第四十八話:金切り声明けたら
三好ハルは、癖のない猫毛を両手でかき回した。本当に追い詰められたときにやる癖で、いつか母にみっともないからとたしなめられたこともあった。
「何なのよ、いったい」
先ほど音邑がやってきて、たった今予見した妖魔の襲撃を伝えた。スケジュールのように箇条書きにされた紙を渡されたのは、かなり久しぶりのことだった。もちろん一体や二体なら、口頭で伝えていくだけである。つまりは、一度言っただけで覚えきれないだろうという配慮がなされる程の量ということである。
例を見ない。昼間には極稀にあることだが、夜勤でというのは記憶にない。
何かがおかしい。まるで昼夜が逆転したような状態だ。いや、逆転したわけではない。昼間にもこれまでとさして変わらないだけの妖魔が出ている。つまり夜勤帯に出る妖魔が爆発的に増えているのだ。これまでのサンプリングが全て水泡に帰すような異常事態だ。
何かが起こっているのだろうか。何か良くないことが。
「三好」
襖の向こうに人の気配を感じ、姿勢を正したとほぼ同時に声がかけられる。
「すまん。またスクランブルだ。場所は、さっきと同じ、枯葉台だ」
三好はふすまを開けようかとも思ったが、どうも音邑のほうが落ち着かない雰囲気だった。早く部屋に戻ってまた予見に入りたいのだろう。邪魔をするつもりはなかった。だから了承の意だけを返す。そうして足音が遠くなりかけた時、立ち上がって襖を開けた。廊下に出て呼び止める。
「音邑さん。その……」
「なんだ?」
「えっと、城山さんと乃木さんは上手くやっていますか。そこまでわかりませんか?」
聞きながら後悔に襲われる。何故か城山の顔が浮かんで、つい聞いてしまった。保護者じゃあるまいし、当人同士も、もういい大人なのだから心配には及ばないはずなのに、尋ねたくなった。
音邑は口を噤む。そのサングラスの向こうが、見えなくて、彼が何を考えているのかわからなかった。目を見開いて驚いているのか。はたまた瞑目して言われた通り彼らの様子を見ようとしているのか。
時計の長針が一周する頃に、おもむろに口を開いた。
「よくは見えんが、恐らくは大丈夫だろう。仲良く共闘とはいかんが、それでも反目しあって傷つけあっている様子は見えない」
「……そうですか。ありがとうございます」
知らず胸を撫でおろしてる自分がいた。
両の手に握られたトンファーを、押さえ込む。両手と両手が、がっぷりよつ。しかし膠着状態は長く続かず、すっと引いた乃木の右腕が、再び鞭のようにしなり……
あらぬ方向を打った。鈍い音がかすかに響き、空より襲い来た妖魔がよろめきながら、宙を舞って距離を取る。
「ここまで来てお預けたあ、本当に俺は神様に好かれていないらしい」
毒づくよりは自らを憫笑するような口調で言って、城山から離れる。
「どうするんですか?」
夜空に浮かぶ場違いな生き物を眇めるように見ながら、城山は問う。ハーピー。実物を見るのは初めてではあったが、十河のたゆまぬサイト運営のおかげで、城山も姿形は予め知っていた。
赤茶けた羽毛を、体の至る所に生やし、なにやら身軽な鎧のようにも見える。胴体の部分は人間と変わらぬ様相で、足から陰部までの辺りがその毛で覆われていて、腹はまるで人間。へそまである。体のつくりを見ると男性のそれで、筋肉質な体躯。更に視線を上げていくと、胸元から首筋までがまた羽毛に包まれている。顔もまた人と同じようなパーツを揃えているが、表情というものがまるで無く、マネキン人形のような印象を受ける。背中からは猛禽よりも力強く大きな羽が一対生えており、それを周期的にはばたかせて中空に滞在している。
「まあ、お前はすでに一体倒した後だろう? 俺がやろう」
自分と城山の間でアンフェアーがあるのが我慢ならないということらしい。だがそれは十河の義理堅さとは性質がまるで異なる。条件を同じくして、正々堂々とさっき言った殺し合いなるものをしたい、そういう意思が明確に見て取れた。
そういうことなら是非も無い。城山は民家のコンクリート塀に背を預けて、高みの見物といくことにした。
