第五十三話:CAN’T FALL ASLEEP
いやがうえにも飛ばし気味に帰宅すると、奈々華が出迎えてくれた。随分早い起床だなと思ったが憔悴したような笑顔に、寝付けなかったことを悟った。職場の事情だとか頭から抜け落ちて、とても安易に、休めばよかったと思った。今日は久しぶりの休みだが、無理を言ってでも入れ替えてもらうべきだった、と。
奈々華は兄の出迎えが終わると、しばらくリビングでテレビを観ていたが、いつの間にかソファーに横たわって眠ってしまった。二階から毛布を持ってきて掛けてやった。奈々華のものが良いだろうかとも考えたが、本人の立会いもなく彼女の部屋に入るのは気が咎めた。
自分の、水色の少し匂う毛布を、上下に規則正しく揺らす妹の寝姿をしばらくの間ぼんやり見ていたが、やがて飽きて雑誌を開く。パチスロの攻略雑誌を見ながら、情報の取捨選択をしていると、いつの間にか七時半になっていた。体は激務に疲れ果てているはずなのに、妙に頭が覚醒していて、寝付けそうにない。奈々華を起こそうかと思って、立ち上がってソファーの傍まで行って、やめる。今日は休ませよう。
頭が冴えている原因は、相木の話を自分なりに考えていたせいだ。どうも消化不良で気色悪い。あの後城山が妖魔を亡骸にしてビルに戻ると、既に古市も相木も消えていた。警察署に連れて行ったらしい。つまり自身が抱いた疑問をぶつける機会を逸してしまった。疑問を疑問のまま抱えているのは、どうにも居心地が悪い。
それのうち一つは極々単純だった。しかしあの場では自分以外の人間が気づいた様子もなかった。
相木は何故、銀糸町まで出向いたのだろうか。馬券を買いたいなら、もっと近くに府外という、それこそ本物の競馬場がある。わざわざ遠出してまで銀糸町で買い求める必要性が感じられない。もっともこれはそれほど強い疑問ではない。たとえば友人知人が銀糸町の近くに住んでいて、一緒に買おうという約束があったのかもしれない。なんとなく遠出をしたくなったのかもしれない。銀糸町で買うとよく当たるとか彼なりの験かつぎがあるのかもしれない。とにかく不明瞭で強引だが、一応は推論も成り立たないこともない。
もう一つは疑問というよりは、嘘だ。彼は嘘をついている。彼は、殺戮犯がまだ潜んでいるかもしれない。それが怖くて隠れていたと言った。だが、彼を最初に見つけたとき、取り乱した中で言った言葉と矛盾している。ただいきなりコイツらが殺しあったんだ。確かにそう言った。殺戮犯というなら、既に事切れていた死体のその全員である。まだ現場に居るかも知れないというのは異なことである。それともあの時点で殺し合いに参加しながら生き残っている者が居たのだろうか。それにしても、それを殺戮犯と呼ぶのは違和感がある。まだ生き残りが居た、もしくはそれが確認できていなくても、居るかもしれないと思った。そう言えばいい。ボキャブラリーに深刻な問題を抱えていない限り、それくらいの言葉は、説明は出るはずだ。それこそ、嘘で真実に靄をかけたいという思惑でもなければ。
嘘の靄はもう一重かかっている。突然意識を失って、次に目を覚ました時には、既にあの場所は城山たちが見た状態になっていたという。死屍累々の惨状を見て、わけもわからぬまま恐ろしくなって隠れたにしては、キチンと様子を見ていたんだな、と思う。何故なら、争った痕跡があることに気づいていなければ、勝手に殺しあったなどという発言には至らない。そして、仮に観察してから隠れたというおよそ意味のわからないことをしていたとして、互いに殺しあったことを推察していたとして、よくもまあ、殺しあう様を見ていたように、はっきりと言えたものである。錯乱していたことを考慮に入れるとしても、断定するように言い切ったのは、やはり違和感を拭えない。いや、錯乱していたからこそ、本当に正直に言うのではないか。つまり、彼は現場の経過を見ていたのではないか。それを意識を失っていて、知らないと虚言を吐いたのでは……
「お兄ちゃん?」
声に、雑誌から目を上げると、奈々華が半身を起こしていた。少し目をしばたかせていたが、ふと何かに気づいたように掛け時計を仰ぎ見ると、口をあんぐり開けた。
「ああ、遅刻しちゃう!」
跳ね起きると、毛布が落ちる。
「あ、毛布」
ありがとう、と視線に込めて兄を見る。
「奈々華ちゃん。今日は休んだらどうかな?」
「え? でも」
「たまには良いんじゃないかな。無理にとは言わないけど、そんな疲れたまま行っても身が入らないんじゃない?」
言い出して、お節介が過ぎるんじゃないかと、城山は後悔しかける。
「それに、俺も心配だから。嫌かもしれないが、今日くらいは俺の目の届くところに居て欲しいかな」
語尾に向かうにつれ、どんどん声は小さくなる。そしてどんどん墓穴を掘っているような気がしてくる。うん、いやだ。そんな言葉が返ってきたら……
奈々華はやや考えて、少し瞳を潤ませて、それから了解した。
「今日はお休みだから、もしどこかに行きたいなら連れて行けるし」
「いいの?」
三のつく日に、城山のよく行くパチンコ屋が看板イベントを行っていることは、奈々華は勿論知らないが、それでもここ最近の夜勤や休日を自分にばかり付き合って、ろくに個人的な遊びをしていないことはわかっているので、そういうことを言っていた。城山としては自分の趣味と、たった一人の肉親の心の平穏は、はかりに掛けるまでもなかった。奈々華は何でもないように振舞ってはいるだろうが、流石に血を分けた兄妹。一度目の災難からようやく立ち直ったかというところに、まるで狙い撃ちのように襲われた二回目は、こたえている。察せていた。これでもしアホ面下げてパチンコをしているようだと、下衆以下だ。
城山は大袈裟に頷いてやる。
だったらスーパーに夕方あたりに行きたいという奈々華にもう一度優しく頷きながら考える。
三好に気づいたことを報告しなければならない。あの後も質疑応答はあっただろうから、ひょっとすると一つ目の疑問くらいは氷解しているかもしれない。だが虚偽が混じっているのではないかという疑念は、現場に居合わせた自分しか持ちえない筈だ。
一瞬仕事用に持たされている携帯を持って来ようかと考える。だが、奈々華が昨晩のような空元気ではなく、本当に嬉しそうな顔をしているのを見て、考え直す。あろうことか、残って欲しいなどと、こちらの事情も鑑みずに言った上司の顔と比べしまう。どうせ、また明日になれば嫌でも顔を合わせるのだ。今は忘れておいても罰は当たらないのではないか。
「今日はすき焼きにするから、一緒に食べよう?」
「うん。じゃあ折角だからご相伴にあずかろうかな。ありがとう」
胸のすくような気持ちいい受け答え。急にお鉢が回ってきた真田には申し訳ないが、残業を蹴って帰って良かったと本当に思った。
夜になって奈々華と夕食を共にした後、テレビのニュースで相木雅則が殺害されたことを知った。