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伏魔殿の常識は  作者: ポンカス
第二章:東京夢物語
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第五十八話:退職願

病院の外壁は、雨垂れのまま赤黒く汚れた筋が何本も見受けられ、玄関先のアロエの植木鉢も、土にひび割れが入っていた。築年数が二桁はゆうに超えているだろう外見だけでなく、色々と手入れが行き届いていない様子が、どうにも良い印象を与えない。古い建物こそ、不断の努力で清潔に保ってこその病院ではないか。

「廃墟ですか?」

「病院です」

丸い取っ手のついたガラス戸を押すと、足元ではがれかけたゴムパッキンが一緒に中へとたなびいた。

受付に座った中年のナースもまた、気だるげな雰囲気で声を掛けてくる。見舞いだと告げると、患者の名前を聞かれ、少し手元の資料をめくった後、簡単に部屋番号を教える。二階の角部屋のようだ。一応礼を言って向かう。途中すれ違う看護婦にも会釈をしてみるが、あまり気持ちの良い対応は返ってこない。平気で無視する者までいた。

「外国の安宿ですか?」

「病院です」

ほどなく、柏原の病室の前にやってくる。そこまでに三好が話してくれた内容に、病院の質の悪さの理由を知った。柏原はもう既に体の方は大丈夫だというのに、未だ心が奮い立たないそうで、そういった患者を長く置いておくには、最初の病院は向かなかった。パイプのある大学病院という話だったので、治療専門とまでは言わずとも、平癒した患者にいつまでもベッドを貸し与えるような真似はしないのだろう。いや、どこも真っ当な職業倫理を持った医院なら、あまり好んでやることではないのかもしれない。そうなると、彼を受け入れているということは、金さえ払えば仮病の学生だろうが、バックパッカーだろうが関係ないとでも言わんばかりの、いやらしい話、営利第一のような理念を掲げるところとなるだろう。

部屋の戸をノックする。どうぞ、と返ってきた声も、そういう先入観を持って聞くとハリがないように思えた。引き戸を開ける。

「お久しぶりです」

「ああ。お久しぶり」

三好と柏原が紋切り型の挨拶を交わす横で、城山は男をさりげなく観察する。水色のパジャマに包まれた体は痩身だが、それが元来のものか、病院生活を続けるうちそうなったのかは、わからない。綺麗に剃られているが、髭が濃い体質らしく、顎や鼻の下が青々としている。なんでもないのに軽く口を尖らせたような、しょうゆ顔で、目も細かった。全体の印象としてはしがない三十男。三好の話では二十八とかいうところだったが、それよりも歳経ているように見えるのは、格好や場所のせいだけではないように思えた。とても気が小さそうで、こんな男があんな生き馬の目を貫くような職場で戦っていたとは、にわかには信じられなかった。

「そちらは?」

不躾なつもりはなかったが、視線を配らせているのは気付かれていたのだろう。少し警戒するような様子で城山の方を見る。そんな様子も何か弱々しい小動物を思わせた。

「城山仁と申します。はじめまして」

「ああ、君が」

さりげなさを装いながら、そっと身構える柏原に、自分のことがどう伝わっているか城山は悟る。まあ初日から大立ち回りをしでかした以上、仕方のないことでもある。

「彼には付き添いとして来ていただきました」

柏原が眉間に皺を刻む。

「僕が三好さんに危害を加えるとでも?」

「……」

城山はもう既にあまり男に好印象を抱けなくなっていた。小心者らしく、自分に不利なことや、自分を貶めるような事柄には敏感らしい。

「保険ですよ、保険」

城山が相当に軽い調子でフォローする。

「不幸な行き違いがあったことは、ジュンから聞いたよ。別に三好さんを恨むようなことでもない」

ジュン、というのは榎木のことで、彼の下の名前は純也じゅんやと言った。

「そう、ですか。ですが、わたしの方にも非はありました。キチンと状況を把握してから救急車を要請していれば」

城山は馬鹿馬鹿しい気持ちになる。救急車とは、救急に当たって出動せしめる物であり、呑気に根掘り葉掘り状況を確かめている余裕がない時に、呼ぶのだ。第一、確かめようにも、榎木のあの状態を思い出すだけでも、まともな情報提供が出来たとも思えない。ビルに戻った状態で怒髪天をついていたのだから、現場から電話をかけてきた時点ではもっと取り乱していたことだろう。はっきり言って、三好より榎木の方に問題があったというのが客観的な意見である。

柏原は城山に同意というわけでもないだろうが、とにかく三好の謝罪の流れを打ち切った。大きく何度も首を横に振って。

「もう、いいんだよ。僕が望むのは…… 退職だ」

「え? そんな」

「いいだろう、別に。もともと僕の評価など、お荷物同然のものだったじゃないか」

自嘲するような言い方。

「勿論、妖魔のことを言い触らして回ったりなんてしないよ。まあ、仮にやったとして誰も信じないだろうしね。せいぜい、今かかっているお医者さんから、精神科の先生に代わるだけだろうさ」

「ですが、退職するということは、貴方は稼ぎを失うことになるんですよ? それに、うちの者でなくなるのなら、ここの入院費用もお出しすることは出来ない……」

柏原はさえぎるように、もういいんだ、と繰り返した。

「いつまでもここに居ても仕方ない。出るつもりでは居たんだけど、どうにも踏ん切りがつかなくてさ。でも新しい熱を見つけたし、こうして三好さんが来たことをキッカケに出来そうだ」

「新しい熱?」

そこまで興味を失ったように傍観していた城山が、顔に疑問符を浮かべながら尋ねた。

「そう。新しい熱。もともと、僕にはあの仕事は向いていなかったんだ」

なるほど。文脈から察するに、新しい関心や、それを生かした仕事ということだろうか。

柏原がベッドの中から手を出すと、白い便箋を持っていた。表紙に大きく退職願と書かれている。三好から来訪の連絡を受けて、予めしたためていたものだろう。両手で持ち直すと、それを三好に差し向ける。

「良いんですね?」

柏原は答えず、代わりに腕を伸ばしたきり、微動だにしなかった。

数拍あって、三好はそれを受け取った。

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