ハーピーが、まるで話がまとまるのを待っていたかのように、その瞬間乃木の方へ滑空していく。城山は目を細めて成り行きを見守る。その一方で、いつか見たデータベースの記録を、脳内から引っ張り上げる。確か、ハーピーの戦法はヒットアンドアウェイ。制空権という圧倒的なアドバンテージを生かし、滑空からの攻撃、撤退を繰り返し、獲物を弱らせる、そういうやり口だった筈だ。
情報に間違いはなかった。滑空し、人間なら足の指となっている場所、そこには鋭いカギ爪が生えていて、そいつで引っかくように攻撃を加える。そしてその成否に限らず、反撃を食らう前に再び空を舞う。堅実で理にかなった方法である。本能に刻まれた知恵か、聡いと評されるその頭で考えた作戦か、どちらかはわかりかねるが。
乃木はその空からの攻撃を全て鉄のトンファーで受け、夜の闇に盛んに火花を散らしていた。タイミングを測っているのだとは城山はすぐに気づいた。そして彼が狙っているであろう具体的なカウンター方法についてもおぼろげながら当たりがついている。仕掛けるとしたら……
幾度目になるかもわからない滑空からの爪による攻撃。だが今度は乃木は簡単に弾くだけではなく、攻勢に打って出る。トンファーと腕の間のわずかな隙間をわざと広げ、そこでその爪を受ける。いや絡め取るといったほうが正確か。狭間に引っかかった爪を、今度は武器と腕の間で締める。そしてそのまま腕を回して、ついにハーピーを地面に叩きつけた。そしてもう片方の手がその体に容赦なく振るわれる。残像が見えるような、鋭くて無駄のない振りだった。
バキッと骨を砕くような音が無音の世界に波紋のように広がる。
殴られたハーピーが頭から血を流し、息を大きく吸い込むのが見えた。肺に空気を溜め込むとき、腹がへこんで僅かにアバラが浮き上がった。
城山は勉強熱心な過去の自分をそっと心の中で褒め称える。上着のポケットから抜き出し、手の平で転がしていたパチンコ球を二つ、イヤホンのように耳の穴に埋め込んだ。
「きあああああああああああ」
耳栓をしてなお、断末魔は鼓膜を震わせた。乃木のほうはと見ると、殴った後すぐに距離を取ったようで、少し離れた場所で耳の穴に両の人差し指を突っ込んで耐えているようだった。
金属をしっちゃかめっちゃか引っかき回したような生理的嫌悪を起こす声が、やがて小さくなり、完全に立ち消えるまで、ゆうに一分は掛かっただろう。
ハーピーの金切り声は、耳をつんざく。一番の懸案事項は、狡猾なヒットアンドアウェイ戦法ではなく、こちらだった。予備知識がなかったら、城山の鼓膜は破けていたかもしれない。まあその名を知って、伝承を知っていれば、加えて乃木の様子になんらか只ならぬものを感じられる洞察力があれば初見でもかわせるだろうが。
城山は銀球をほじくりだす。
「へえ。用意がいいな」
乃木が歩み寄りながら声をかけてくる。城山は新人なんだから、金切り声のこと、一言くらい注意があっても良かったのではないか、と思う。そしてすぐ、自分を殺そうとした人間に親切を求めるなんて、あまりに不毛なことだと気づく。
「……たまたま持ってただけですよ」
傍観している間に、上着のポケットに手を突っ込んだらあっただけ。いつのものかと記憶を探ると、店員に箱を流してもらうときに、ぽろぽろ零れたものを、勿体無いと拾ったはいいが、みみっちい気がして結局一緒に流してくれと言い出せずに、無意識的にしまったものだった。
「ところで、まだやりますか?」
殺し合い。
「んー。なんか興が殺がれたんだよな。しかもお前、本来徒手じゃないんだろう?」
「ああ、気づかれましたか」
「見くびるなよ? ……っとと」
乃木が言葉の途中で、あごを上げる。世界が元に戻り始めている。
「まあ、どっちにしろ、延期ってことになりそうだな」
戻ってきた世界。元の静寂だけど、どこかほっとするような郊外の風景。城山が予想したものはそこにはなかった。
「神様は、本当に日陰者には冷たいねえ」
ぼそりと呟く乃木の声が、場にそぐわない暢気な響きを伴って、城山の耳に届いた。