形態についてだ。兄が言っていたように、休学のような形になりそうだということ。つまり不定期勤務。それ自体は珍しいものではないが、学生という点をあまり考慮してもらえず、夜勤も出る可能性が高いという話を聞いて、ますます不安になった。命の危険、学業への支障。ただでさえお世辞にも勤勉とは言えない彼が仕事にかまけて留年などをしてしまっては本末転倒である。その危惧を話すと、既に留年はもうほぼ確定しているから心配ないと返ってきた。何が心配ないのだろうかと、彼の思考回路がわからなかった。
とはいえそういった諸般の事情があるにも関わらず、実際に違う職を探せと強く言えないのも辛いところではあった。彼の言葉を引用すると、俺にはこれくらいしか取り得がないからね、ということだった。実際彼に限らず、大学生の身でそれほどの額を稼ぐ仕事といったら何か抜きん出た一芸を発揮する職以外には考え付かない。
「はあ。しょうがないのかな」
しょうがない。その自身の言葉にも罪悪感がこみ上げる。自分もバイトをして二人で学業に差し障らない程度で働けば、もしかしたらどうにかなるかもしれない。その道は当然提示した。だがそれだけはダメだと強く言われ、何も言えなくなってしまった。そう言った彼の目に少なからぬ愛情を感じた。嬉しくなってしまったわけである。我ながら恐ろしく単純だと、奈々華は呆れかえる。そしてまた自分が我を通して働くと頑なに主張すれば、兄を困らせてしまうかも知れない。果ては嫌われてしまうかも知れない。そう考えると、兄の命や将来を守るためなのに、それなのに……
階下から兄が自分を呼ぶ声がする。相変わらず「奈々華ちゃん」と他人行儀に聞こえる。あまり妹に深く関わらなくなった兄が何故その妹を呼びつけるのかと言えば、一昨日の守るという約束の遂行のためだった。これもまた一層彼女の無力感を助長した。そしてまた全身から湧き上がる喜びも抑えられない遠因だった。
「今日だったよね? 初出勤」
「うん、まあ」
城山には、彼女がどうしてそう嬉しそうに話すのか、理解が出来なかった。彼女の性格からして、まさか自分が働き始めて生活が安泰になるだろうと短絡的かつ利己的な喜びに支配されているなんてことはないはずである。ふと笑む。それだけ薄情ならもっとやりやすかったろうに。
「ごめんね、わたしも働けたら良いのに」
「いや。キミは学業に専念するんだ。友達とも沢山遊ぶんだ」
「……」
ほら違った、と城山は誰にともなく思う。彼の妹は優しく慎み深い。
「俺はそうやって高校を卒業したんだ。キミにも当然にその権利がある」
城山は頭一つ小さい妹を目だけで見る。
「親父がどうかなったとか、金がないとか、それはナシだ。兄妹間で不平等があるなんておかしな話だろう?」
話はお終い、とばかりに胸のポケットから煙草を取り出そうとして…… やめる。奈々華が自分の横顔へ視線を注いでいるのに気付いた。
のんびりと歩く奈々華。遅刻は万が一にもない時間帯で、周囲にちらほら見える学生も、見た目だけではわからないが、一様に真面目そうだった。
「ありがとう。お兄ちゃんは…… やっぱり」
城山は周囲から目を戻して妹を見た。奈々華は言いかけた言葉を引っ込めて、にこりと笑った。
奈々華を学校まで護衛し、家へと引き返そうとしたところで城山の携帯が着信を告げた。三好ハルと表示されている。僅かに顔を顰めて取る。
「なんですか?」
「なんですか、とはいきなりご挨拶ですね」
「僕は帰って一眠りするところなんです」
「眠らないでください。どうせ、貴方のことですから一時間くらいは遅刻とも思わないんでしょう?」
三好はそれほど多くの時間を城山と過ごしたわけではないが、話して五分もしないうちにとてもいい加減な性格だということくらいは掴んでいた。
「アラームはかけていますよ。約40パーセントの信頼度があります」
「その40パーセントとは何ですか?」
「起きる可能性です」
「……今から来てください。少し早いですが、呼び出しに応じてくれた者たちもチラホラ集まり始めています」
「お昼の約束でしょう?」
「貴方が先に反故にすると言い出したんじゃないですか」
「反故にするとは言っていません。約15パーセントの確率で時間通りに伺うと申し上げているじゃないですか」
「なんで減ってるんですか!」
城山は時間通りに起きられる確率が四割と言っただけで、そこから二度寝入りやパチンコ屋へ吸い込まれるという可能性については言及していなかった。
「いいから来て下さい。まさか毎回出勤の数時間前に電話をしなければならない、なんてことにはならないですよね?」
大丈夫だと安請け合いしてから電話を切る城山は、しかし逆のことを考えていた。遅刻についての減給等々の処罰について聞いていなかったし、取り決めていなかったな、と。