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伏魔殿の常識は  作者: ポンカス
第二章:東京夢物語
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第四十五話:PERFUME

「お兄ちゃん、口元ケチャップついてるよ」

対面の席に座る奈々華に注意されて、ナプキンを取って拭った。血糊のような赤さに、何となく彼女に見えないように畳んで皿の端に置いた。くすりと慈愛に満ちたような顔で笑う奈々華に、居心地の悪さを感じながら、彼女の皿を見た。半分以上は片付いているが、まだもう少しかかりそうだ。

本日も夜勤ということだった。一月しか働いていないのだが、それでも連荘というのは珍しい事態ではなかろうかと推量する。なんにせよ、上の意向に従うだけの自分にとっては、リャンハン縛りだろうがパーレンチャンだろうが、甘受するだけのことだ。

「でも外食なんて久しぶりだなあ」

それでも、彼女がこれほど喜んでくれるのなら、夜勤というのも悪くはないのかもしれないという気持ちにさせられる。昨日は特に差し迫った用もなかったので、自分のほうを優先したが、今日は妹に付き合うことにした。

実は城山の方から誘ってみた。先日、迎えが遅れて奈々華を随分待たせることがあった。そのお詫びというのが一つ。すっかり家にこもりがちになってしまった妹の為に、たまには気分転換に外に連れ出した方が良いのではないかというのがもう一つ。どちらも求められたわけではないので、それなりに気兼ねはあったが、誘った。彼女の方からは外に出たいと思っていてもやはり、言い出しにくいことではないかと思ったのだ。いわば遠慮の攻めというよくわからない心の動きの推移を経て、今日は外で一緒に食べないかい、と切り出してみると二つ返事で快諾された。どころか礼まで言われた始末。

「オムライスなんて、あまり高級感はないけどね」

「そんなことないよ。何処でもいいよ。何処でも嬉しい」

お兄ちゃんといけるなら。以前の彼女はそう続けただろう。恥ずかしげもなく。だが今の彼女にそういった気持ちがあるかまでは、兄にはわからなかった。多分、無いだろうな。そう悪い意味で割り切ってしまった方が楽なことに気づいたのはいつ頃からなのか、もう城山自身覚えていない。

奈々華の様子をあまり嫌がられないだろう程度に窺いながら、食べるのを待つ。こんなに遅かったかと、記憶をほじくり返すが、もうそんな瑣末なことまでは思い出せない。奈々華は、あまり口を大きく開けないように意識して、口元を汚さないよう注意して、慎重にスプーンを動かしていた。

やがてそれから十分近くかけて食べ終わった。口元を丁寧に拭って、城山と同じように皿の上に紙ナプキンを置いた。

「ご馳走様」

払いは当然、城山もちである。

「いや。もっと良い所でも良かったんだけどね、本当に」

奈々華は困ったように笑うだけで、肯定も否定もしなかった。代わりにちょっと躊躇った様子で言葉を紡ぐ。

「お仕事、どう?」

ほぼ一月働ききった、その所感。

「うん。まあへっちゃらだよ」

「……」

「まあみんな良くしてくれるし、仕事自体は楽なものだしね」

本当かよ、と自分で言っていておかしくなる。

会話に詰まり、ぼんやり視線をさまよわせる。客の入りは五分というところ。夕飯時、平日、どちらをどれだけ考慮に入れて、どれくらいの入りで満足するべき数字なのか、城山にはわからない。加えて、客単価だとか、人件費だとか、食材費だとか、諸々考慮に入れるべきだと気づいた日には、もうお手上げ。くだらないことを考えているな、とはわかっていても、会話の続かない妹の顔をまじまじ見つめている気にもならなかった。

「出ようか」

そんな様子の城山に、奈々華の方から切り出した。



少し歩くと、閻魔こおろぎの鳴き声が輪唱のように重なり合っている空き地を過ぎた。すっかり秋だねと呟く奈々華に、そうだねとだけ返して、また沈黙が降りた。時計を見る。九時前にこっちを出れば余裕で時間内に着くので、丸々一時間以上の猶予があった。だけど、これ以上どこかへ行く気にはならなかった。

のんびりと歩く奈々華の歩調に合わせていると、やはりこんなに遅かったかと怪訝な気持ちになった。秋風が時折思い出したように吹いて、前を歩く彼女の髪の匂いを攫って、城山の鼻の近くを通って後ろへ過ぎていく。ふ、とあることを思い出した。

「奈々華ちゃん」

「え?」

奈々華が首だけ振り返る。

「キミは香水とかつけてる?」

「え。う、うん。つけてはいるよ」

月明かりに照らされた奈々華の顔は、喜びのような驚きのような表情をしていた。城山は困った。本当に思いつきに近くて、声をかけてみて初めて、続きの言葉を用意していなかったことに気づいた。どんなのつけてるんだい。そこはかとなくいやらしい気がする。ふうん、そっか。なぜ聞いたのかわからない。結局、それらしい言葉を見つけるのに、たっぷり三十秒ほどかかった。

「どこのメーカーの?」

「え?」

えっと、と困惑がちに会社の名前を告げてくれる。さっぱりわからなかった。

「えっと、家に帰ったら少し嗅がせてくれないかい?」

「……つけたいの?」

奈々華の顔に少し不穏なものを感じる。踏み込みすぎたのか、と背筋が寒くなる。

「あの、無理にとは言わないから……」

「今無いよ。丁度きらしてる」

「そっか」

やはりこれは拒絶なのか。口をついて出そうになる謝罪の言葉を、しかし一旦喉元で止めて、神経を逆なでするような蓋然性がいぜんせいを持っていないか吟味する。早く謝った方がいい、だけど言葉は厳選されていなければならない。背反する難題を同時に押し付けられたようで、心臓が変な熱を持つ。口を開きかけた時、

「だから、知りたいなら、今」

「え?」

随分と間抜けな声が出る。

「今、嗅いで?」

どうにも言われている事の意味が、脳の表面で上滑りするばかりで、その中にまで入ってこない。

奈々華が一歩、二歩、道を引き返してきて、城山の正面に近い距離で立ち止まった。

「あの」

「知りたいんじゃないの?」

責めるようではなく、優しく諭すような口調。気がつけば城山は奈々華の首筋に鼻を近づけて、その匂いを嗅いでいた。熱病のように頭がくらくらする。いい匂いだ。純粋にそう思った。どれくらい嗅いでいたか、やがて城山の頭が目的意識を取り戻す。ああそうだ。呆けている場合じゃない。折角の厚意なのだから、よく嗅いで識別しなくては。もうこんなお願いは金輪際、逆立ちしても出来ないだろうから、今やらないと。

違う。すぐに答えは出た。仕事で何度もつけているのだから、流石に間違わない。

離れる。心のどこかに未練のようなものが巣食っているのに気づいたが、放っておいた。二、三度深く呼吸をして、頭を落ち着ける。

「ありがとう」

ごめんなさい、じゃないのか。

「うん。どうだった?」

「えっと、そうだね。検討してみるよ」

似た匂いすらしなかった。だったらなぜ。なぜあの時奈々華は狙われたのか。

「そっか。じゃあ帰ろう?」

ふっと笑って妹はまた背を向ける。のんびり歩き始める。

未だ疑問に対して憶測が飛び交う脳内で、一つ関係のないことを思い出す。前回の休みの時、先月末だ、彼女は香水が切れたと言って、新しいものを買ったばかりではなかったか。

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