第五十七話:HOT COCOA
三好ハルは己の気持ちを持て余していた。
服を選んでいる最中、ふと気づいてしまったのだった。何か、見舞いを口実にデートに誘ったようにも取れるような真似ではなかったか。そして、まるでそうであるというように、自分がああでもないこうでもないと着ていく服を吟味していることが拍車をかけた。クローゼットの中の服がベッドの上にほとんど広げられるまで、それに気付かなかったことも、また自分が浮かれていたことの証左にも感じられた。
何だというのだろう。自分は一体どうしたいというのか。榎木にせっつかれたことが引き金ではあるが、実際責任者として一度は見舞っておかなければならないだろう、とは考えていたことだ。それにつき、ボディーガード役として誰か供を頼もうと思っていた。それはもうずっと前から頭の隅にあった計画ではないか。
じゃあどうして城山を選んだのか。十河であっても良かった筈だ。彼女もまた今日は休みだったはずである。彼女とは懇意にしているのだから、渋られることもなく受けてくれただろう。なのに自分の危険を思ったとき、一番に脳裏に浮かんだのは城山の背だった。妖魔から自分を守ったあの背。腰を抜かして、汚わいに塗れた自分を嫌な顔一つせずに受け止めたあの背。強烈な羞恥と自己嫌悪を伴って思い出すものと思ったのに、不思議と暖かい感情と共にその情景をリフレインしていた。守ってもらう、という状況ではあの背中以上に頼もしいものが自分の記憶の中に無いこともわかった。
そうだ。だからそれだけのはずだ。一番の安全策を取るのは人間の本能と照らし合わせても、何らおかしいことではない。十河では役者不足というつもりはないが、それでも万全に万全を期して動くのもまた責任者の使命というものである。それだけの自覚と、責任を持っていなければならない職業である。
そう、責任者という立場。だからこそ、柏原の怪我についても責任の一端を甘んじて受け入れなければならない。当然のことである。武器を持って人々を守ることも出来ない自分がこういう立場にあり、給与を得ているのだ。折衝や引責という重いものを背負って立つことにこそ、その意義があることに他ならない。そう理解しているし、それだけの覚悟と誇りを持って受けた仕事である。
それなのに。城山の言葉は心の隙間を突いたような気がした。自分の休みを気にしたり、柏原の件でも自分の責任ではないと言ったり。何とも甘ちゃんである。彼らより多くの給料を貰っているのだから、当然の義務である。なのに、嬉しかった。自分のことをそんな風に気に掛けてくれる職員は今まで居なかった。十河にしても、三好の立場というものを理解してか、そういったことを無闇に気遣ったりしない。城山もそんなことに気付かないほど愚かでもないはずなのに、彼はさも当然のようにそういったことを口にした。聞いた瞬間、寒空の下で、暖かくて甘いココアを臓腑に染み込ませたような心地になった。自分は、あまり強い人間ではないのだと判明してしまった。悔しさは不思議となかった。わかってしまった。自分は心のどこかで、誰かの暖かい言葉を待っていた。異質犯罪対策部部長なんて肩書きを通さず、ただの十八歳の少女としての三好ハルを気遣う優しい言葉に、慢性的に飢えていたのだと知った。電話をして、彼に頼んで、良かったと思ってしまった。この世にはパンに飢えている人より、愛情や理解に飢えている人間の方が多い、なんて感じの言葉はどの偉人の言葉だったか。
きっとあの男は、自分にも他人にも甘い人間なのだろう。彼と居ると駄目になってしまいかねない。律するところは厳しく律して接しないとならない。尻に敷いて手綱を握っておくくらいが丁度良いのだろう。
そこまで考えて、はたと気付く。何を、自分は貞淑な妻のような、良妻賢母のような決意を抱いているのだろう。別に彼と付き合うことになったわけでもなし。
そんなことを考えて、またまた気付く。頭の隅で、彼と付き合った時の様子を空想している自分が居ることに気付く。
頭を両手でクシャクシャとやる。静電気のように、柔らかい毛が至る所、浮き上がってしまった。
「何をやっているの」
言葉に出して、自分で自分の混迷を指摘してみることによって、少しは自分を客観的に見ることが出来たような気分になる。そして、冷静になってみると、自分の今の姿は、下着のまま鏡の前で眉間に皺を寄せたまま、服をひっくり返している、奇人のそれである。
とにかく服を決めて、出なければならない。もう約束の時間まで二時間とない。無理を言って休日に付き合わせるのだから、自分の方が遅刻するなんてことがあってはならない。
結局自分が一番気に入っている服を着て、駅前のロータリーで城山を待つ。
約束の時間の、ほぼ二分前に、のんびりと咥えタバコしながら歩んでくる城山の姿が見えた。覇気のない姿に、しゃんとしろと怒鳴ってやりたくなる。服装も、めかしこんだ三好を皮肉るように、いつも職場に来るような飾り気のないものだった。安物の青のパーカーは肘の辺りの生地が毛羽立っているし、黒の綿パンも良く言えば着古した感じだが、悪く言えば耐久年数を超えて履いているだけ。ザ・普段着。
「すいません、待ちましたか?」
「……いえ。遅刻というわけでもないですから」
「じゃあ、行きましょうか。向こうに車が停めてあるんで。チュウキン貼られる前に行きましょう」
何となく予想はしていた。この男、あまり下心というものを感じさせない。言ってしまえば、てきとうに生きているフリして、実は隙をほとんど見せない。だからこそ飾らない、素直に響く対応や言葉が出せるのかも知れないが、どうにも変に入れ込んでしまった自分が恥ずかしくなってくる。こっちもおかしな意識などせず、普段どおりにしておけば良かった。そんな思いが三好をとらえると、途端に寒気を覚えた。今着ている服は、少し薄手である。ファッション性を重視して、今日は少し冷え込むという天気予報を軽視した結果がこれである。とんだピエロのようだ。
重たい溜息が出る。するとそれを聞きつけたようなタイミングで先を歩く城山が体ごと振り返る。一瞬ギクリとした。情けないことに、この期に及んで、今のを聞かれて気分を害したのではないかと心配になった。だが城山は温和な笑みをたたえており、どうもそういうことではないと悟る。
「ちょっと待ってくださいね」
ズボンのポケットに手を突っ込むと、中から缶のココアが出てくる。
「今日は寒いですからね」
はい、と三好に渡してくる。受け取ると丁度良い人肌ほどの温度になっていた。礼を言って受け取ると、プルタブを開けて、一口飲む。途端に、体中に心地よい暖かさが染み込む。ほうと白い息が口元から零れた。
歩いていく城山の背に、三好はぼそりと呟いた。
「こういうの、ずるいと思います」